Journal of Computer Chemistry, Japan
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巻頭言
経験世界を紡ぐ「時間」
櫻沢 繁
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2015 年 14 巻 6 号 p. A43

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今,なんとか締め切りに間に合わそうと,徹夜覚悟でこの原稿を書いていたら居眠りをしてしまった.私は居眠りをした間に何があったか全く知らない.だが,私が居眠りをしていた間ずっと起きていた人は,私が大いびきをかいて時々呼吸が止まって苦しそうにしていた事を知っている.

ここで私は,きっと私の存在とは無関係に流れる「時間」というものがあって,私が寝ていた間にもいつものように時間が流れていた,と経験世界の外の事を想定している.おそらくこれは私だけに限った話ではなく,皆そのような想定のもとに日々暮らしていることだろう.

でも,なぜ,私たちはこのように経験の外に「時間」などというものを用意する必要があるのだろうか.それはつまり,そうしないと他者の経験世界との間に色々な不都合が生ずるからだ.周りに何もなくて誰もいないのならば何の問題もないのだが,他者と諍いを起こすことなく相互作用せざるをえない(さもなければ存在を許されない)私たちは,互いの存在とは全く無関係に全てを見渡せる超越的な流れとしての「時間」を想定して互いの経験世界に生ずる矛盾を調停する.すなわち,個人それぞれが構える視座によって個々の経験世界は異なりながらも,それら経験世界の間の矛盾を紡ぎ合わせるプロセスとして「時間」は生み出されている.

私たちはデカルト座標系によって時間と空間を表現し,物体の運動を記述する.しかし上述のような因縁により生み出される「時間」は,それとはいささか事情の異なるもののように思われる.20世紀半ばになって,時間はデカルト座標系によって用意されるようなものではないと言い出した心理学者がいる.アフォーダンスを唱えたJ. J. Gibsonである.Gibsonの論説は非常に難解であり,しかも新しい概念を打ち出す奇抜さ故に,現在においても大きな誤解を受けたうえで批判されている.それまで整然と系統立てられてきた心理学の学派の中では特に批判された.しかし,批判している者の中にGibsonの論を理解している者はほとんどいなかった.一方で,最先端の理論物理学者や認知・人口知能の研究者の中にそのGibsonの論を理解した上で盛んに議論しようとする者が現れ,全くの異分野においてその論は一気に展開された.

さて,日本コンピュータ化学会 2015 秋季年会において,初日の特別講演は実行委員長を務めさせていただいた私が「化学反応による計算」をテーマとしてオーガナイズさせていただいた.ここに込めた私の想いとは,上述のようなデカルト座標系によらない「時間」が化学において如何に展開されるか,との問題意識であった.化学反応に寄与する分子は,相互に安定性を求めて不均衡を解消するための調停を行っている.であるが故に,化学反応は,我々が特にフレームを与えることなくプロセスが進み,まるで我々の人生と同じように開かれている.すなわち,定義域がはっきりとした構造化されている問題の解決はチューリングマシンを基本とする現在の計算機が得意とするものであるが,定義域の開かれた問題を如何に調停すべきか,といった状況において便利な計算機が化学反応系ではないだろうか.粘菌によるネットワーク問題の解決も然り,がん治療のように複雑に入り組んだ生体系に生ずる問題の解決も然り,ここには生命系における動的な問題に対する新たなアプローチの可能性がある.

私が日本コンピュータ化学会 2015 秋季年会において行ったいくつかの試みは,門外漢ながらも,この学会から新しい芽を出すチャンスを作ることはできないかと,ささやかながら想いを込めてみたものであった.

 
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