Journal of Computer Chemistry, Japan
Online ISSN : 1347-3824
Print ISSN : 1347-1767
ISSN-L : 1347-1767
総合論文
ミュオニウム化学反応の新展開
高柳 敏幸吉田 崇彦
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2016 年 15 巻 5 号 p. 119-123

詳細
Abstract

正または負電荷を有するミューオン粒子を用いて,ミュオニウム(0.114 amu) およびミュオニックヘリウム(4.11 amu)と呼ばれる水素原子の同位体をつくりだすことができる.これを利用することによって,H/D/Tを超えた質量比の同位体効果を観測することができる.ミュオニウムはその小さな質量のため,化学反応系の水素原子がミュオニウムに置換されると,ゼロ点振動エネルギーやトンネル効果による大きな量子効果を示す.また,反応経路そのものが変化する例や,遷移状態が安定化する特異な現象も存在する.

1 はじめに

化学辞典によると,同位体効果とは「分子内の原子を同位体で置換したとき,同位体の質量数,核スピン,核の大きさや形が違うことが原因で,その分子が関与する物理的・化学的挙動に差が生じる現象」となっている [1].本稿では少し限定して,質量数による同位体効果,その中でも化学反応過程における同位体効果について焦点を当てる.

通常,顕著な同位体効果を示す例として最もよく用いられる元素は,言うまでもなく水素である.水素にはH (軽水素),重水素(D),あるいは三重水素(T, トリチウム)があり,質量比1∼3の範囲で同位体効果の検証が可能である(放射性トリチウムの実験的取扱いは極めて難しいという問題があるが).もしHよりも軽い同位体,あるいはTよりも重い同位体が利用できれば,より幅広い質量比において同位体効果を検証することができるはずである.こうした実験を可能にするのがミューオンである.ミューオンには2種類の電荷状態にある粒子 μ+ および μが存在し,前者がいわゆる反粒子である.実験的には加速器を利用した,原子核反応を介して生成させることができる.質量はプロトンの約1/9で,寿命は2.2 μsである [2].マイクロ秒は一見すると短く思えるが,化学反応のタイムスケールに比べれば十分に長い.これらのミューオン粒子を用いると,ミュオニウムおよびミュオニックヘリウムと呼ばれる水素原子の同位体をつくることができる.

ミュオニウム(Mu)は,水素原子のプロトン核が μ+ に置換してできる原子であり,その質量は0.114 amuである.μ+ の質量は電子の約200倍であるため,原子中の電子の振る舞いは水素原子とほとんど同様になる. 実際,Muのイオン化エネルギーは13.54 eVであり,Hのイオン化エネルギー 13.60 eVに近い.また,Muのボーア半径は0.0532 nmで,Hのボーア半径(0.0529 nm)とそれほど変わらない [2].

一方,ミュオニックヘリウムとは,4Heが μ を捕獲してできる原子である [3].この場合は,μ が「重い電子」としてヘリウムの原子核の近傍(最安定の1s軌道の場合)に局在化し,最終的には電子を1個放出して,[4He2+μ]e という形態をとる.すなわち,[4He2+μ] がプロトン核の代わりとなっている重い水素原子とみなすことができ(Super-Heavy Hydrogenとも呼ばれる),その質量は4.11 amuである.最近ミュオニックヘリウムとHからなる分子中のμ の空間的広がりについての詳しい理論計算が行われており, ミュオニックヘリウムが水素同位体として十分近似が可能であることが示されている [4].すなわち,ミューオン粒子が分子中で空間的広がりをもたない点電荷としてとり扱えることを示している.

以上のように,ミューオンを利用することで質量比0.114 ∼4.11という大きな範囲で水素同位体の質量効果を検証することが可能になるのである.このことは,4.11/0.114 ∼36倍という通常の元素では不可能な同位体効果の観測が可能であることを意味している.ここでは,特に軽いほうのミュオニウムに関連した反応研究の進展について解説する.

