2007 年 56 巻 1 号 p. 60-63
江戸幕府が開かれ、学問奨励の機運が高まる中、本願寺派においても教学研鑽機関である学林が成立した。ここに言う西吟とは、その学林の初代能化である。西吟は慶長十(一六〇五)年に生まれ、正保四(一六四七)年に能化に就任している。西吟は能化就任の六年後、承応二(一六五三)年に同じく了尊を師とする兄弟子の月感から、「自性一心の理談のみにて、禦安心の談は曾て以て御座なき」と、その教学が異端であると批判され、「承応の鬩牆」と呼ばれる論争を展開したことで有名である。西吟に対する先行研究では、論争を展開した西吟・月感を対照し、西吟教学の当否が検討され、多くの成果があげられている。そこで本論では少し視点を変え、西吟の真如理解が彼の教学の中でどのような位置づけにあるのかという問題設定の下、理事相即を基本とした西吟の教学思想の論理的構造について検討してみたい。