印度學佛教學研究
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バーヴィヴェーカの世俗観
――外界対象と分別――
田村 昌己
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2010 年 58 巻 3 号 p. 1224-1228

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抄録

本論文の目的は,『中観心論』(Madhyamakahrdayakarika)第5章第51偈から第56偈に基づいて,バーヴィヴェーカ(Bhaviveka,ca.490-570)の世俗観の一端を明らかにすることである.バーヴィヴェーカは同箇所において瑜伽行派の主張する入無相方便(asallaksananupravesopaya)及び遍計所執性(parikalpitasvabhava)について批判している.瑜伽行派の見解によれば,我々の経験世界は所取・能取の世界である.そして,所取・能取は構想されたものに過ぎず実在しないものであり,所取・能取に対する分別・執着は唯識の認識即ち外界対象の否定によって滅せられる.これに対してバーヴィヴェーカは,分別・執着の滅は自性の非認識の修習に基づくと考える.彼によれば,経験される色等の事物は世俗のレベルでは自性を有するものであるが,勝義のレベルでは自性を有さないものである.そのような事物に対する分別・執着は事物の自性を否定することによって滅する.分別・執着の滅に対して外界対象の否定はそれをもたらす手段とはならない.色等の外界対象に対して分別が生じる.分別には妥当な分別とそうでない分別(錯誤知)とがある.『思択炎』(Tarkajvala)によれば,分別の対象にはあるがままの部分(yang dag pa ji 1ta ba bzhin nyid kyi cha,*yathabhutamsa)と誤った部分('khrul pa'i cha,*bhrantamsa)とがあり,それに対応して分別がそれぞれ生じる.バーヴィヴェーカは外界対象に対して妥当な分別が生じうると考えている.ただし,分別の妥当性はあくまで世俗のレベルで認められるに過ぎないということに注意しなければならない.外界に存在する縄に対して起こる「これは縄である」という分別が世俗のレベルで妥当な知であるとしても,それは縄を有自性なるものとして捉える知なのである.

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© 2010 日本印度学仏教学会
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