2 反応速度の量子効果

水素原子がMuに置き換わることによって,反応の速度が劇的に変化する例として,単純な3原子系の発熱反応 X + F2 → XF + F (X = HまたはMu)を取りあげる.Figure 1に反応経路に沿ったポテンシャルエネルギー変化と,量子化された最も低いエネルギーレベル(ゼロ点振動エネルギー)を示す.遷移状態は直線構造をしており,そのエネルギーレベルはMu + F2反応のほうがH + F2反応に比べて高い.これは,軽いMuを含むMu···F···Fのほうが,H···F···Fより大きな振動エネルギーを有するためである. つまり,Mu + F2 のほうがH + F2 にくらべて,反応のエネルギー障壁が高くなる.生成側には,水素結合に近い安定なF···H···F構造を示しているが,直線的な反応経路上では必ずしも重要ではないことに注意してほしい.

Figure 1.

 Schematic potential energy for the H/Mu + F2 → HF/MuF + F reaction along reaction coordinate.

実験的に測定された反応速度定数の温度変化 [5]をアレニウスプロットの形で示したのがFigure 2である.反応障壁の差にも関わらず,Mu反応の速度は,H反応のそれよりもずっと大きいことがわかる.また特筆すべき点は,見かけの活性化エネルギーの違いである.Mu反応では活性化エネルギーが著しく小さく,温度が低くなるとゼロに近づいていく.一方H反応については,プロットはほぼ直線的であり,比較的大きな活性化エネルギーを示している.これは,Mu反応においては,量子力学的なトンネル効果によって反応が著しく促進されていることを示す実験結果である.

Figure 2.

 Arrhenius plot of rate constants for the H/Mu + F2 → HF/MuF + F reaction. Calculated results are shown with solid and dotted lines while experimental data are shown with symbols.

我々は,これらの実験結果を説明するために,詳細な理論計算を行った [6,7].まず高精度な量子化学計算を利用してグローバルなポテンシャルエネルギー曲面を作成した.反応には3個の原子しか含まれないため,3個の自由度を変えることによってポテンシャルエネルギー曲面が計算できる.反応障壁や弱いファン・デル・ワールス力を正確に見積もる必要があるため,多参照配置間相互作用レベルの量子化学計算を行った.その後,ポテンシャルエネルギー曲面上での原子核運動に関するシュレディンガー方程式を数値的に解く.これによって量子的反応確率の衝突エネルギー依存が得られ,最後に温度平均化を行って反応速度定数を算出した.計算結果をFigure 2に示してある.スピン軌道相互作用は考慮していないものの,計算結果は実験結果を極めてよく再現していることがわかる.また,詳細な理論解析の結果,見かけの活性化エネルギーが低温でゼロに近づく現象では,ファン・デル・ワールスによる引力相互作用が重要な役割をしていることがわかった.Figure 1に示したように,HとF2には弱い引力相互作用がはたらくため,反応の入り口付近に浅いポテンシャル井戸が存在する.このような引力相互作用があるため,トンネル経路の長さが低温で一定になるのである(図中のTunneling Widthに相当).もし,ファン・デル・ワールス引力が存在せず,相互作用が反発的であれば,Tunneling Widthは低温になるほど厚くなることに注意してほしい.つまり,Mu反応では,ポテンシャルの高さよりも,トンネルしなければならないポテンシャル幅のほうが重要であり,室温程度のエネルギーでも著しく大きなトンネル確率で反応が起こるため,比較的高い温度でも活性化エネルギーがゼロに近づく現象が見られるのである.また,ファン・デル・ワールス引力が反応速度の低温極限に大きく影響することがすでに示されている [8].

3 Mu置換による反応経路の変化

前節ではMuの量子力学的なトンネル効果によって反応速度が劇的に変化する例について述べた.しかし,反応としては,HまたはMuがフッ素分子からFを引き抜いて2原子分子が生成するという反応経路そのものが変化したわけではない.HをMuに置換すると反応経路までもが変化してしまうような現象,つまり異なる生成物が得られることはないのだろうか.興味深いことに,そのような現象が実際に報告されている.たとえばWalkerらのグループは,溶液中でのMu/H原子のピラジン分子への付加反応の実験から,H原子はピラジンのN原子に付加反応を起こすが,MuはC原子に付加することを見出した(Figure 3を参照) [9].

Figure 3.

 H/Mu addition pathways to pyrazine (1.4-diazine).

良く知られた有機化学の表現を用いると,H原子は求電子的な振る舞いをし,Mu原子は, 求核的な反応を起こすことになる.ただし厳密に言えば,反応経路が変化したという言い方よりも,Hの場合は,N付加反応の速度が,C付加の速度よりも大きく,Muの場合はその逆になるという表現のほうが適切だろう.いずれにしても,このような特異な現象はHとDの場合には全く見出されていないことを強調したい.ただし,なぜそうなるかについては,まだよくわかっていない.

