Journal of the Japan Institute of Metals and Materials
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Effect of Nitrogen Concentration Profile on the Wear Rate of Expanded Austenite Phase
Yoshiki HandaPetros Abraha
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2021 Volume 85 Issue 10 Pages 375-381

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Abstract

The wear rate of the expanded austenite phase formed by low-temperature plasma nitriding treatment determines the lifetime of the treated stainless steel components. In this research, austenitic stainless steel (AISI304) samples were plasma nitrided between 1 h and 24 h at a temperature of 400℃, a pressure of 1.0 Pa (25% N2 and 75% H2) gas ambiance. The expanded austenite phase was characterized in thin layers with about the same nitrogen concentration. Characterization of the samples was performed by wavelength dispersive X-ray analysis (WDS) using Electron Probe Micro Analyzer (EPMA), X-ray diffraction (XRD), laser microscopy, and micro-Vickers hardness. The results of our experiments confirm that the wear rate of the expanded austenite phase varies with the depth from the surface. Thin layers of expanded austenitic phase with the same nitrogen concentration but formed under different treatment times showed the same wear rate. As the nitrogen concentration increased, the lattice parameters and compressive residual stresses calculated from the XRD pattern showed a logarithmic increase. The wear rate, on the other hand, decreased exponentially and reached 35 × 10−6 mm3/min at 25 at%. Finally, from the data obtained for the wear rate against the nitrogen concentration, an exponential fitting curve was established to determine the wear rate at any specific depth of the austenitic expanded phase.

1. 緒言

オーステナイト系ステンレス鋼は,高い耐食性を持つことから食品および飲料,医療および製薬,半導体,石油およびガス産業などで一般的に使用される.これらの産業の製造に用いられる器具の部品やコンポーネントにおいては,信頼性,品質,精度の非常に高い基準を確立することが重要である.このような産業においては,わずかな摩耗や腐食が人体や製品に対して悪影響を与える.例えば,ステンレス刃物の切れ味は,刃先の曲率がわずか数µm変化することで切れ味に影響を及ぼす1,2.そのため,耐食性に加えて厳しい耐摩耗性が求められる.

オーステナイト系ステンレス鋼の耐摩耗性を向上させる表面硬化処理法としてプラズマ窒化処理が行われている3-2.プラズマ窒化処理は,プラズマ中の窒素イオンや窒素原子を処理物内部に拡散・固溶させる処理法である.オーステナイト系ステンレス鋼に対するプラズマ窒化処理では,高い表面硬度が得られるが,窒化クロムの形成により母材のクロム濃度が減少し,耐食性が損なわれてしまう2.しかし,400℃程度の比較的低温でプラズマ窒化処理を行うと母材のオーステナイト相に窒素が過剰に固溶した拡張オーステナイト相が形成する5.また,処理温度が430℃以下の場合,クロムの移動度が制限され,窒化クロムの形成が抑制されるため,母材のクロム濃度が維持され,耐食性を損なわない.拡張オーステナイト相中の窒素は,孔食発生時にピット内部のpHを上げつつ不動体被膜の再生を促進するため,腐食を抑制する6.母材のクロム濃度の維持と腐食発生時の窒素の働きにより,低温プラズマ窒化処理により形成した拡張オーステナイト相は,母材と同等かそれ以上の耐食性を有する7-9

拡張オーステナイト相は,窒素が最大33 at%程度固溶し,窒素の固溶により結晶格子は9%膨張する10.窒素濃度が増加する過程で,拡張オーステナイト相は膨張に加えて格子回転が発生し塑性変形する11.この塑性変形は,窒化層表面にみられるすべり線や結晶粒間への段差の発生,拡張オーステナイト相の転位や積層欠陥を引き起こす12-17.このように拡張オーステナイト相の窒素濃度増加は,複雑に材料組織に影響するが,本研究では,摩耗に関連する格子定数および残留応力について窒素濃度との関係を示すことを試みた.

