2018 年 66 巻 3 号 p. 1162-1168
南宋代,鉄翁守一(1182–1254頃)と上翁妙蓮(1182–1262)の間には,南山宗義の中心的思想を「観」とみるか「戒」とみるかということをめぐって論争が行われた.守一は道宣著作に由来する「南山三観」を三諦の真理を観得する「天台三観」と同一視し,真理を感得する方法こそ,宗祖道宣の主張したことであったと宣言した.一方の妙蓮は「南山三観」は自ら犯した罪を対象として行う観法について述べられたものであり,あくまで懺悔法であって,真理を対象としたものではないとし,道宣の主張はあくまでも持律持戒を旨とするものであったと反論する.両者は幾度も文書を提出し,30年近く論争を続けた.
南宋における両者の論争は,この時期商船に便乗して日中間を往来する日本僧によって継続的に見守られ,その経緯が日本に伝えられたと考えられる.守一の元へは曇照(1187–1259,入宋1214–1220,1233–?)が参学しており(『碧山日録』),妙蓮の元へは1208–1252年の間に多くの日本からの「学律の者」が集ったとされ,そのうち「忍・敬の二法師」「範法師」,真照の名が残っている(『蓬折箴』・『円照上人行状』).
両者の論争は日本の著作内でもいくつか紹介されているものの,管見の限りそれらは全て,増受・不増受についての記述に特化したものである.すなわち守一は不増受の立場を採って一度の受戒で菩薩僧になれると主張し,妙蓮は増受の立場を採って具足戒と菩薩戒を重受しなければ菩薩僧としては認められないと主張した,ということのみが強調されている.このことから,両者の論争は増受・不増受をめぐるものであったと単純化されて日本に広まったものと考えられる.