Journal of Computer Chemistry, Japan
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追悼寄稿
下沢さんを偲ぶ
細矢 治夫
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2017 年 16 巻 1 号 p. A2-A3

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下沢さんと僕は学年で六つも違う.それなのに,僕が大学の3年頃から,僕だけでなく,僕の同学年の連中に対してずっとお兄さん的な存在だった.それは御殿下のグランドでの野球からのつながりからだった.

何しろ,1997年に出た「森野米三先生を偲ぶ」という東大森野研の記念文集には口絵写真が二十数ページあるのだが,その中の見開きの2ページは,昭和32年11月14日の「物化」対「三年」の野球の試合のスコアブックの全記録と「森野先生の勇姿」と銘打った先生のバッティング姿と捕球のポーズが載っている.「物化」は水島・赤松・森野という東大理学部化学科の中の3物理化学講座の連合チーム,「三年」は,化学科3年のチームで,9対4で僕等の圧勝だった.しかし,スコアをよく見ると,僕は2回途中からのリリーフで勝利投手になっている.この試合のスコアを載せてくれたのが下沢さんだったのだ.森野・赤松の両先生も先発メンバーに加わっておられた.翌日の授業の時に,赤松先生が「昨日僕から三振を奪ったのは誰だ.」と教壇で叫ばれたので,仕方なく「僕です」と手を上げたのだ.

当時,大学院生でも自家用車を乗り回す者などほとんどいなかったその時代に,下沢さん一人が中古の外車を得意げに乗り回していた.それは,家が金持ちだからというのではなく,下沢さんの素晴らしい処世術で,車代もガソリン代も自分で稼いでいたのである.

僕が大学院生として六本木の物性研に移ったばかりの頃は,研究室には未だ誰も遊び仲間がいなかったので,森野研,島内研,漆原研などの登山や旅行等に潜り込んで楽しんでいた.森野研の下沢さんにも色々なことで御一緒し,お世話になった.

時が移り,1969年に僕はお茶大の理学部の化学科の助教授になり,その翌年春から修士の学生がとれるようになった.当時は埼玉大では未だ大学院がなかったので,下沢さんは自分の研究室で卒研を終えた優秀な山下公子さん(後に水谷姓に)を僕の研究室に送り込んでくれたのである.しばらくして1976年には,またユニークな湯田坂雅子さんを院生として送り込んでくれた.その後は埼大にも大学院ができたので,下沢さんのお弟子さんは結局この二人だけだが,二人とも僕の研究室の立ち上げや活性化に大いに頑張ってくれた.感謝感謝である.しかし誠に惜しいことに,水谷さんは青山学院大学で助手をやっている時に,急逝されてしまった.湯田坂さんの方は,ナノチューブで有名な飯島澄男さんの片腕として筑波で頑張っている.

御当主の下沢さんとは,化学教育の国内外の会合でよく顔を合わせ,その都度楽しいお付き合いをさせて頂いた.また,埼大で化学教育関係の集まりがあるときには,その後によくボーリングで楽しませて頂いた.流石に下沢さんは,マイボールもしっかりと持っておられた.

埼大では,理学部長もきちんと務められ,その故か退官後に瑞宝中綬章も授けられた.外国出張の折々に,事務の人達の喜ぶお土産を色々と買って帰るのも彼の自慢の種のようであったが,その下沢さんらしく,一寸した勇み足もあったようだ.しかし,この秘話は,奥様とごく一部の者の間でそっと内緒にしておくことにしよう.

化学教育関係では,ハワイにもミネソタにも御一緒したし,何よりも東京の京王プラザで開かれた化学教育の国際会議では,お互い主催者の側に立ち,大変な苦労を共にしたのだが,ここではその話は書ききれないので一切割愛しよう.

また,下沢さんはJAICAの仕事でインドネシアのバンドンに長いこと行かれ,立派な業績を残されたのだが,その辺の話は,吉村さん達に任せよう.僕は,一度もバンドンに行っていないのに,いつの間にか「バンドン会議」のメンバーに取り込まれてしまっている.お蔭で,面白い人脈に恵まれ,楽しい思いをさせてもらっている.下沢さん,有難う.

冒頭に,僕の同学年の連中のことに触れたが,下沢さんがとった「お兄さん役」の最たるものが,田隅三生君へのお誘いであろう.東大の定年の前の彼にお声がかかり,埼玉大の教授に据えてもらったお蔭で,彼は理学部長から,更には学長にまで上り詰めたのである.

実は,バンドンでは,僕等の同級生の所沢(しょざわ)君も現地で活躍していたのだが,バンドン会議には呼ばれずじまいのうちに他界してしまった.僕の独りよがりの判断ではあるが,僕と田隅君は,適当に生意気で,適当に突っ張っていたので,下沢さんが兄貴になってやろうと思われたのだが,所沢は一寸アクセントが強過ぎたので敬遠されてしまったのであろう.

ところが,兄貴面するだけが下沢さんのメソッドではないようだ.晩年,週に何日かは老人ホーム的なところで息抜きをされておられたようだが,そこの老人グループの中に,特攻隊上がりの,逞しくすごい老人がいて,風を切っていたのだが,下沢さんはその彼となかなか巧みなお付き合いをされ,彼の自慢話をうまく引き出す役も果たしておられたらしいのである.

だから今頃,下沢さんは,天使様よりは,えんま様とうまく付き合っておられるような気がしてならないのである.

 
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