拡張オーステナイト相の摩耗特性については,窒化処理法,窒化処理条件,摩擦試験方法・相手材について調査されてきた3,18.拡張オーステナイト相の形成した試料は,未処理のオーステナイト系ステンレス鋼と比較して大きく摩耗量が減少する19.また,窒化処理温度や窒化処理時間により,拡張オーステナイト相の厚さや化合物の有無による摩耗特性の差は,拡張オーステナイト相中に窒化クロムが含まれる場合,窒化クロムの脆性の影響を受け摩耗量は増加する9.また,拡張オーステナイト相厚さがしきい値を超えると摩耗量が大きく減少するという報告もある3,19.拡張オーステナイト相は,オーステナイトの結晶構造中に窒素が過飽和固溶した拡散層であるため,拡張オーステナイト相の摩耗特性は窒素濃度に依存すると考えられ窒素濃度プロファイルにしたがって,連続的に変化することが予測される.現在,拡張オーステナイト相の摩耗特性は,しゅう動距離と摩耗量の関係から評価され3,摩耗速度については,しゅう動距離と摩耗量から算出できる.このようにして得られた摩耗速度は,摩耗部の平均値として評価される.しかし,数µmの摩耗の影響を受けるような医療や半導体製造をはじめとした分野の器材へと拡張オーステナイト相を形成した際に,窒素濃度から拡張オーステナイト相の摩耗速度を把握することは,器材の交換時期や製品への影響を制御する上で重要である.そのため,拡張オーステナイトの深さ方向の各位置における窒素濃度と摩耗速度の関係を明らかにすることが求められる.

本研究では,拡張オーステナイト相の持つ窒素濃度プロファイルから,拡張オーステナイト相の深さ方向の各位置における摩耗速度を明らかにするために,拡張オーステナイト相の窒素濃度勾配が一定の領域を薄層にわけて評価した.

2. 実験方法

2.1 実験材料

本研究で用いた試料は,オーステナイト系ステンレス鋼(AISI304)で,化学成分をTable 1に示す.材料は,クロムが18%,ニッケルが8%含まれた典型的なオーステナイト系ステンレス鋼であり,耐食性が求められる分野で幅広く用いられている.このAISI304丸棒を機械加工により直径20 mm,厚さ3 mmの円板に加工した後に,加工誘起マルテンサイトおよび加工による残留応力を除去するために,1025℃で120 min保持した後に空冷する固溶化処理を施した.試料表面は,耐水研磨紙とダイヤモンドスラリーによるバフ研磨を行い,算術平均粗さRaで5 nmの鏡面に仕上げた.研磨後の試料は,プラズマ窒化処理前に,アセトンによる超音波洗浄を5 min行い,その後真空容器中でアルゴン・水素プラズマ洗浄を行った.アルゴン・水素プラズマ洗浄の条件はTable 2の通りであり,アルゴン・水素プラズマ洗浄は,表面に吸着した不純物の除去と窒化処理前に不働態皮膜を還元し,窒化処理を均一に処理するために行った.

Table 1 Chemical Composition of AISI304 mass%.
Table 2 Conditions of Ar-H2 plasma cleaning.

2.2 プラズマ窒化処理

本研究で窒化処理に用いたプラズマ装置は電子ビーム励起プラズマ装置7,20を改良した自作のプラズマ装置であり,概略図をFig. 1に示す.このプラズマ装置は,電子銃とチャンバーから構成されており,プラズマ生成のための機構と窒化処理条件の制御のための機構がわけられている.従来のイオン窒化では,処理物を負極にし,数kVの高電圧を印加することでプラズマを生成し,生成したプラズマ中のイオンが持つ高い運動エネルギーと大きな流束を利用して窒化処理が行われる.そのため,プラズマ生成条件を変えるとイオンの運動エネルギーや流束が変化するため,窒化処理条件のみを独立して制御できない.一方で,本装置は,プラズマ生成機構と窒化処理条件の制御機構がわけられており,独立してプラズマ生成条件と窒化処理条件を制御することができる.本装置の電子銃は,タングステンフィラメント,LaB6製のS0電極,カーボン製のS1電極およびAISI304製のS2電極で構成されている.S1電極は内径32 mmのカップ上で,中心部に3 mmの孔があいている.また,S2電極はAISI304製の金網を用いており,線径0.40 mm,目開き2.14 mm,開口率71%の平織りのものを用いた.チャンバーはAISI304製で長さ550 mm,内径500 mmで,加熱装置として円筒ヒーターが内部に設置されている.ヒーターは,長さ350 mm,内径350 mmで,ヒーター容量が3500 Wである.

Fig. 1

Schematic diagram of plasma nitriding equipment.

