2024 年 2024 巻 6 号 論文ID: JRJ20240603
2011年3月11日に東日本大震災が発生してから13年あまりが経過しました.その当時は,私は東京大学高齢社会総合研究機構(IOG)の機構長で,オール東大で高齢社会の課題解決に向けた取り組みを行っていて,2030年頃の日本の姿を描き,そこに至るロードマップを作成したりしていました.東北の被災地は過疎化が進む地域が多く,そこでの復旧・復興は,日ごろ議論をしていたことの実践とも言え,発災直後からいろいろ動きました.(K元総長からは,「被災地の復興に貢献できなければ,おまえらの組織(IOG)の存在価値ねえからな」とげきを飛ばされました.)
3月中は避難所への支援ということで,医師や保健師の派遣がメインで,それらの後方支援をしながら,情報収集を行いました.そして次のステップとしては仮設住宅の建設に向けて,阪神・淡路大震災(1995年)の経験を踏まえて,「コミュニティケア型仮設住宅」のコンセプトを,建築・都市工学の先生方と作りこみました.高齢者の孤立によるフレイル化・体調悪化を避けるために,コミュニティが形成されるように,またケアが行き届くようにサポート機能を持たせるといった工夫をしたものです.
発災直後の混乱から,次のステップに移行する段階になり,5月の初旬の3日間,教員5名で被災地訪問することにしました.まだ東北新幹線は動いておらず,沿岸の宿も無い状況で,行きは飛行機で花巻へ,宿も新花巻として,レンタカーで沿岸を往復する形としました.対象は,元々つながりがあったり,事前にアポが取れたところとし,津波被害が大きい陸前高田,釜石,大槌,そして内陸の遠野に行くこととしました.
最初に訪問したのが陸前高田.被害の大きさに声が出ませんでした.(写真1) 一部が浸水した小学校で活動しているボランティア,自衛隊の基地になっていた自動車学校の校長らに話を聞き,仮設の市役所に行き,仮設住宅の建設計画を伺いました.一日も早く仮設住宅の建設をという声が強く,既に計画は固まっていて,そこでは新しい提案はできませんでした.その後,新花巻まで戻り,岩手県立大の先生方と意見交換しました.2日目は,まず釜石へ向かいました.釜石では当初,天皇皇后両陛下ご訪問予定で市長との面談が難しかったところ,強風でご訪問が延期になり,市長と直接話ができ,われわれの提案のコミュニティケア型仮設住宅に賛同いただくことができました.釜石の最後の仮設団地となる予定だった平田運動公園をこのコンセプトで行くことにし,県庁に掛け合ってくれました.その後,大槌で役場関係者のアポを取っていたので向かいましたが,混乱期のため予定通りいかず,一方で福祉課関係者と意見交換できました.さらに,釜石の件で盛岡の県庁に遠路走っていき,提案したコンセプトの仮設団地の建設について関係者の了解を得ることをしました.3日目は,遠野のボランティアセンターと市長のアポが取れ,同様の仮設住宅のコンセプト提案をしたところ,市長の賛同が得られ,そこでも小規模ながらコミュニティケア型仮設住宅の建設が決まりました.そして,釜石に向かい,県の沿岸広域振興局を訪問し,再度市役所へ行き,詳細の調整を行いました.それから大槌に行き,各地から派遣された保健師の活動状況やニーズを伺い,帰路は新幹線で戻りました.3日間のハードスケジュールで900㎞くらいの行程を全部私が運転しましたが,現地の状況を十分知ることができ,釜石と遠野で提案したコンセプトの仮設住宅が建つことが決まりました.そんなこんなの初めての被災地入りでしたが,その後約5年で80回ほど現地に通うことになりました.
