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英学史研究
Vol. 1997 (1996) No. 29 P 1-12

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http://doi.org/10.5024/jeigakushi.1997.1

  • (1) Who Was Who 1916-1928, p. 289.
  • (2) John Adlard : A Biography of Arthur Diósy, Founder of The Japan Society. 1990.p. 156. (以下Adlardと略記する) 。
  • (3) 前掲Who Was Who.
  • (4) Adlard p. 2-4.
  • (5) Arthur Diosy : In the Days of My Youth, M.A.P., 18 Jan, 1902. (Adlard, p. 6)
  • (6) Adlard, p. 7
  • (7) Adlard, p. 8.
  • (8) Adlard, p. 12-19.
  • (9) Adlard, p. 21-22. Who Was Who.
  • (10) Adlard, p. 39-44.
  • (11) アンダースン教授 (William Edwin Anderson 1842-1900).英国の医学者。日本政府の招きを受けて1873年来日して海軍軍医学校で医学を教えた。1880年帰国。
  • (12) Sir Hugh Cortazzi : “The Japan Society, A Hundred-year History” (Britain and Japan 1859 -1991, Routledge, 1991). p. 1-2. (以下Cortazziと略記する)
  • (13) ソーマレズ卿 (James St.Vincent De Saumarez 1843-1933) ケンブリッジを卒業して外交官となり, ベルリン, アテネに在勤後, 1876年東京の英国公使館の2等書記官として赴任し, 1880年ローマに転勤するまで勤めた。
  • (14) アーネスト・サトウ (Sir Ernest Mason Satow 1843-1929) 文久2年 (1862) から明治15年 (1882) 末まで横浜, 東京の英国公使館に勤務, のち明治28年 (1895) から同33年 (1900) まで駐日英国公使を勤めた。日本文化の研究, 紹介に功績を残した。彼は日本協会発足の当時, 1891年9月下旬から翌年1月中旬まで賜暇で英国に滞在していたが, 協会の設立準備委員会に出たかどうか日記には記されていない。
  • (15) フランシス・ピゴット (Sir Francis Taylor Piggott 1852-1925) 伊藤首相の法律顧問として招かれ, 明治21年 (1888) から同24年 (1891) まで滞日した。日本の楽器や庭園に関する著書がある。ピゴット少将 (Major General F.S.G. Piggott 1883-1966) 上記F.T.ピゴットの長男。東京の英国大使館付武官として長らく勤めた大の親日家。回想録『断たれた絆』 (Broken Thread) を著す。
  • (16) ウィリアム・ガウランド (William Gowland 1842-1922) 明治5年 (1872) に貝本政府に招かれて来日, 大阪造幣寮で化学, 冶金学を教え技術指導に当った。同21年 (1888) 帰国。登山が好きで, 「日本アルプス」という言葉は彼が最初に使ったとされている。
  • (17) F.A.サトウ (Fedor Andrew Satow 1842-1922) 前記アーネスト・サトウの従兄弟セオドア・サトウの長男。明治20年 (1887) に日本政府に招かれて来日。同24年 (1891) まで司法省の法律取調委員会で主として法律草案の英訳に従事した。
  • (18) アルフレッド・イースト (Sir Alfred East 1844-1922) 風景画家。明治22年 (1889) 早春に日本を訪れ, 約半年の滞在の間に日本各地で描いた風景画100枚余をロンドンの美術協会で展示した。
  • (19) ボウズ (James Lord Bowes) 日本美術品の蒐集家。リヴァプールの名誉日本領事。自分の蒐集品を展示する美術館をリヴァプール市内に創立した。
  • (20) A.R.ブラウン (Albert Richard Brown 1839-1913) 明治元年 (1868) 以来日本政府の灯台船の船長を勤め, のち駅逓局内で海運業務に従事。明治18年 (1885) に日本郵船のゼネラル・マネジャーに就任して同22年 (1889) 帰国するまで勤めた。
  • (21) アーネスト・ハート (Ernest Hart 1836 -1898) 日本の美術骨董品の蒐集家。
  • (22) M.ヒューイシュ (Marcus Bourne Huish) 日本美術の愛好家で, Japan and Its Art (1888) の著がある。
  • (23) 大越成徳 (1854-1923) 明治9年 (1876) 公使館書記見習として英国へ赴任。のち数回帰国後, 同24年 (1891) ロンドン領事となる。その後, 横浜税関長, アルゼンチン公使, ブラジル公使を勤めた。
  • (24) Adlard, p. 51.