本プラズマ装置は,3つの領域が存在し,フィラメント,S0電極,S1電極から構成される放電領域とS1電極およびS2電極で構成される拡散領域,窒素・水素プラズマが生成する処理領域の3つの領域である.装置内を真空ポンプにて排気した後に,放電領域内にアルゴンガスを導入する.フィラメントに直流安定化電源を用いてVfを印加し加熱することで熱電子を生成する.S0-S1間に放電電圧Vdを印加し,熱電子を加速する.加速した電子をアルゴン分子に衝突させ,電離を発生させる.この衝突による電離の繰り返しによりアルゴンプラズマが生成しS1電極には放電電流Idが流れる.このアルゴンプラズマの生成は,フィラメントのわずかな熱電子を大量の電子に増幅する.放電後,アルゴンガスから窒素ガスへと切り替える.S2電極に引き出し電圧Vbを印加することで,放電領域内の電子は,拡散領域へと引き出される.引き出された電子は,一度S1電極の孔により絞られるため,空間電荷効果により拡散領域では大面積に拡散する.拡散した電子は,処理領域へと導入され,処理領域内に導入された窒素・水素分子を解離・電離させて,窒素・水素プラズマを生成する.

プラズマ窒化処理条件をTable 3に示す.真空排気後のプラズマ装置の放電領域内に窒素ガスを5 sccm,処理領域内に水素ガスを15 sccm導入した.このとき,チャンバー内の圧力はゲートバルブにより1.0 Paに調整し,S2バイアスを30 V印加してプラズマを生成した.窒化処理温度はヒーターにて窒化クロムの形成温度より低くなるように400℃に制御した.試料の設置位置は,S1電極から325 mmの距離であり,試料バイアスは−10 Vを印加した.また,拡張オーステナイト相の窒素濃度および厚さを制御するため,窒化処理時間を1 hから24 hまで変化させた.

Table 3 Plasma nitriding conditions.

プラズマ窒化処理後の試料は,硬度をマイクロビッカース硬度計で測定し,試験力は0.1 Nに設定した.形成した拡張オーステナイト相を観察するため,試料を切断し断面を鏡面まで研磨した.その後,10%シュウ酸水溶液を用いて電圧5 Vで30 s電解エッチングを行った.さらに,断面の窒素濃度分布は,フィールドエミッション電子プローブマイクロアナライザ(EPMA,日本電子㈱/JXA-8530F)を用いて測定し,検出器は波長分散型X線分光器(WDS)を用いた.また,電子ビームのスポット系は0.1 µm,加速電圧を15 kVに設定した.

2.3 格子定数および残留応力測定

本研究で用いたオーステナイト系ステンレス鋼表面に形成した拡張オーステナイト相の格子定数および残留応力測定の条件をTable 4に示す.残留応力測定は,あいちシンクロトロン光センターのビームラインBL8S1を使用し,X線エネルギーは,AISI304に含まれる鉄の蛍光X線の影響を避けるため14.37 keVを用いた.受光側にソーラースリットを設置し,広がり角5°で,検出器はシンチレーションカウンターを用いた.

Table 4 Measurement conditions of residual stress by synchrotron radiation.

格子定数の測定は,深さ1 µm程度の領域を分析するため,入射角を3°に固定した斜入射X線回折(2θ-ω法)によりX線回折パターンを測定した.このX線回折パターンから,Cohenの方法により格子定数の精密化を行った21.さらに,残留応力の測定は,同じ厚さの拡張オーステナイト相を評価するため,侵入深さ一定法を用いた22.X線の侵入深さは,X線の入射角で決まるが,通常,残留応力測定に用いられる並傾法と側傾法では,ψ角を変化させた際に,X線の入射角が変化するためX線の侵入深さが変化してしまう.侵入深さ一定法は,側傾法と並傾法を組み合わせた手法で,側傾法をベースに並傾法で用いるω角を同時に加えることで,入射角を一定に保ち,X線の侵入深さを一定に維持する手法である.本研究では,1 h,3 h,6 h窒化処理された試料の拡張オーステナイト相を厚さ1 µmごとに格子定数と残留応力を測定するため,侵入深さが1 µmとなる入射角を3°に設定した.残留応力測定に用いた結晶面は,γ-Fe (311)で行い,無歪み角2θ0を46.58°とし残留応力を算出した.また,表面から深さ1 µmおよび2 µmの拡張オーステナイト相の測定では,事前にリン酸を用いた電解研磨で目的の深さを露出させた.本測定で得られる格子定数および残留応力は,X線回折による測定の特性上,X線が侵入・透過した領域の平均値となるため,拡張オーステナイト相の窒素濃度は,X線が侵入・透過した領域の平均値とした.

