文化人類学
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論文
物語る私のドローイング
ある心身障害者の例にみる、「線」が切り開く生の新たな可能性について
中谷 和人
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2016 年 81 巻 3 号 p. 431-449

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抄録

ミシェル・フーコーの生権力(生政治)論は、我々の生をとりまく今日の社会政治的布置を批判的に記述・分析するための有効な視座を提供してきた。しかし他方で、フーコー自身は、生がそうした特定の権力布置から絶えず「逃れ去る」ものであることも鋭く指摘していた。本論ではこの指摘を踏まえつつ、デンマークの障害者美術学校「虹の橋」に所属していた一人の男性生徒のドローイングに焦点をあて、その「線を描く」という営みが、いかに現在支配的なそれとは異なった生存の仕方(生き方)を可能とするかを追究していく。1980年代以降デンマークで進められてきた脱施設化の過程は、決して障害者の単なる「自由解放」ではなかった。むしろ、その延長線上に近年実施されたある全国プロジェクトの例から浮き彫りになるのは、かれらの自己決定や参加を、いかに 客観的で標準化された形式のもとで監視し、コントロールするかという問題である。そしてそのさいに活用される方法こそ、「監査」と呼ばれる新しい統治技法にほかならない。だが、自己と他者の統治、そして自らの生の形式化は、必ずしも監査の実践を通じてのみなされうるわけではない。そこで取り上げるのが、虹の橋に長年在籍しつつも、2012年に急逝したセアンという男性の事例である。先在する経験の模倣や再現ではなく、むしろ、その真の「所有」を通じて自己自身の変容へと向かうセアンの線描画制作、そしてその作品の中にたどられた「物語」に随うという他者の営みがつくりあげてきたのは、監査におけるそれとは根本から異なった、美学的でかつ倫理学的な自己の自己自身に対する関係、自己と他者のあいだの関係である。本論ではこれを、プロジェクトで作成される「図」と、セアンが描く「作品」との比較を通じて明らかにすることで、今日支配的な社会政治的布置の内部で「線」が切り開く生の新たな可能性について探究する。

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2016 日本文化人類学会
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