写真1 陸前高田の被害状況
遠野の仮設住宅は7月に,釜石の仮設団地の住宅部分は8月に完成し,入居が始まりました.(釜石の仮設団地全体の完成は12月) 住居を向かい合わせにして,その間をウッドデッキでかさ上げしてバリフリーとし,さらにそこに屋根を付けることにより,狭い仮設住宅から外に出て,その空間でご近所同士話がはずむようなコミュニティ形成の場としてのコンセプトが実現でき,メディア等でも大きく取り上げられました.(新聞報道を天皇皇后両陛下がご覧になって,話を聞きたいとおっしゃられ,皇居にご説明に伺ったこともありました)
釜石の平田公園の仮設団地は240戸と大きいもので,住宅(国交省)のほか,サポートセンター(厚労省),店舗(中小企業庁),路線バス乗り場を設け,それらをウッドデッキでバリアフリーにつなぐように設計し,省庁の所掌が縦割りなので,それぞれの建物が別個に建設されるため,床高が揃えられてバリアフリーが実現できるか少々心配の面もありましたが,現場の大工さんがうまく施工をしてくれて,見事に面一でつながることができました.サポートセンターには診療所・訪問看護の機能を持たせることで,きめ細かく入居者の健康チェックが行き届き,他の仮設団地に比べて具合が悪くなる人や救急車の要請回数がぐっと少なくなるといった効果が出せました.(写真2,3)
写真2 遠野市でのコミュニティケア型仮設住宅
写真3 釜石市平田公園に建設されたコミュニティケア型仮設団地
このような成果から,東大IOGが提案したコミュニティケア型仮設住宅は,国交省,学会などからの表彰,またグッドデザイン賞のベスト100にも選ばれ,その後の災害時の対応にも,この種のコンセプトが大事であることが受け継がれています.
東日本大震災の仮設住宅は,復興事業に非常に時間がかかることから,それまでの仮設住宅より極めて長く使用することになり,マスコミ等は狭くて貧弱な仮設に住民を閉じ込めておくのはけしからんといった風潮で報道されていましたが,実際の住人に話を聞くと,ご近所の方々との距離が近く,新たなコミュニティができて,それなりに楽しく暮らしているという意見も多くあり,住まいが貧弱でもコミュニティの重要さを痛感しました.
東大IOGでは,大槌と釜石を重点対象として支援を続けていくことにしました.いずれも津波被害で中心部が壊滅し,仮設住宅はかなり離れた不便な所に建設され,住民は高齢者等から出来たところに収容していったので,元々のコミュニティはバラバラになり,仮設住宅でのコミュニティづくりからの支援スタートでした.
学内の都市工学・建築の先生方中心に,復興計画やコミュニティづくりに力を入れるほか,私は移動の足が重要であると考え,いくつかの取り組みを実施しました.ここでは大槌でのパーソナルモビリティの話を記述し,釜石でのデマンドバス等の話は (2) で執筆することにします.
東日本大震災の被災地では,津波被害が大きく,自動車が流されて使用不能になったものが極めて多く,マイカー使用をどのように復活させるかが重要な話でしたが,仮設住宅の生活が落ち着いたころ,マイカー使用者は徐々に前のように戻りつつあり,マイカーが使えない層が外出手段がなく閉じこもり状態になっていました.そこで,パーソナルモビリティがうまく役割を果たせないか,2012年後半から東大IOGと企業コンソーシアムでの取り組みを始めました.免許保有者には超小型EVや6 km/hを超えるハンドル形電動車椅子(中国製でミニカー登録で公道走行可)を,免許なしの方々にはハンドル形電動車椅子や3輪の電動アシスト自転車などを体験していただき,一部は長期モニター使用をお願いすることとしました.
