Journal of Computer Chemistry, Japan
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総合論文
水素結合-π電子系相関型有機伝導体の開発とその水素/重水素同位体効果
上田 顕森 初果
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2016 年 15 巻 5 号 p. 163-169

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Abstract

プロトン(水素原子)と電子の相関現象は,生体系や各種の化学反応において重要な役割を担っている.その一方で,固体結晶中においてこのような相関現象はこれまでほとんど見つかっていなかった.筆者らは,有機伝導体を舞台とした独自の物質開発研究を展開し,最近,水素結合中の水素原子ダイナミクスと有機π電子の連動・相関に起因する前例のない大変ユニークな動的現象・機能物性を発見した.本稿では,このπ電子系固体物質における新しい「量子水素の科学」を物質開発ならびに水素/重水素同位体効果の観点から紹介したい.

1 はじめに

水素結合は,物質を構成する最も代表的で重要な非共有結合性相互作用の一つであり,その発見から100年以上経った現在でも [1,2],化学や生物学,物理学,物質科学などの様々な分野でその実験的・理論的研究が盛んに行われている.このように水素結合が長年にわたって多くの研究者の注目を集めている理由として,この結合がA–H···B (A,Bは酸素や窒素,ハロゲンなど) という非常にシンプルな一般式で表されるにもかかわらず,その構成元素(AやB)や幾何学的構造,電荷,温度や圧力,そして物質の状態などによって非常に多様な構造・性質を示す [3,4,5] ことが挙げられる.中でも,幾何学的な観点において,構成重原子間の距離 (dAB),すなわち水素結合距離は,最も重要なパラメータの一つであり,水素結合ポテンシャルの形状や水素結合プロトンのダイナミクスなどと深く関係している.例えば,KH2PO4 (KDP) などの水素結合型誘電体において,水素結合距離dOO と常誘電-(反)強誘電相転移温度Tc は線形関係にあることが知られている [6,7].これらの系における Tc は,Figure 1に示したように,プロトン(あるいは水素原子)が二極小型ポテンシャル中で無秩序・秩序化転移する温度に対応しており,つまり,上記の結果は,dOO が伸長(収縮)することで,ポテンシャルエネルギー障壁が上昇(低下)し,Tc が上昇(低下)したことを意味している.さらに,これらの系では,水素結合部の水素/重水素置換による特徴的な同位体効果,すなわち,100 Kに迫る Tc の大きな上昇 [8] や母体の水素体には存在しない新規相の出現 [9,10] なども見出されている.これらの現象について,プロトントンネリングモデル [11] や,幾何学的同位体効果 (Ubbelohde効果 [12]) と呼ばれるdOOの伸長 [6,7,13],H/Dの質量差に由来する量子性の違い(零点振動エネルギーの差) [14,15] などの観点からこれまで様々な実験的・理論的考察が行われており,本特集号の主題である「量子水素の科学」としても大変興味深い.

Figure 1.

 A schematic drawing of the proton disorder-order transition (i.e., paraelectric-(anti)ferroelectric transition) in hydrogen-bonded dielectrics.

このように水素結合は,固体(結晶)中において,分子やイオンを連結・集積化するだけではなく,その「動的性」により誘電性やプロトン伝導性などの固体物性の源にもなっている.その一方で,生体系や各種の化学反応において,水素結合はプロトンを移動させるだけではなく,同時に電子の移動も誘起・促進していることが知られている [16].それでは,固体(結晶)中において,このようなプロトン(あるいは水素原子)と電子の連動・相関現象は起こるのであろうか?特異な「動的性」を有する水素結合プロトン(あるいは水素原子)と,磁性や電気伝導性の源である電子の連動・相関が起これば,これまでにない新現象・新物性が発現するものと期待される.

実際に,これまで様々なプロトン-電子連動系候補物質の開発ならびに構造物性研究が行われており,水素結合とπ電子の共存・相関に由来する特異な現象・電子物性が見いだされてきた [17,18,19,20,21,22,23,24].例えば,キンヒドロンと呼ばれる電荷移動錯体において,水素結合を介したプロトン移動 (PT) とπ電子系間での電子移動 (ET) の連動現象が圧力下 (∼25 kbar) において発生し,新規相 (プロトン-電子移動 (PET) 相) へ相転移することが指摘されている [17,18].また,Sustmannらは,独自に合成した水素結合系有機共結晶に対して光照射を行い,部分的なプロトン-π電子移動の発生とこれに起因する常磁性種の生成について報告している [19].しかしながら,多くの系においてプロトン(あるいは水素原子)は水素結合中で局在化しており,このような「動的な」プロトン(あるいは水素原子)とπ電子の連動現象についてはこれまでほとんど未開拓であった.

このような状況の下,筆者らは,有機伝導体を舞台とした物質開発研究により,水素結合中の水素原子ダイナミクスと有機π電子の連動・相関に起因する前例のない大変ユニークな動的現象・機能物性を最近発見することができた [25,26,27,28,29,30,31].本稿では,このπ電子系固体物質における新しい「量子水素の科学」を物質開発 [25,26] ならびに水素/重水素同位体効果 [28] の観点から紹介したい.

