2018 年 66 巻 3 号 p. 1157-1161
中国の初唐(6–7世紀)において,三人の学僧である相州の日光寺の法礪(569–635),終南山の豊徳寺の道宣(596–667)と京の長安の崇福寺の東塔の懐素(634–707)が,『四分律』に対する注釈書を執筆し,それぞれ相部宗,南山宗,東塔宗という三つの戒律学の系統が形成される.
本稿では,各者の論書に見える戒体論の内容と相違点を考察する.結果として,道宣は初め『行事鈔』において『成実論』による「非色非心説」を用い,後に『羯磨疏』では「種子戒体説」を主張するのに対して,法礪と懐素は有部系の「色法戒体説」を主張するようである.法礪と懐素の戒体論については,さらなる検討の余地があるが,三人は皆四分律宗の伝統的な解釈の拠り所とされる『成実論』の説を批判するので,当時には『成実論』を律宗の解釈では用い難くなっていたのではなかろうか.