Journal of Computer Chemistry, Japan
Online ISSN : 1347-3824
Print ISSN : 1347-1767
ISSN-L : 1347-1767
Account
Muon Spin Rotation, Relaxation and Resonance Techniquefor Life Science
Yoko SUGAWARA
Author information
JOURNAL FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

2020 Volume 19 Issue 3 Pages 71-79

Details
Abstract

正の電荷をもつミュオン(μ+)は物質に照射されるとミュオンとして,もしくは,物質内で電子を獲得してミュオニウム(Mu)として停止する.生体分子の場合,ミュオニウムは,不飽和結合があるとこれを攻撃してラジカル(ミュオニウム化ラジカル)を生成する.生体物質内に停止したミュオン/ミュオニウムスピンの配向の変化をモニターすることにより,停止位置近傍の電子スピン,原子の核スピンの揺らぎ,また,ミュオンスピン自身の揺らぎについての情報が得られる.特に,正ミュオンは軽いプロトンに相当することから,スピンの揺らぎのモニターは,プロトンの動的挙動についての情報の獲得につながる可能性を有している.現在,J-PARC/MLFで進行中のミュオンスピン回転・緩和・共鳴法(μSR)の生命科学への応用の確立を目指した研究について,これまでの先駆的研究と共に紹介する.

1 はじめに

生命現象は多くのパーツが巧妙に組み合わさって機能を発現している.個体としての生物,即ちマクロな生命現象の観察からスタートして,次第にこれを構成する素子であるタンパク質や核酸などの分離と機能解析へと進み,やがて,原子分解能で3次元構造を決めることが可能になり,構造に立脚した機能理解へとつながった.現在は,複合体,超分子の構造に立脚した機能の理解が実現されつつある.このような流れの中で,研究手法としては,生化学的手法,電子顕微鏡,X線構造解析,各種分光法,分子生物学的手法などが,順次,活用され,昨今はクライオ電顕が脚光を浴びている.

一方,ミュオンは,20世紀の前半に,宇宙線由来の素粒子として見いだされ,20世紀後半になり,人工的にミュオンビーム作り出す施設が完成し,物質科学への利用が始まった.現在,ミュオン実験施設があるのは,スイス,カナダ,イギリス,そして日本の世界で4か国である.ミュオン科学にとっては,ビーム実験が開始された時点から,生命現象もそのターゲットとして意識されており,タンパク質の構成単位であるアミノ酸,核酸の構成要素である核酸塩基,生体膜の構成成分であるリン脂質等についてのミュオンスピン回転・緩和・共鳴法(μSR)測定が行われた [1,2,3].しかし,生体物質の複雑さに阻まれて,残念ながら,まだ,汎用的な解析手法としての確立には至っていない.一方,J-PARC/MLFのミュオン実験施設における生命現象の解明を目指した課題申請は確実に増加してきており,ブレイクスルーに期待がかかる.

2 生体分子のμSR測定の基礎

ミュオン科学における生命科学へのアプローチとしては,現在,透過型ミュオン顕微鏡の開発が進められており,また,ミュオンビームを用いたホモキラリティの起源を求める実験も進行中である [4].負ミュオン(μ)を用いた測定も含め,新しい広がりが今後進んでいくと期待されるが,これらについては,本号のそれぞれの専門の方の解説を参照していただきたい.本稿では,生体物質をターゲットとし,正ミュオンを用いたμSR (μ+SR)の取り組みを紹介したい.

初めに,他の記事ともオーバーラップがあると思うが,μSR測定の基礎のうち,本稿で扱う実験にかかわる測定原理を簡単に紹介したい.ミュオンは素粒子うち,レプトンの一つで,正または負の電荷とスピンをもち,質量が電子の約200倍,陽子の約1/9であることから,正の電荷をもつミュオン(μ+)は軽い陽子,負の電荷をもつミュオン(μ)は重い電子とみなすことも出来る.人工的に,偏極したミュオンビームが得られる.ミュオンは寿命約2.2μ秒で崩壊するとき,陽電子を放出するが,陽電子の向きが,崩壊時のスピンの向きと相関を持った空間異方性を持つことからことから,これを計測することにより,物質内で,ミュオンスピンが磁場を感じて起こす配向の変化の情報を得ることが出来る.実際には,試料位置の前方と後方にカウンターを置き,時刻tにおけるスピン偏極の非対称性(asymmetry)A0P(t)を式(1)から求める.   

