スポーツ社会学研究
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原著論文
岸信介の東南アジア政策とスポーツ
―プロボクシング「東洋チャンピオン・カーニバル」を中心に―
乗松 優
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2010 年 18 巻 1 号 p. 83-94

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抄録

 中国が日本と米国との間の関係改善をするきっかけとした卓球世界選手権(1971年)から溯ること14年前、フィリピンと日本の間でもスポーツを中心とした交流が、外交の切り札として重視されたことがある。この文化を通した信頼回復とでも呼べる例は、ガルシア大統領と岸信介首相の間で「国際間の協力の基礎」と位置づけられるほど、大きな注目を集めた。
 1960年代初めまで日本は外貨不足に悩まされており、政府は莫大な外貨資金を必要とする国際競技大会に否定的だった。この方針を転換したのが、1957年に首相の座に就いた岸だった。彼は同年、東京で東洋選手権の国別対抗戦として開催された「東洋チャンピオン・カーニバル」に外務省後援を与えるだけでなく、自ら関係者を接待して政府の積極的姿勢を示した。吉田茂が結んだ不均衡な対日安全保障条約の再考をアメリカに迫り、東南アジアへ経済の足がかりをつけようとする岸政権にとって、この時期にアジア諸国間で行われた国際戦は外交戦略上、無視できない存在だった。
 一方で、外貨割当の優先順位において分の悪いプロスポーツは、強力な後ろ盾がなければ国際大会の開催が危ぶまれた。そのため、真鍋八千代はカーニバルが果たしうる「友好」や「親善」を言葉巧みに売り込んだ。この真鍋は後年、球史にその名を刻む天覧試合(1959年)を正力松太郎と共に運営するほど、財界の実力者だった。
 東洋選手権が担った政治的役割は、国際競技を日本とアジアの友好関係として演出することにあった。その理由は、戦禍を被った国々では通商再開を急ぐ日本に不信感が生まれており、政府は国益を追い求める他に、国際親善という大義名分を果たさねばならなかったからである。

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© 2010 日本スポーツ社会学会
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