ショッピングセンターの屋上駐車場を借りたり,仮設住宅に出向いての試乗会を繰り返し,さらにはかさ上げ工事で通行止めとなった旧県道を借りてナンバー無しの車両等も含めた試乗会も実施しました.そこでは,6 km/hの速度では遅すぎで,15 km /h程度出せるものが好評.1人乗りの超小型EVも好評であるが車に近いので2人で乗れるといいといった評価でした.また電動アシスト自転車は3輪や4輪だと転倒のリスクが小さい点はいいが,坂道の下りでブレーキを掛け続けるシーンはつらいという指摘がありました.(電動車椅子等では一定速度以上でない構造になっていて,またアクセルレバーを放せばブレーキがかかる構造で,安心という評価でした)(写真4,5)
写真4 スーパー屋上での試乗会の様子
写真5 通行止めの旧県道を借りての試乗会
超小型EVコムスは長期のモニター実証も行いましたが,小回り利いて運転しやすいという高評価の一方で,復興工事で大型ダンプが走り回る環境では怖いという指摘もありました.試乗会を実施して,当初の想定以上に好評だったのがゴルフカートでした.20 km /h程度でゆっくり走り,乗り降りしやすく,こういうものがナンバー取って公道を走れるようになるといいという意見を多数いただきました.そこで,かさ上げ工事により県道が移設され,バス停から役場までが400 mほど離れてしまったので,そこをつなぐモビリティとしてゴルフカートを使うような実証を計画しました.当時は公道が走れないので,建物が流された民地を1軒1軒許可をもらい,そこを道路として整備して,シルバー人材に運転を委託して走らせました.これが極めて好評で,公道も走れるといいねという意見を多数いただきました.ちょうどそのころ,石川県輪島市でも商工会議所がゴルフカートの公道走行を目指していて,その二つの動きが合体して,ヤマハ発動機が保安基準適合を実施していくことになりました.(この動きの輪島でのその後は 既に書いた通りです)
大槌では,2013年7月からゴルフカート送迎を始め,8月には電磁誘導線を敷いて自動運転も始めました.さらに11月にナンバーが取れ,民地だけでなく公道も走れて役場玄関までの送迎も可能となりました.(国土交通省がゴルフカートをグリーンスローモビリティとして活用拡大をスタートしたのはずっと後で2018年のことです.)(写真6,7)
写真6 県道移設で不便になった場所でのゴルフカート送迎
写真7 ナンバー付き車両での自動運転も実施
かさ上げ工事の進展により,ゴルフカート送迎は12月に終了し,その後は,不便な仮設住宅での活用を行いました.仮設住宅は用地確保が困難で,中心部からかなり離れたところに建設され,バス停から坂道を500 mくらい上がっていく所もあり,そこで自治会組織で足腰の悪い人の送迎用としてゴルフカートを活用することになりました.冬場は寒いので,ドアが無くむき出しのカートでは防寒のためのエンクロージャーを作成しました.(このように活用されていましたが,利用者が体の具合が悪くなって歩行できなくなったり,住居の再建により仮設から転出したりで,利用が無くなり送迎は終了し,その後この車両は大船渡で一時期使われ,さらにその後は交通エコモ財団に譲渡され活用が続けられています)(写真8,9)
写真8 不便な仮設住宅での送迎(冬期はシートで防寒対策)
写真9 復興まちづくりの進む大船渡での活用
このように,大震災被災地の大槌で,モビリティの検討を続けてきましたが,復興かさ上げ工事の進捗や復興住宅の完成,自力再建者の増加など,徐々に町の様子が変化してきていて,細々とモニター実証の一部は続けてきましたが,2016年度をもって一段落することとし,一部機材等は現地側へ譲渡して活動は終了しました.
大震災被災地でのもろもろの活動は,初めての経験であり,先が見えない中,手探りをしながら続けてきましたが,モビリティの重要さを再確認することができましたし,使っていただいた人々の笑顔は記憶に焼き付いていて,東大IOGとしてもコンソ参加企業としても得難い経験ができました.パーソナルモビリティそのものは被災地で定着したわけではありませんが,最近電動キックボードに代表される特定小型原付の制度ができ,4輪版のプロトタイプがジャパンモビリティショーに出され,そういったものの活用が広がっていくことが望まれます.またゴルフカートについては,グリーンスローモビリティとして全国に広がることにつながり,その端緒に関われたことは,新しいものを生み出すという苦労の連続ですが,出来た時の達成感はひとしおであり,そういう経験も私の貴重な財産になっています.
うまくいったこと,うまくいかなかったこと,それぞれ多々ありますが,得たことは多くあり,多少なりとも被災地の方々に寄り添った活動で貢献できた部分もあったと感じており,そういう経験を若い世代に引き継いでいただくのが今後の役目だと思っております.災害は起こって欲しくありませんが,起きた場合の復旧復興に,過去の経験に学んでいい取り組みがなされることを期待して結びといたします.(写真の一部は東大IOG提供)