2.4 摩耗速度測定

摩耗速度を測定するために,ボールオンディスク方式の往復しゅう動摩耗試験(新東科学㈱/トライボギアTYPE:40)を行った.本研究で用いた条件をTable 5に示す.相手材は,直径10 mmの窒化ケイ素球を用いた.窒化ケイ素は他の材料と比較し,化学的親和性が低く耐摩耗性に優れている.さらに,線膨張係数が低いため温度が上昇しても寸法が変化しにくく,また切削工具に用いられるように強度が高いため相手材に採用した.荷重は10 N,しゅう動速度は0.04 m/sに設定し,無潤滑で試験を行った.しゅう動距離は,固定せず,拡張オーステナイト相の深さ方向への評価では,摩耗深さが1 µmに到達した時点で終了した.摩耗深さおよび摩耗量は,レーザー顕微鏡(オリンパス㈱/OLS4100)を用いて画像の深度合成を行い,得られた高さ情報から摩耗深さと摩耗量を求め,摩耗速度を算出した.

Table 5 Conditions of ball on disk reciprocating wear test.

3. 実験結果および考察

プラズマ窒化処理後に,断面を10%シュウ酸水溶液で電解エッチングした写真をFig. 2に示す.拡張オーステナイト相の厚さは,処理時間1 hの試料では約1 µm形成し,処理時間が長くなるにつれて増加し,処理時間24 hの試料では約6 µm形成した.また,最表面の拡張オーステナイト相と母材の間に,観察された層は,母材にもともと固溶している炭素が窒素の拡散の際に試料内部へと押し込まれることで炭素濃度が増加した層であり,炭素の固溶体で構成されている23.この層については,以後のX線回折や往復しゅう動試験においては測定領域外となり,本研究では拡張オーステナイト相についてのみ評価した.さらに,形成した拡張オーステナイト相に対して,EPMAを用いて測定した断面の窒素濃度プロファイルをFig. 3に示す.表面の窒素濃度は,窒化処理時間が長くなるにつれて増加し,処理時間6 h以上で27 at%程度に飽和した.拡張オーステナイト相の飽和窒素濃度については,約30 at%の報告がされており,本実験の結果と一致する24.また,窒素の拡散深さは,処理時間の増加によって深くなり,表面の窒素濃度が27 at%程度に飽和した試料では,いずれの試料も同様の窒素濃度勾配が得られた.さらに,表面窒素濃度の飽和後は処理時間が長くなると,一定の濃度勾配がより深くまで続いた.この平坦に近い濃度勾配から急激に減少する窒素濃度プロファイルは,オーステナイト系ステンレス鋼特有のものであり,窒素濃度勾配が一定の領域から母材の窒素濃度へと急激に減少する部分に注目すると,6 h, 12 h, 24 hにみられるような傾きのものと,9 hの試料にみられる垂直に近いような急激に減少するものの2パターンが本実験では得られた.オーステナイト系ステンレス鋼の窒素拡散速度は,単結晶を用いた実験から結晶方位により異なった拡散係数が得られており,(100)の拡散係数は(111)の拡散係数より約2倍高くなる.そのため,窒素濃度の減少部の差は,拡散深さ終端部の結晶方位の違いであると考えられる25,26

Fig. 2

Cross-sectional photograph of plasma nitrided samples for treatment time of (a) 1 h, (b) 3 h, (c) 6 h, (d) 9 h, (e) 12 h, (f) 24 h.

Fig. 3

Nitrogen concentration profile of Plasma nitrided samples with treatment time.

