印度學佛教學研究
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「其罪畢已」
――日蓮と常不軽菩薩――
鈴木 隆泰
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2017 年 65 巻 3 号 p. 1147-1155

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抄録

『法華経』の「常不軽菩薩品」に登場する常不軽という名の出家菩薩は,増上慢の四衆にひたすら成仏の授記をし続け,そのことで彼らから誹謗,迫害を受けた.増上慢の四衆は常不軽を誹謗・迫害した罪で死後無間地獄に堕ちたが,自ら罪を畢え已わった後に常不軽と再会し,彼から『法華経』を教示され(=成仏の授記を受け),無上菩提へ向かう者となったとされる.ところが羅什訳の『妙法華』のみ,死時に臨んで常不軽が「其の罪,畢え已わって」(其罪畢已)としている.しかし,なぜ彼に罪があるのか,あるとすれば何の罪なのかが解明されないまま,今日に至っていた.

従来看過されていた事実として,Suzuki Takayasuは「常不軽菩薩品」に二種類の誹謗者が表されていることを明らかにした.二種類とは “『法華経』に出会う前の,『法華経』という仏語なしに無効な授記をしていた常不軽”(常不軽 ①)を誹謗した者たち(誹謗者 ①)と,“『法華経』に出会った後の,『法華経』という仏語をもって有効な授記をしていた常不軽”(常不軽 ②)を誹謗した者たち(誹謗者 ②)であり,後者の誹謗者 ② のみが,『法華経』説示者を誹謗した罪で堕地獄する.ところが『妙法華』のみ,常不軽 ② が『法華経』を説示していたという記述を欠いており,常不軽 ①と常不軽 ② との差違が判別しがたくなっている.

『法華経』の主張(『法華経』抜きに如来滅後に一切皆成の授記はできない.だからこそ,如来滅後にはこの『法華経』を説いて如来の名代として授記をせよ.如来のハタラキを肩代わりせよ)から判断して,常不軽 ① と常不軽 ② の差違は『法華経』にとって本質的であり,原典レベルで「其罪畢已」に相当する記述があったとは考えられない.羅什の参照した「亀茲(クチャ)の文」が特殊であったため,常不軽 ① と常不軽 ② との差違が判別しがたく,誹謗者 ① と誹謗者 ② を分ける必要が,漢訳段階で生じたものと考えるのが妥当である.しかし,そのために「其罪畢已」という文章を編み出したのは,羅什が『妙法華』訳出以前に『金剛般若経』を知っていたためと考えられる.

この「其罪畢已」という一節が,日本の日蓮に絶大な影響を与えた.日蓮宗の開祖である日蓮は,以前に念仏者・真言者であったため,「其罪畢已」の「罪」を過去の謗法罪と理解した上で,自らを常不軽と重ね合わせ,〈法華経の行者〉としての自覚を確立し,深めていった.

もし『妙法華』に「其罪畢已」の一節がなかったとしたら,日蓮は〈法華経の行者〉としての自覚を確立できず,その結果,『法華経』に向き合う姿勢を変えた可能性が高い.あるいは『法華経』信仰を捨てていた可能性まで考えられる.『開目抄』に見られる,「なぜ自分には諸天善神の加護がないのか」「自分は〈法華経の行者〉ではないのか」の解答の源は,「其罪畢已」以外には見出せないからである.

もし『妙法華』に「其罪畢已」の一節がなかったとしたら,中世以降今日に至る日本仏教は,現在とは大きく違った姿をしていたであろう.まさに,「大乗経典が外的世界を創出」(下田正弘)した好例である.『妙法華』に存するたった一個のフレーズ「其罪畢已」が,今日の日本の宗教界のみならず,社会の一側面を創出したのである.

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© 2017 日本印度学仏教学会
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