A0P(t)=NFt-αNBtNFt+αNBt(1)

NF(t):ミュオンスピンの偏極方向に対して前方のカウンターの計数率

NB(t):ミュオンスピンの偏極方向に対して後方のカウンターの計数率

α:前方と後方のカウンターの幾何学的な配置や計数効率の違いに対する補正因子

外部からの磁場を加えない零磁場(zero field: ZF)測定では,ミュオンは停止位置の周りに物質が作りだす磁場を感じて振る舞う.縦磁場(longitudinal field: LF)測定では,ミュオンビームのスピン偏極と同方向に外部磁場をかけ,ミュオンスピンを物質の内部磁場からデカップリングしていく.もしくは,ゼーマン効果によりおこる電子-核-ミュオンスピン系の共鳴的な遷移を観測する(準位交差共鳴,level crossing resonance: LCR).ミュオンビームのスピン偏極と直交する方向から磁場をかけた横磁場(transverse field: TF)測定ではミュオン/ミュオニウムスピンの歳差運動の周波数を求める.

物質にミュオンを照射すると,ミュオンは停止するまでに物質から電子を獲得し,水素原子の同位体ともいえるミュオニウム(Mu:μ++e)となる.Muは,Muの状態で物質内に存在することもあるが,有機物が不飽和結合をもてば,これを攻撃し,ラジカル(ミュオニウム化ラジカル)を作って停止する(Figure 1). 有機物内で停止するミュオンは,反磁性状態のミュオン(μ+やMuを含む反磁性分子),遊離ミュオニウム原子(Mu),ミュオニウム化ラジカルに分類される.これらは,停止位置近傍の原子核の核磁気モーメントや電子スピンとの相互作用(超微細相互作用)の違いから区別される [5].

Figure 1.

 Muoniated radical formation by muonium attacking a double bond. In the case of trans-polyacetylene, the unpaired electron moves along the molecular chain.

μSR測定は,物質内のミュオン停止位置付近の磁場の情報を提供することから,磁性体や,超電導体等の研究に活用されている.また,ミュオニウムによりラジカルが形成されることから,ラジカル化学の研究にも用いられている.タンパク質をはじめ生体分子の多くは反磁性体であるが,水素原子が多くあるので,生体分子に停止したミュオンのスピン偏極は,近傍にある水素原子の核磁気モーメントの影響を受けて変化する.温度に依存して,周囲の水素原子の揺らぎが変われば,その効果はミュオンスピン偏極の緩和の振る舞いに反映される.また,正ミュオン(μ+)は軽いプロトンに対応し,ミュオン自身の動的挙動もスペクトルに反映されるので,生体機能と深くかかわっているプロトンの動的挙動を推定する手段ともなりうる.

生体分子のμSR測定結果の一例として,グリシンのTF-μSR (横磁場2 mT)およびLF-μSR (縦磁場0∼395 mT)をFigure 2に示す [6].グリシンは側鎖が水素原子という最もシンプルなアミノ酸である.これまでの実験において,遊離ミュオニウム原子に対応したシグナルは観測されておらず,シグナルのほとんどは反磁性ミュオン成分に由来していた(Figure 2 (b)).ミュオニウム化ラジカル成分が少ないことから,照射されたミュオンは,末端のカルボキシル基(COO)にラジカル付加をするのではなく,主としてμ+として停止したと推定される(Figure 2 (a)).零磁場下の緩和スペクトルの温度依存性において,200K近傍から温度上昇と共にミュオンスピン偏極の緩和が次第に遅くなることが観測された(Figure 2 (c)).周囲の核スピンの揺らぎが増すために,ミュオンの感じる平均の磁場が減少したことがその原因と考えられる.結晶内でグリシンのカルボキシル基は隣接する分子のアミノ基(-NH3+)と水素結合しており,このようなケースでは,隣接する分子の水素原子に由来する磁場の揺らぎも考慮して解析を進めることが必要である.

Figure 2.

 Estimated chemical structure of glycine with a positive muon in the crystal (a), transverse-field time spectrum at 2 mT (black) and longitudinal magnetic field dependence of μSR spectra of glycine (ZF and LF 0.7, 1.2, 1.5, 2.0, 3.0, 8.5, 22.8, 61.0, 200, and 395 mT from bottom to top) at 8K (*: background component) (b) and temperature dependence of the μSR spectrum under zero field (8, 50, 104, 199 and 304 K from bottom to top) (c).