入射角を3°に固定した斜入射X線回折により得られたX線回折パターンをFig. 4に示す.未処理のAISI304の回折パターンと比較し,窒化処理後の試料はいずれのピークも低角側へとシフトしている.また,窒素濃度が増加すると,オーステナイト相のピーク強度が減少し,低角側の拡張オーステナイト相のピーク強度が増加する.さらに,ピーク位置はより低角側にシフトした.この回折パターンのピーク位置から,面心立方格子として計算した格子定数および入射角一定法により測定した残留応力と窒素濃度の関係をFig. 5(a)に示す.未処理のSUS304の格子定数は0.360 nmとなり,窒素の固溶により格子定数は増加し,窒素濃度25.3 at%で格子定数0.391 nmとなり,未処理のSUS304から約8%膨張した.格子定数の増加傾向は,SUS304に対して350℃でイオン窒化された試料と一致し,窒素濃度が約25 at%のとき,a軸の格子定数は約0.39 nmが得られおり,本研究の結果においても0.39 nm程度に収束する傾向がみられる27.また,ガス窒化処理されたAISI316においても,窒素濃度が25-30 at%含まれる拡張オーステナイト相では,0.388 nmの格子定数が得られている28.一方で,拡張オーステナイト相の残留応力は,未処理の試料表面では,ψ角を変化させてもピーク位置のシフトは観察されず,残留応力は得られなかった.窒化処理後の試料では,窒素濃度の増加とともに残留応力は対数関数的に増加し,約25 at%で約2.3 GPaの圧縮の残留応力が発生した.拡張オーステナイト相の残留応力測定は様々行われているが,プラズマ窒化処理法や測定手法,選択した結晶面により変化する.アクティブスクリーンプラズマ窒化処理された試料とイオン窒化処理された試料の残留応力では,特性X線Cu-kα,拡張オーステナイト相の200面を利用して測定され,それぞれ約2.6 GPa,約5.3 GPaの圧縮の残留応力が得られている29.一方で,ガス窒化した試料を,特性X線Cr-kα,拡張オーステナイト相の結晶面111面,200面に対して,入射角を3°,7°,12°に固定し,χ角制御することでψ角を変化させて測定した結果では,格子定数が約0.388 nmで圧縮の残留応力が3500-5000 MPa程度であった30.また,AISI304の厚さ0.1 mmの薄板に対して,イオンビーム照射により窒化処理を行いながら,薄板の反りを利用して残留応力をその場計測した結果では,1.5 GPa程度の圧縮の残留応力が計測された31.このように,拡張オーステナイト相の残留応力の絶対値は格子定数と異なり,1-5 GPaとバラつきが大きく単純に比較ができない.しかし,本研究で得られた残留応力は,同一の材料および窒化処理法,応力測定法を用いているため,窒素濃度と残留応力の相対的な関係が得られている.また,格子定数・残留応力は,窒素濃度の増加に対して,それぞれ増加する傾向が得られたことから,窒素の固溶により結晶が膨張し,その結果表面に圧縮の残留応力が発生したと考えられる.さらに6 h窒化処理した試料の拡張オーステナイト相を表面から1 µmごとに格子定数および残留応力の変化をまとめたものをFig. 5(b)に示す.表面からの距離が増加するにしたがい,格子定数および残留応力は減少した.これらの結果から,拡張オーステナイト相全体が均質ではなく,Fig. 5(a)でも示したとおり,表面からの各深さの窒素濃度に対応する格子定数および残留応力を持つことが確認された.

Fig. 4

X-ray diffraction patterns for nitrogen concentration of, (a) 25.3 at%, (b) 17.1 at%, (c) 10.3 at%, (d) 4.78 at%, (e) untreated.

Fig. 5

The relationship between Lattice parameter and Compressive residual stress with (a) nitrogen concentration (b) distance from the surface of the expanded austenite phase with treatment time of 6 h.

