印度學佛教學研究
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『法華経』における〈テーゼ〉と〈アンチテーゼ〉
鈴木 隆泰
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2018 年 66 巻 3 号 p. 1071-1078

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抄録

『法華経』(全27章)のうち「如来神力品:20」には,釈尊自らが教化してきた地涌の菩薩のみに『法華経』を委嘱するという〈別付嘱(ぺっぷぞく)〉が説かれる一方で,最終章の「嘱累品:27」には,全ての菩薩に『法華経』を委嘱する〈総付嘱(そうふぞく)〉が説かれる.このように『法華経』には,別付嘱に代表される「純化・排他的姿勢」と,総付嘱に代表される「融和的姿勢」の混在が確認されており,どちらの姿勢が『法華経』にとって本来的・本質的かの議論は,いまだ結論をみていなかった.

『法華経』の内容を再吟味した結果,「序品:1」から「如来神力品:20」に至る教説は,

先達の如来から成仏の授記を与えられない者は,いかに修行しようとも成仏することができない.『法華経』の制作者たちは,釈尊入滅後の〈成仏の授記を与えてくれる如来がいない時代〉という強い意識のもと,釈尊の意義を,“説法によって現在化され衆生に授記を与えて利益する〈現実のハタラキ〉”と捉えた.そして,このことを自覚し釈尊の〈ハタラキ〉を代行する法師(地涌の菩薩)が存在し,仏語にして釈尊そのものである『法華経』を説示して衆生に授記を与え続ける限り,釈尊も永遠にこの世に存在し続けることになる.

という,純化・排他的姿勢を中心とした唯一の文脈の中に位置づけられることが確認された.この文脈を,『法華経』の〈メインストリーム,テーゼ(正)〉と呼ぶことにする.

『法華経』にとって,『法華経』を説示して成仏の授記を与え,釈尊滅後にその〈ハタラキ〉を現在化する行為は,経典の成立・存在理由の根底を形成しており,何らかの別行為(象徴行為等)によって代替することは不可能である.ところが「巻末七本」の「普賢菩薩勧発品:26」では,「普賢菩薩の名号受持という象徴行為によって『法華経』聞法と代替可能」という教説が展開されており,これは『法華経』にとって〈アンチテーゼ(反)〉となる.総付嘱も,「誹謗者の堕地獄回避」の問題に有効な解決策を示していない以上,『法華経』にとって本来的ではないといえる(アンチテーゼ,反).『法華経』における「融和姿勢」とは,実は「正と反を止揚して合を目指すもの」ではなく,「正と反の混在,夾雑を放置する姿勢」であったのである.

段階成立か否かに関わらず,『法華経』は紀元三世紀の竺法護訳以降,一貫して現在の全27章構成を維持し続けてきた.インドにおける『法華経』の“編纂者,実践者”が『法華経』の教説における夾雑状態を放置してきたという事実は,インドにおける『法華経』の実践が実質上,「書写を通した功徳の獲得」に限定されており,『法華経』はどこまでも「エクリチュール」として存在していたことの一証左と考えられる.

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