3 ペプチド結合とアミノ酸のμSR

生体分子のμSR解析の前提として,ミュオンまたはミュオニウムがどこに,どのような状態で停止したかの情報が不可欠である.タンパク質は,アミノ酸がペプチド結合でつながったものであることから,ペプチド結合をもつ基本分子であるN-メチルアセトアミド(NMAA),グリシンの二量体,三量体などのオリゴマー,そして,アミノ酸の中で,側鎖(R)の芳香族環部分に不飽和結合を持ちミュオンの停止確率が高いと予想されるL-ヒスチジン,L-チロシン,L-トリプトファン,また,硫黄原子を有するL-メチオニンなどについて,μSR測定を進めてきた.試料は,いずれも結晶状態で,アミノ酸は双性イオン構造(NH3+CHRCOO)をとっている.まず,ペプチド結合をもつ最も簡単な分子ともいえるN-メチルアセトアミド(NMAA:CH3CONHCH3)(Figure 3 (a))のμSRスペクトルをFigure 4に示す.グリシンと同様,横磁場印加(TF 2mT)により反磁性状態のミュオンに由来する成分の存在が確認された.先に示したグリシンのデータと比較すると,零磁場下においてスピン偏極の非対称性の初期値は半分程度の値となっており,これが縦磁場の印加により回復していくことから,NMAAでは,ミュオニウム化ラジカルが一定量存在するという結果が得られた(Figure 4 (a)).また,グリシンの緩和スペクトルはt = 0近辺でガウス関数的に減少しているのに対して(Figure 2),NMAAは指数関数的減少となっていた.現在,遊離ミュオニウム原子の存在の有無を確認する実験をすすめている.

Figure 3.

 Molecular structure of N-methylacetamide (a) and optimized geometries of after protonation (b) and hydrogen addition (c) by DFT calculations with the estimated structures caused by μ+ and muonium addition.

Figure 4.

μSR spectra of N-methylacetamide. (a) transverse-field time spectrum at 2 mT (black) and longitudinal magnetic field dependence of μSR spectra (ZF and LF 2.0, 5.0, 13.9, 37.3, 100, 200 and 395 mT from bottom to top) at 95K (*: background component). (b) Temperature dependence of zero field data (95, 145, 195, 250, 293K from bottom to top).

零磁場下での緩和スペクトルには,14 K–150 Kでは変化が見られなかったが,160 K近傍から変化が生じた(Figure 4 (b)).NMAAのペプチド結合は,結晶内で一次元水素結合鎖(…O=C-NH…O=C-NH…)を形成している.また,274 K近傍で構造転移を起こすことが報告されている [7, 8].転移点よりも低い200–250 Kにおける構造揺らぎの有無については,結晶構造解析,中性子非弾性散乱,13C-NMRに基づく議論があるが,明確な結論は出ていない.一方,μSRのデータは,200Kよりも更に低い温度領域からなんらかの変化が生じていることを示している.

NMAAにおけるミュオンおよびミュオニウムの停止位置を議論するために,北里大学理学部神谷健秀氏との共同研究として,ミュオン付加に対応するH+付加(プロトネーション)と,ミュオニウム付加に対応する水素付加について,Gaussian16 [9]を用いたDFT計算を進めている.基底関数としてB3LYP/6-31G (d,p)を用いた結果をFigure 3に示す.プロトネーションはカルボニル基の酸素に対して起こり,プロトン(H+)の位置がペプチド結合の窒素原子に対してトランス位にある構造がシス位にある構造よりも約10 kJ/mol安定となった.プロトン付加が起きてもペプチド結合の平面構造は保持されており,C=O結合は二重結合性を有するので,この結合に沿った内部回転のエネルギー障壁は43 kJ/mol程度と高い.一方,ミュオニウム化ラジカル形成もカルボニル基に起こるが,この場合は,カルボニル基の二重結合性は失われ,回転障壁は約5 kJ/molと極めて低い.ミュオンの質量はプロトンの約1/9であることを考えると内部回転は容易に起こると予想される.基底関数としてB3LYP/6-31++G (2d,2p)などを用いた計算も行ったが,同等の結果を与えた.

ペプチド結合の水素については,プロトン輸送に寄与している可能性がシトクロムc酸化酵素において結晶構造解析と理論計算により示唆されている [10].今後,μSRスペクトルの特性の解明を進めていくことを予定している.

