2018 年 66 巻 3 号 p. 1169-1174
癡兀大慧は,東福寺の開山である聖一国師円爾の高弟の一人で,自身も同寺の第九世をつとめた鎌倉末期の臨済宗聖一派の僧である.
すでに小川豊生と伊藤聡の二氏に加えて,筆者自身も指摘するように,この癡兀大慧が残した口決と,同じく鎌倉末以降の成立と考えられる真言密教関連の典籍『纂元面授』の間には,少なからず共通の記述・教説が見出される.その中には,後代「立川流」のレッテルを貼られ,「邪義」「邪流」と評されることになる独自の本有説も含まれる.このように癡兀大慧の口決と『纂元面授』がほぼ同じ内容の本有説を述べる理由として,おおよそ以下の三つが考えられよう.①『纂元面授』に記載される同説を癡兀大慧が参照した.②元来,両者が等しく関与した法流(醍醐寺三宝院流等)の「秘密口決」だった.③癡兀大慧が発信した説を『纂元面授』の作者が参照した.
本論文では,上述の小川氏と伊藤氏に加えて,末木文美士氏,菊地大樹氏,加藤みち子氏等の研究成果も踏まえて,癡兀大慧の口決の記録である『灌頂秘口決』『東寺印信等口決』の記述を検討し,さらに,それらを『纂元面授』の記述と比較することで,上記①②③の何れが妥当な理由か,解答を試みた.結論として,もともと両者が関与した法流の秘説であった可能性は残るものの,『纂元面授』の本有説自体は,癡兀大慧『灌頂秘口決』のそれに基づいている公算が高いことが明らかとなった.
末木氏も議論するように,中世日本の禅僧,特に禅・密・天台の兼修を主唱する臨済宗の僧にとって,密教はきわめて重要な意味を持ち,その事教二相の伝授・相承が盛んに営まれた.ただ,その密教として,従来は天台密教のみが想定されていたが,今回の検討から,中世期の禅僧が真言密教とも密接な繋がりを有し,その秘密口決の生成・発信に深く関与していたことが明らかになったといえる.