Fig. 6に6 h,9 h,12 h,24 hの窒化処理により形成した拡張オーステナイト相を電解研磨により同じ25 at%の窒素濃度を持つ拡張オーステナイト相を露出させた.窒素濃度は,Fig. 3に示した断面の窒素濃度プロファイルをもとに目的の深さを設定し,エッチング時に試料表面の一部分をマスキングし,マスキング部とエッチング部との高さ情報の差を,レーザー顕微鏡を用いた画像の深度合成から得ることで,電解研磨により目的の深さが露出していることを確認した.この電解研磨により露出した拡張オーステナイト相に対して,しゅう動距離25 m,試験荷重10 Nの同条件で摩耗速度を比較した結果を示す.異なる処理時間・異なる厚さの拡張オーステナイト相においても,約35 × 10−6 mm3/minの同程度の摩耗速度が得られ,摩耗速度同士の誤差は約5%程度であった.この結果から,異なる処理時間により形成した拡張オーステナイト相においても同等の摩耗速度が得られることが確認された.さらに,Fig. 7(a)に1 h,3 h,6 h,24 h窒化処理した試料に形成した拡張オーステナイト相を表面から1 µmごとに窒素濃度勾配が一定の領域について,摩耗速度を測定した結果を示す.表面からの距離が増加するにしたがって,摩耗速度が増加した.したがって,拡張オーステナイト相の摩耗速度は一定ではなく変化し,摩耗の進行にともなって摩耗速度が増加する.この拡張オーステナイト相の摩耗速度および硬度と窒素濃度の関係をFig. 7(b)に示す.窒素濃度が5 at%では約140 × 10−6 mm3/minの摩耗速度が得られ,25 at%では,摩耗速度35 × 10−6 mm3/minとなり大きく減少した.異なる窒化処理時間で形成した拡張オーステナイト相の摩耗速度は,窒素濃度に対して同じ傾向があることが確認され,拡張オーステナイト相の窒素濃度が増加すると摩耗速度は対数関数的に減少する相関関係が得られた.また,拡張オーステナイト相の硬度については,窒素の固溶により15 at%を超えたあたりから硬度が大きく増加し,25 at%では約1300 HVに指数関数的に増加した.つまり,Fig. 7(a)の表面からの距離の増加により,摩耗速度が増加するのは,Fig. 5(b)にも示したように,窒素濃度の減少により,格子定数・残留応力が減少し,その結果拡張オーステナイト相の硬度が減少したためと考えられる.拡張オーステナイト相の摩耗量については,304オーステナイト系ステンレス鋼に対して,処理圧力を変化させてイオン窒化処理を施した場合では,表面硬度が増加すると摩耗量は減少し,摩耗量と表面硬度の関係を表すアーチャードの摩耗方程式と一致するとしている8.また,イオン窒化の処理時間を変化させたAISI316に対して往復しゅう動試験を行った結果では,処理時間の増加にともない比摩耗量が減少する傾向が得られている19.これらの摩耗試験から得られたしゅう動距離に対する拡張オーステナイト相の摩耗量や比摩耗量を用いて算出される摩耗速度は,摩耗した領域の平均値として得られる.一方で,本研究の結果では,拡張オーステナイト相への窒素の固溶の影響を明らかにするため,窒素濃度勾配が一定の領域ごとの薄層にわけて,格子定数,残留応力,硬度の変化と対比しながら摩耗速度を評価した.その結果,各薄層の摩耗速度の評価から,窒素濃度と摩耗速度の関係が明らかとなった.この関係から拡張オーステナイト相の深さ方向の各位置の窒素濃度に対する摩耗速度が得られる.したがって,本研究の手法を用いて拡張オーステナイト相の窒素濃度プロファイルから深さ方向の各位置の摩耗速度が得られることが示された.

Fig. 6

Comparison of wear rate of expanded austenite phases with nitrogen concentration at different nitriding times.

Fig. 7

(a)Wear rate of different treatment time with distance from surface, (b) the relationship between wear rate and hardness of expanded austenite phase with nitrogen concentration of expanded austenite phase.

4. 結言

本研究は,拡張オーステナイト相の深さ方向の各位置における摩耗速度を明らかにするため,窒化処理時間を1 hから24 hまで変化させ,異なる厚さと窒素濃度の拡張オーステナイト相を形成した.この拡張オーステナイト相の窒素濃度勾配が一定の領域ごとの薄層にわけて評価し,窒素濃度と拡張オーステナイト相の関係について得られた結果を以下にまとめる.

(1) 異なる窒化処理時間で形成した拡張オーステナイト相の摩耗速度は,窒素濃度に対して同様の傾向が得られた.さらに,拡張オーステナイト相の窒素濃度と摩耗速度は相関関係が得られた.

(2) 拡張オーステナイト相の窒素濃度は,6 h以上処理した試料は27 at%程度で飽和し,処理時間の増加により窒素濃度勾配が一定の領域が形成・増加した.

(3) 拡張オーステナイト相の格子定数および残留応力は,窒素濃度の増加により,対数関数的に増加した.また,硬度は,指数関数的に増加した.

以上の結果より,拡張オーステナイト相の薄層の窒素濃度と摩耗速度の関係が得られ,この関係から拡張オーステナイト相の窒素濃度に対する摩耗速度が得ることができる.よって,本研究の手法は,拡張オーステナイト相の窒素濃度プロファイルから深さ方向の各位置に対する摩耗速度を明らかにできることが示された.

本研究の格子定数および残留応力測定は,科学技術交流財団あいちシンクロトロン光センターのBL8S1で行いました.関係者の皆様にこの場を借りて感謝いたします.(実験番号:202002058, 202006127, 2020D6054)

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