  • (25) Adlard, p. 53. 「 Adelphi の the Society of Artsのホールで4月21日に創立総会が開かれた」Cortazzi, p. 2.「4月29日にRoyal Society of Artsで創立総会が開かれた」
  • (26) 『明治天皇紀』第八, 吉川弘文館, 昭和48, p.124.
  • (27) Adlard, p. 23.
  • (28) Adlard, p. 24.
  • (29) Adlard, p. 25.
  • (30) 明治期外国人叙勲資料集成第四巻, 思文閣出版, 1991。
  • (31) Adlard, p. 84, 86.
  • (32) Adlard, p. 87, 88.
  • (33) Adlard, p. 98.
  • (34) 読売新聞, 明治32年4月14日。
  • (35) Adlard, 巻頭。
  • (36) 芝の紅葉館は現在の東京タワーが建っている場所にあった純日本風の料亭で, 政財界人の集まりや, 外国人の接待に用いられた。明治16年に創立され, 昭和18年まで営業していたが, 昭和20年3月の空襲で灰侭に帰した。ディオシーは既に来日前に著した『新しい極東』の中で紅葉館について言及し, 美しい木々の茂った芝公園の中にあるクラブと書いている。
  • (37) 読売新聞, 明治32年4月19日。
  • (38) 読売新聞, 明治32年5月2日。
  • (39) The Japan Weekly Mail, 1899年5月20日。
  • (40) Adlard, p. 104.
  • (41) 式部長三宮男爵の夫人は, 男爵が英国留学中に結婚したイギリス人で, 元の名はアレシーア・レイノアである。結婚後, 八重野と名乗った。夫人は皇族の妃殿下方や華族の夫人たちが宴会に出席するとき, 外国の服装や社交上の習慣について適切な助言をする役目を果たしていた。ディオシーの滞在した夫妻の別荘は, 日光の景勝地含満が淵にあった。
  • (42) 時事新報, 明治32年8月3日。
  • (43) アーネスト・サトウ公使日記 (2), 新人物往来社, 1991, p.276.
  • (44) 外務省外交史料館所蔵記録『外国人謁見関係雑件。英国人の部, 第二巻』
  • (45) 時事新報, 明治32年8月6日。
  • (46) Adlard, p. 1.
  • (47) ベリズフォード卿 (Sir Charles William de la poer Beresford 1846-1919) 英国の海軍大将。下院議員, 海軍卿, 地中海および海峡艦隊司令長官を歴任, 大海軍論者として知られる。
  • (48) サー・エドウィン・アーノルド (Sir Edwin Arnold 1832-1904) 英国の詩大, ジャーナリスト。釈迦の生涯を歌った長詩『アジアの光」が有名。1889年に日本を訪れ2年近く滞在した。1897年, 日本婦人黒川タマと結婚。
  • (49) フランシス・ブリンクリー (Captain Francis Brinkley 1841-1912) 1867年英国公使館付武官補兼守備隊長として来日, のち海軍砲術学校, 工部大学校の教師を勤めた。1881年ジャパン・メイルを譲り受けてその経営者兼主筆となる。
  • (50) Cortazzi p. 8.しかしこの問題は1904年に再燃して, 日本協会の発端はサー・フランシス・ピゴット (初代の副理事長) に負うものであるとの意見が出されたことがある。 (同書p.32-33)
  • (51) Adlard, p. 121-123.
  • (52) Adlard, p. 156-161. Who Was Who.
  • (53) Adlard, p. 169.
  • (54) Adlard, p. 170.
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