教育心理学研究
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生活史にみる依存の発達
高橋 恵子
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1974 年 22 巻 1 号 p. 1-10

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抄録

生活史の分析の結果, 次のようなことが指摘された。
1質問紙で判定された依存構造の焦点の類型によって, それぞれ型ごとに異なる対人関係をもっていることがうかがわれた。すなわち, 母親型では母親を焦点とし, 愛情の対象型では愛情の対象を焦点とするといった具合に, くわしく分析した18ケースのうち17ケースまでが質問紙調査の結果に一致するものであった。ただし, 愛情の対象型, 4ケース中1ケースでは, 質問紙ではそれを焦点としていると判定されたが, 生活史の記述によれば焦点とは認めがたいというずれがみられた。
2質問紙調査である型を示すものが, 過去にもったと報告する対人行動は, 焦点の類型ごとに少なからず共通点があった。現在ある型を示すものは, 突然にその型になるのではなく, かなり幼い頃から, そうなる傾向をもちながら成長してきたらしいのである。前述の真に愛情の対象が焦点とはいえないとみなされた愛情の対象型はその意味でも例外であった。この例外については2通りの見方が考えられよう。1つは, 質問紙か生活史かどちらかが虚構ではないかというものである。そして他は, 発達が不連続のようではあるが,(まるで木に竹をつぐように, それまでの発達とは不連続に, 突然愛情の対象を見合いで得たのであった。) これも真の愛情の対象型なのではないか, というものである。多くの発達は連続であろうが, 時には, 急激に変ることもありうる, その例とみるべきかもしれないという見方である。
生活史によれば, 依存構造の型は, 大きく家族型 (母親型, 母親一父親型, 母親一兄型などの家族を焦点とする型) と他人型 (親友型, 愛情の対象型などの家族以外の人を焦点とする型) に分けられる。家族型では一般に幼児期から社会的行動における消極的な傾向がすでに顕著に報告されていいて, 大学生に至るまで変っていない。かれらは, 幼稚園においてすでに友人がもてず, それぞれの学校生活においても適応していくことに困難をおぼえている。他人型のものが幼い頃から積極的な対人行動をしており, 友人との生活をさかんに記述している中学・高校時代にも, 家族型のものは, 友人をもてないで, 家族をたよる。他人型のものでは, 中学・高校時代の記述では家族がほとんど出現していないのに対して, 家族型では中心的記述が家族にある。大学進学の決定などにおいても, 家族型が家族に相談し影響をうけるのに対し, 他人型では家族に決定の結果を報告するといった相違がみられる。同じ型に共通で, 型が異なれば異なるように思える項目はTABLE1のようになった。
3従来の実証的な資料によって指摘されてきた依存の対象の発達に関する一般的な傾向は生活史においてもみられた。すなわち, 母親は一般には幼児期と小学生時代の中心であり, それ以後は友人が中心的になり続ける。友人が中心に移ったことによって, 母親が不必要であったとするケースもあるほどである。愛情の対象は, はじめは友人一般の中に入っている。愛情の対象を現在もつものでは友人関係の発達が青年前期から著しい。男女の区別なく友人とっきあえたものが, 愛情の対象をやがてもっといえそうである。父親は幼い頃から, 「こわい人」といった印象で語られ, 生活史の中でも一貫してくわしくは描かれない。両親は, 大学生になると, 人間として見直され, 青年前期の疎の関係から親和の関係に変化する。ただし, これらの発達を顕著にたどるのはさきの他人型のものであった。家族型のものでは一貫して中心は家族にあり, 青年期には, 友人との交渉が増大しながらも, そのことによって家族の果す機能がゆるがずに, 現在においても, 家族が中核にある。
生活史を分析していくと, 「どの個人として同じ個人はいない」 (Allport, 1942) といいながらも, その中にまた多くの共通項もあるのだということがわかる。生活史は, 現在からの回顧なのであり, 現実の心理過程が反映されているとは必ずしもいえないが, 発達の仮説を得るには, 有効な方法だと思われた。
従来の資料によれば, 依存の対象の選択は広い範囲の対象から自由にそのっどなされていたような印象をうけるのであるが, 実際には, それぞれが, 家族型, 他人型といった傾向をすでに幼児期からもって, 一般にはその傾向を持ちっづけることになりがちだといってよいように思われるのである。だからといってこれが幼児期決定説の証拠になるというのではない。ある構造をもっものの発達は, その構造に媒介されていくために, 幼い頃から一貫性が保たれたような結果になるのであろう。しかし, その構造自体が, それぞれの段階で変化していく可能性を認めているが故に, これは幼児期決定説とは根本的に立場を異にするといえよう。
家族型と他人型のどちらがよりのぞましいかを一概に語ることはできないであろうが, 家族型では, ややもすると次のような問題が生じる度合が, 他人型のものにくらべ大きいのではないかと思われる。第1に, 家族型では生活史の中にみられたように, 対人関係における積極性が乏しい場合が多くなることが予想される。かれらは, 多くの場合, 対人行動の上での冒険をしなくなりがちだと思われる。対人行動の上で臆病で, かっ, それが下手である。そのために, よりよい機能を果すものをとるといった積極性に欠ける場合が出てくるのではないかということである。第2に, 家族型では, 血縁関係にしばられてしまい, 自己の実現性をはばまれることが多くなりがちだという問題も重大であろう。たとえば, 母親型のものでは, 自分の意に満たぬのではあるが, 家業を継ぐことをいやいやひきうけているケースや, 結婚ゐ目的が, 母親に孫を抱かせることであったり, 両親を安心させるためであったりするものがある。家制度が精神的には存続しているわが国の文化においては, 家族型が多くなりやすいし, そのために自己実現化が妨害されることも多くなりがちだと思われる。

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