2 水素結合-π電子系相関型有機伝導体の設計・開発

分子性結晶中において,プロトン(あるいは水素原子)を動かし,同時にπ電子を動かすためにはどうすればよいのであろうか?まず,プロトン(あるいは水素原子)を動かすためには,水素結合距離 dAB を短くし,水素結合ポテンシャルの障壁を低くすることが必要である.そこで筆者らは,短いdAB を有する強い水素結合として知られ,前述の秩序・無秩序型の誘電体結晶でも見られるアニオン性の[O···H···O] 水素結合を利用することを考えた.そしてさらに,水素移動(による水素結合部の構造変化)と同時にπ電子の移動,すなわち,電子授受が誘起されるように,分子骨格に高い酸化還元特性を導入し,これを水素結合部位と強く連結させることとした.

これらの指針を基に,実際に筆者らが設計した分子が,Figure 2a左上のH2Cat-EDT-TTFである [25].この分子は,水素結合能,プロトンドナー性を有するカテコール (H2Cat) を電子供与能,酸化還元特性に優れたテトラチアフルバレン誘導体 (EDT-TTF) に直接縮環させたものである.筆者らはこの分子を用いて,Figure 2aに示した条件で単結晶を作成した.すなわち,塩基試薬である2,2'-ビピリジンならびに電解質であるヘキサフルオロりん酸テトラブチルアンモニウム存在下,有機溶媒中で定電流電解することで,水酸基プロトンの脱離,分子間水素結合の形成,そしてTTF部の部分酸化を一度に達成した.合成した単結晶を用い,KEKフォトンファクトリーにて放射光X線構造解析を行った.その結果,期待した [O···H···O] 型の強い分子間水素結合 (dOO ∼2.5 Å; Figure 2a下) を有する新規純有機伝導体 κ-H3(Cat-EDT-TTF)2 ( = H-TTF) が得られたことが判明した [26].水素結合中の水素原子は,室温下において酸素原子間の中心に観測され,これはFigure 1左のように,ポテンシャルの二極小間を熱的に揺らいでいる状態の時間平均を表しているものと考えられる.また,この水素上に二回軸が存在しており,水素結合でつながれた2個の分子は結晶学的に等価である.TTF部位は期待通り酸化されており,その価数が+0.5であることから,この水素結合分子ユニット全体で電気的中性となっている.このユニット構造の分子軌道 (SOMO) をDFT法 (ROB3LYP/6-31G*) により計算したところ (Figure 2b),その軌道係数は水素結合部位を介して2つのTTF骨格に広く分布していた.従って,水素結合内で水素原子が移動あるいは変位することで,TTF部のπ電子状態に変化が生じることが期待される.さらに,このユニット構造はFigure 3aのように配列しており,全体として,水素結合によってπ電子系伝導層 (Figure 3b) が連結されていると見ることができる.以上のことから,水素結合のダイナミクスによって,TTF分子自身のπ電子構造だけでなく,TTF分子が積層したπ電子系伝導層全体の電子構造ならびに電子物性が相関・連動して変化すると考えられ,この系は「水素結合-π電子系相関型有機伝導体」と呼ぶことができる.

Figure 2.

 a) Molecular design of H2Cat-EDT-TTF and synthesis of a purely organic conductor, κ-H3(Cat-EDT-TTF)2 (or H-TTF). b) Singly occupied molecular orbital of the hydrogen-bonded molecular unit in H-TTF, calculated at the ROB3LYP/6-31G* level of theory.

Figure 3.

 Crystal structures of H-TTF. a) Packing structure and b) molecular arrangement in the π-electron conducting layer. Calculated intermolecular transfer integrals (b1, b2, p, q) in b) suggest the occurrence of strong π-dimerization in the b1 direction, or the formation of dimer-Mott state.

3 水素結合-π電子系連動現象と水素/重水素同位体効果

前項で述べたように,H-TTFの水素結合中の水素原子は,室温下で二極小ポテンシャルの極小間を熱的に揺らいでいると考えられる.そこでまず,Figure 1右のように低温下で水素を一方の極小に局在化させ,これに連動したπ電子構造・物性の変化を探索することにした.ところが,H-TTFは室温から極低温 (∼50 mK) に至るまで常磁性的で磁気秩序せず,相転移を示さなかった(量子スピン液体状態) [27].すなわち,水素はこのような極低温においても局在化せず,揺らいでいると考えられる.従って,期待したような水素結合とπ電子系の連動現象をH-TTFで観測することは本質的に難しいと言える.その一方で,観測された量子スピン液体状態は,水素結合とπ電子系間の連動性の寄与による結果であるとも推測されており [31],今後の実験的検証・理論的考察が望まれている.

