8 世紀に秋田城は大和朝廷の実効支配の及ばない辺境地域に孤城として構築・維持された。その背景には、北方から来航する渤海使をそこで受け入れ、時には送還する必要性があったとの事情がある。渤海使の来航は不規則かつ予測不可能であったために、770 年にいったんは秋田城の廃止を決めたにもかかわらず10 年後に決定が撤回されるということも起きた。秋田城の存続が渤海使の来航に依存する状況は、大型船の建造技術の習得によって渤海使が訪日航路を北方迂回ルートから日本海横断ルートに変更する8 世紀末まで続く。それ以後、秋田城は外交使節の応接施設として性格を失い、外観すらも変えることになった。