次に,芳香族環およびイオウ原子を側鎖に有するアミノ酸のミュオンスピン緩和スペクトルの縦磁場依存性をFigure 5に示す.いずれにおいても反磁性ミュオン成分とミュオニウム化ラジカル成分が共存するが,その量比は物質ごとに異なっていた.なお,遊離ミュオニウム成分の有無については今後の検討課題である.

Figure 5.

 LF dependence of μSR spectra of L-histidine (a), L-tryptophan (b), L-tyrosine (c) and L-methionine (d). ZF and LF 0.45, 0.7, 1.0, 1.2, 1.5, 2.0, 3.0, 4.0, 5.0, 8.5, 13.9, 22.8*, 37.3, 61.0* and 100 mT from bottom to top for each data (*:only for L-tryptophan and L-tyrosine).

前節に記載したように,側鎖が水素原子のみのグリシンでは,反磁性ミュオンに由来する成分がほとんどであり(Figure 2),ミュオンがイオン化した末端のカルボキシル基(-COO)にラジカル付加する確率は低く,プロトネーションしていると推定された.これに対して,L-トリプトファンでは,ミュオニウム化ラジカル由来のシグナルが主成分となっていた(Figure 5 (b)).L-トリプトファンとグリシンの構造の差異は,側鎖が水素原子か,インドール環(含窒素芳香環)を含有するかにある(Figure 2 (a)Figure 5 (b)).カルボキシル基(-COO)はともにイオン化しており,周囲との相互作用もきわめて類似している.従って,L-トリプトファンで主成分としてミュオニウム化ラジカル由来のシグナルが観測されたということは,側鎖のインドール環にミュオニウム化ラジカルが高い確率で生成したこと示している.側鎖に芳香族環をもつL-チロシンでも,同様の傾向が見られた.芳香族環をもたないL-メチオニンでは反磁性ミュオンに由来する成分の比率が高いという結果となった(Figure 5 (d)).

これらのアミノ酸の内,L-ヒスチジンは,側鎖の複素環の窒素原子へのプロトンの付加と脱離が酵素反応の進行に重要な役目を担っている.反磁性ミュオン成分は,側鎖の窒素に付加したμ+に由来すると予想され,その振る舞いはプロトンの動的挙動についての情報を提供する可能性を有している.一方,ミュオニウム化ラジカルは,複素環の二重結合に付加していると推定される.そこで,側鎖におけるミュオン/ミュオニウムの停止位置を確認する目的で,側鎖のモデルとして4-メチルイミダゾールを選び(Figure 6 (a)),NMAAと同様,DFT計算により,ミュオン付加に対応するプロトネーション,ミュオニウム付加に対応する水素付加が起きたときの安定構造を求めた.プロトン付加については予想通りN3位に付加した構造が最安定構造となった(Figure 6 (b)).一方,二重結合への水素付加については,C2位への付加がエネルギー的には最安定構造となったが,C5位への付加構造とのエネルギー差はわずかであり,いずれの生成物においても,不対電子は非局在化しているという結果が得られた(Figure 6 (c)).緩和スペクトルの温度依存性の検討と,ミュオニウムの停止位置をLCR測定により実験的に確認することが次の課題となっている.

Figure 6.

 Chemical formula of 4-methylimidazole with the numbering scheme (a) and the optimized geometries of 4-methylimidazole after protonation (b) and hydrogen addition (c) by DFT calculations

4 タンパク質・核酸等のμSR

Figure 1に示したようなミュオニウム化ラジカルが形成された系において,孤立電子が移動を起こすと,ミュオニウムスピンの緩和が誘起される.ポリアセチレンにミュオンを照射するとミュオニウム化ラジカルが形成されるが,トランス体とシス体では,μSRスペクトルに明らかな違いがあり,不対電子がポリアセチレン鎖に沿って移動するトランス体のみに特徴的は緩和が観測された [11].その後,この緩和は,Risch-Kehr関数で表され,この関数に用いられている緩和パラメータΓの縦磁場依存性が,物質内の電子の拡散速度を反映することが示された [12, 13].永嶺らは,タンパク質についても同様の効果が起こることを期待して,シトクロムcμSR実験を行い,スピン緩和スペクトルがRisch-Kehr関数に従うことを示した(Figure 7) [14,15,16].シトクロムcはヘム鉄をもつ分子量が約12,000の小さいタンパク質で,Fe (II)とFe (III)間の酸化還元反応とカップルして,ミトコンドリアの呼吸鎖におけるタンパク質複合体間の電子伝達を荷う.二重らせんに沿って電子移動が起こることが知られているDNAについてもμSR測定が行われている [17].DNAに関係しては,構成単位であるヌクレオチドのオリゴマーのμSR実験や,ミュオニウム化ラジカルが生成する塩基に注目した超微細相互作用定数の計算などが進行中である [18].また,酵素反応における電子移動とプロトン移動に由来する磁場をモニターする狙いで,セリンプロテアーゼと阻害剤との複合体のμSR測定も進められている [19].