このような状況の下,水素結合部の水素/重水素置換という大変シンプルな方法によって,水素結合とπ電子系の間の特異な連動性が露わとなった [28].すなわち,Figure 4 に示したように,重水素置換体 κ-D3(Cat-EDT-TTF)2 ( = D-TTF) は,室温下では水素体と同形であるが,185 Kで構造相転移し,水素結合部の重水素移動ならびにTTF骨格間のπ電子移動を起こすことが放射光X線構造解析から明らかとなった.この重水素-π電子移動の結果,TTF骨格はほぼ+1価と中性に大きく電荷不均化し,Figure 4, 5に示したようにπ電子構造ならびに電気伝導性,磁性の劇的な変化・スイッチングをもたらした(ダイマーモット状態(二量体化に起因するモット絶縁体状態)⇔電荷秩序状態,半導体⇔絶縁体,常磁性⇔非磁性).この相転移が水素体H-TTFで起こらないことを考えると,そのトリガーとなったのは重水素移動であり,これがπ電子移動を誘起したと言える.さらに,相転移温度が185 Kであるということは,この系の水素/重水素同位体効果が少なくとも185 Kという前例のない巨大なものであることを意味している.

Figure 4.

 Summary of the deuterium- and electron-transfer phase transition in κ-D3(Cat-EDT-TTF)2 (= D-TTF): Electronic structure changes in the hydrogen-bonded molecular unit (top) and the conducting layer (bottom).

Figure 5.

 H-bond deuteration effect on the physical properties of H-TTF: a) electrical resistivity and b) magnetic susceptibility.

それでは,なぜ重水素体のみがこの特異な相転移現象を示したのであろうか?これについて考察するために,それぞれの結晶構造から水素結合ユニット構造を抜き出し,ポテンシャルエネルギー曲線を計算した (Figure 6).その結果,Figure 5a, cに示したように,H-TTFD-TTFの室温付近でのポテンシャル障壁 ΔE に大きな差が存在することが分かった (0.09 eV in H-TTF vs. 0.14 eV in D-TTF).この差は,本稿前半でまさに述べた重水素化によるdOOの伸長 (2.486 (5) Å in H-TTF vs. 2.501 (2) Å in D-TTF),すなわちUbbelohde効果に起因していると考えられる.また,H-TTFにおける低い ΔE は,冷却に伴うdOOの収縮によって50 Kではさらに低くなっている (0.07 eV in Figure 6b).これに加えて,軽水素はゼロ点エネルギーが本質的に高く,結果として極低温まで局在化を示さなかったと考えることができる.一方でD-TTFの重水素は,Ubbelohde効果による高いΔEに加えて,軽水素の2倍の質量数に由来する低いゼロ点エネルギーのため,冷却過程においてΔEを熱的に越えられなくなり,185 Kで片側の極小部に局在化したものと推測できる.この局在化により水素結合部はO–D···O 様に電荷不均化し,この電荷を各分子骨格全体で中和するようにTTF部位間での電子移動 (+0.5 vs. +0.5 → ∼0 vs. ~+1) が起きたと考えられる,従って,H/Dの幾何学的同位体効果と量子的な同位体効果の足し合わせにより,D-TTFでのみ(重)水素の局在化が発生し,これがπ電子系の電子移動と連動することで,従来の有機伝導体には見られない特異なπ電子構造変化・物性変化をもたらしたと結論付けられる.

Figure 6.

 Theoretical potential energy curves for the hydrogen-bonded molecular unit in a)H-TTF at 293 K, b)H-TTF at 50 K, c)D-TTF at 270 K, and d)D-TTF at 50 K. The calculations were performed at the UB3LYP/6-31G(d) level of theory by using the X-ray structural data with changing the H-bonded hydrogen atom position, as shown in e).

4 まとめ

以上,分子性結晶における水素結合とπ電子系の連動・相関現象について,筆者らの最近の物質開発・構造物性研究の結果を中心として,その背景とともに紹介した.水素結合部の水素原子を重水素置換するだけで,π電子構造やπ電子物性がこのように劇的に変化する物質は著者らの知る限り過去に例がない.水素結合のプロトン(水素原子)の自由度がπ電子の自由度(電荷,スピン,軌道)と結合し,動的に連動・相関したことをまさに示しており,π電子系物質における新しい「量子水素の科学」であると言える.ページの都合上,本稿では紹介できなかったが,最近,この系のプロトン(水素原子)ダイナミクスおよびそのπ電子系との相関に関する興味深い知見が物質開発 [30] ならび理論計算 [32] の観点から得られている.量子水素とπ電子の連動・相関により,1足す1が「3」あるいはそれ以上となるような新展開・新発見が今後生まれてくることを期待したい.

Acknowledgment

本研究は,JSPS科研費 (24850006, 26810044, 24340074),文科省科研費 (15H00988, 20110007),矢崎財団,三菱財団の助成を受けて行われました.また,本稿で紹介した内容は,加茂博道,山田翔太(東大物性研),磯野貴之,宇治進也(NIMS),高橋一志(神戸大),中尾朗子(CROSS),小林賢介,熊井玲児,中尾裕則,村上洋一(KEK物構研),山本 薫(岡山理科大),西尾 豊(東邦大)各氏との共同研究の結果であり,深く御礼申し上げます.

参考文献
 
© 2016 日本コンピュータ化学会
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