62 巻 (1998) 5 号 p. 443-448
本稿では1910年代後半から20年代にかけての大阪の近代化の中で,「貧民窟」に小公園が設定された経緯と公園の位置付け方に注目する。そして, 1915年における小公園設置とその後の経緯を, 当時の社会状況, 特に, 社会編成および都市改編の展開の中で捉え直すことを目的とし, 公園設置の理念と実際に現象した管理や利用をめぐる衝突を問題化する際の言説の関係を考察する。当時の社会政策や空間政策に携わる専門家や官僚らは, 社会改良や都市改良の手段として公園の役割を積極的に位置付けようとしたが, しかし, 公園という空間そのものが物理的にオープンであるが故にはらまざるを得ない多種多様で雑多な人間を迎え入れる機能に対して, それを管理するために必要となる理論的な枠組みは当時の公園論には形成され得なかったことが検証できた。