Figure 7.

 Schematic model of the respiratory chain on intermembrane of mitochondria with cytochrome c drawn in a ribbon model (a) and the temperature and longitudinal magnetic field dependence of relaxation parameter Γ of Risch-Kehr function for cytochrome c(b) [16].

タンパク質を対象としたμSRについては,少し異なる観点からのアプローチもある.鉄の貯蔵タンパク質であるフェリチンについて,μSR測定が行われた [20].フェリチンは広く生物界に存在する鉄貯蔵タンパク質で,球体を形成し,内部に多量のFe (III)を貯蔵している.反磁性ミュオン成分とミュオニウム化ラジカル成分に由来するシグナルが観測され,反磁性ミュオンのうち2/3はタンパク質に,1/3は鉄コアに停止したと推定されている.これを受けて,アルツハイマー症とのかかわりに注目したパイロット研究がなされ,フェリチンの鉄は,本来は水酸化鉄の形で存在するが,アルツハイマー患者のフェリチンには酸化鉄が含まれている可能性があることがμSRデータに基づき報告されている [21].

生体分子をターゲットとするときは,水もまた,重要な研究対象となる.純水,もしくは氷にミュオンを照射すると,反磁性ミュオンと遊離ミュオニウム原子の形で停止し,弱い横磁場下でミュオニウムスピン回転が観測される [22, 23].一方,アモルファス氷では緩和が速くてミュオニウムスピン回転は観測にかからないという報告がなされている [24].永嶺らは,血液中の溶存酸素量に注目した解析を行い,水に酸素を溶かしていくとミュオニウムスピンの緩和が速くなり,そのスピン回転が観測されなくなる事を示した.溶存酸素の効果により,血液中の低酸素血症のモニターに応用できる可能性が指摘されている [25].また,このことは,酵素反応における酸素発生のモニターなどへの利用につながる可能性を示している.

5 今後の展望

以上,タンパク質および,その構成要素としてのアミノ酸などの生体物質をターゲットとしたμSRの研究を紹介してきた.現在,光合成において光誘起電子移動の開始の役を担う光化学系II (PSII) [26]や,光駆動プロトンポンプの機能をもつバクテリオロドプシン [27]などの膜タンパク質についての光照射実験もJ-PARC/MLFにおいて進行中である.複雑なタンパク質のシグナルから,機能に係る要素をいかに引き出すかは重要な課題である.光照射実験では,光のON/OFFと同期したシグナル差を抽出することにより,これを実現できる可能性があり,光照射実験の展開に期待がもたれる.

最後に,生命科学への展開を進める上では,ビームタイムの増強,輝度の向上による精度の向上と測定時間の短縮化,そして,測定に必要なサンプル量の軽減の実現を願っている.また,解析を進める上では,高縦磁場を用いたLCR実験や,高横磁場を用いた回転周波数測定など,いろいろな実験をくみあわせることが必須となってくる.これらの実験には,現在は,海外施設の利用が必要になっているが,将来的には,国内でもこれらの実験が行える環境が実現されることが待たれる.

謝辞

J-PARC/MLFにおける生体物質のμSR実験は,永嶺謙忠博士,下村浩一郎博士,幸田章宏博士(KEK),鳥養映子博士(山梨大),髭本亘博士(JAEA),A. D. Pant博士(茨城大,現KEK),山村滋典博士(北里大),楠木正巳博士,山口宏博士(関西学院大),三輪寛子博士(北大),杉山純博士(CROSS)との共同研究として進めている.また,測定を行うにあたり,J-PARC/MLF S1ビームライン担当の方々の御助力をいただいた.

参考文献
 
© 2020 Society of Computer Chemistry, Japan
feedback
Top