異なる生成物を与える例は,チオカルボニルC=S結合を有する分子への水素原子付加反応においても報告されている.通常,C−H結合はS−H結合よりも強いため,H,Muとも炭素に付加したラジカルが生成すると予想される.しかし,RhodesらはCH3(NH2) C=Sへの付加反応では,H原子は炭素原子に付加するが,Muは硫黄原子に付加するという興味深い現象を見出した [10,11].また,この現象は炭素に結合している置換基の種類に依存することがわかった.この奇妙な実験結果に触発されて,我々のグループでは,量子化学計算による説明を試みた [12].詳細は原著論文を見ていただきたいが,概要をFigure 4に示す.生成物選択性の目安の1つは,反応エネルギーであろう.反応におけるエネルギーの出入りを見積もるには,量子化された振動エネルギーを考慮する必要がある.水素原子が付加したラジカルでは,炭素側の置換基の種類によって,振動エネルギーの大きさが変化する.具体的には,炭素側に大きな置換基があるとそれに付加するMu原子の量子的な振動運動が制限され,大きな振動エネルギーをもつ.その結果,Muの反応では炭素付加体よりも硫黄付加体の方が熱力学的に安定になることがわかった.ただし,ここでは正確な安定化エネルギー差を得るために,高精度量子化学計算を用い,振動の非調和性も考慮している.

Figure 4.

 Schematic potential energy surface and zero-point energy levels for the H/Mu + CH3(NH2) C=S addition reaction obtained from quantum chemistry calculations.

繰り返しになるが,同位体置換によって反応生成物が異なる現象は,H/D/T同位体では見出されておらず,今のところMuに特徴的な現象であることを強調したい.

4 遷移状態が安定化する振動結合現象

遷移状態とは,化学反応が起こる際に越えなければならないポテンシャルエネルギー曲面上の鞍点,すなわちエネルギー的に不安定な分子構造のことである.遷移状態を直接観測しようという試みは,負イオンや超高速レーザー分光を利用した実験(遷移状態分光と呼ばれている [13])が以前から報告されているが,ここではMu置換によって,遷移状態が安定になる例を紹介する.

通常,遷移状態では電子的なエネルギーは高く不安定であるが,結合は弱くなるので,量子化された振動エネルギーの大きさは小さくなる場合が多い.このことを水素原子が移動する反応を使って模式的に示したのがFigure 5である.ここでは,ハロゲン原子が水素をやり取りする対称的な反応 XH + X → X + HXを考えている.このとき,遷移状態X···H···Xの振動エネルギーは反応物(HX)のそれよりも小さくなる.もしここで反応の障壁が十分低ければ,遷移状態のエネルギーレベルが,反応物のエネルギーレベルより低くなる可能性がある.つまり,遷移状態が反応物よりも安定化するのである.これは,振動結合(Vibrational Bonding)と呼ばれ,その存在の可能性は今から30年以上も前に予言されていた [14,15,16].最近,Mu + Br2 反応の研究において,振動結合状態にあるBrMuBrが生成したのではないかという研究が報告された [17].我々は理論計算を行い,その存在を確かめた [18].最近では,IMuIについても振動結合現象が存在することを示した [19].Figure 5にはIMuI 中のMuの量子的存在確率を示しており,Muが中心付近に局在化していることがわかる.この特異な現象において興味深いことは,分子間の相互作用が電子的には反発的であっても,核の量子化によって相互作用が引力的になる可能性があることである.

Figure 5.

 Schematic representation of vibrational bonding for X + MuX → XMu + X reaction. The calculated quantum density distribution of Mu in IMuI is also shonwn.

5 おわりに

化学反応系に含まれる水素原子をミュオニウム原子で置き換える場合に起きる現象について解説してきた.Mu原子は水素原子に比べて質量が約1/9であるため,劇的な量子力学効果を生み出す.特に反応経路が変化したり,振動結合という特異な現象が起こったりすることは,もはや同位体効果とは呼べないかもしれない.

日本は強度の高いミューオンビームが利用できる加速器施設J-PARCを有している.本記事が,ミューオン粒子を利用した新しい化学反応研究を生み出すことを期待する.

参考文献
 
© 2016 日本コンピュータ化学会
feedback
Top