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視点
スポーツは健康のため?
赤松 幹之
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2012 年 55 巻 7 号 p. 516-520

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1. スポーツは身体に良いのか

現在のわが国において,多くの人たちが健康を希求しているといっても過言ではない。そして,健康のため,というと誰もがスポーツを思い浮かべるであろう。しかし,スポーツは本当に健康のためになるのであろうか。

正直に言うと,筆者はスポーツが嫌いである。小さいときから走るのが遅く,運動会などで良い思いをした記憶がない。さらに,中学時代には学校の方針で強制的に運動部に入らされて,そこで腹筋,腕立て伏せ,うさぎ飛びを嫌というほどやらされた。それだけではない。先輩の言うことには,逆らうことができなかった。残念ながらスポーツに良い思い出はない。

大学医学部の整形外科学教室でポスドク研究員をしていたことがある。そのときに,医学部の先生が私に「あのね,健康でいたかったら,スポーツをしたらダメだよ。軽い適度な運動というものもないからね」と言うではないか。スポーツ嫌いの私に,スポーツをしない方が良いと医学部の教授が言ってくれるではないか。

しかし,その話の根拠は簡単である。そこは整形外科である。患者さんとして来る人たちにはスポーツで怪我をした人たちが多くいる。もちろん無茶をして怪我をする人もいるが,ちょっとしたことで転倒して骨折をした人もやってくる。少なくとも整形外科にやってくる患者さんたちを見ていると,スポーツは怪我をするためにやっていると思えてくる。どんな軽い運動でも怪我をするから危険だと医学部の先生が言うのは当然のことであろう。実際のところ,身の回りでも,スポーツをしていて何らかの怪我や障害を起こしていない人はほとんどいないのではないだろうか。テニスをして肘や腰が痛くなった人は数知れず,サッカーで捻挫や骨折をしていない人はいないことだろう。しかし,それでも人は健康のためと称してスポーツをしている。不思議ではないか。

2. スポーツの起源

スポーツは英語でsportであるが,その語源はフランス古語のdisportあるいはdesportである。オックスフォード英語辞典にsportの意味として最初に書かれているのは,「気晴らし」「エンターテインメント」「楽しみ」「遊び」である。われわれの持っているスポーツという語のイメージとは少々違う。Disportのportは港であるが,porterという語があるように,荷を運ぶという意味を持っている。一方,disは否定の意を持つ接頭辞であることから,これを組み合わせると,役務から離れるという意味となる。すなわち,仕事から離れて気晴らしをするものとしてスポーツがあった。このように気晴らしであったスポーツが,どのようにして現在のスポーツの姿になったのであろうか。

あるときフランス人と話をしていたら,アングロサクソン・スポーツという言葉がでてきた。いわく,フランス人が好きな唯一のアングロサクソン・スポーツはサッカーだと。ヨーロッパ人にとってはラテンのスポーツ,アングロサクソンのスポーツという区別があるのかと思ったが,彼らがアングロサクソン・スポーツといっているのは,われわれにもなじみのある野球,サッカー,テニス,ラグビー,バレーボール,バスケットボールなどである。確かにこれらのスポーツは,イギリス(野球の元になったタウンボール,フットボール,サッカー,ラグビー),アメリカ(野球,バレーボール),あるいはカナダ(バスケットボール)で作られたものである。そしてこれらに共通するのが,19世紀ごろに確立されたという点である。なぜ,これらのスポーツが近代である19世紀にできたのであろうか。

3. スポーツはイギリスで確立された

ラテン系のフランス人が大好きなサッカーは,フットボールが元であるが,そのフットボールやその派生であるラグビーはイギリスのパブリックスクールによってできた。パブリックスクールはジェントルマンを育てるための学校である。ジェントルマンとは土地を貸すことで十分な収入が得られている不労所得者であり,私利を拡大するためにあくせく働く必要がない。そして,普段は知識と教養を磨き,世の中で正すべきことがあれば君主に進言し,有事の際には馳せ参じて命を惜しむことなく奉仕をするとされた人たちである。ゆったりと心を構えて国のことを考え,常に自分を律し,自分を磨くことが,ジェントルマンのあるべき姿であった。そういったジェントルマンを育てるべく,パブリックスクールでは規律を守ることを身につけさせようとした。そのために,きっちりとルール化したスポーツが教育の1つとして導入されたのである。ルールを守り正々堂々と戦うというスポーツマンシップという概念を確立させたのがパブリックスクールであり,規律を守って戦うのがスポーツであるというのはイギリスが作り出したものである。スポーツにおいて先生や先輩の言うことをきけ,というのもここらに起源がありそうで,スポーツ本来の気晴らしという性質をこのころに失っていったようである。

このように,われわれがスポーツと思っているものの多くがアングロサクソン系の国によって作られた。しかし,アングロサクソン系の国で行われたことは,何がフェアで何がファールなのかを決めたこと,また得点の付け方を決めたことであり,それぞれのスポーツのルールの確立であった。これに対して,スポーツの中身の原型は,語源からわかるように中世フランスにまで遡ることができる。

4. 中世のスポーツ

中世の気晴らしとしてのスポーツは大きく分けて3つのタイプがあった。戦いを模したもの,ボールを使ったもの,そして野山を駆け回るものに分けられる。最初のタイプは主に腕自慢のものがするもので,後者の2つは主に王侯貴族がしていた。

戦いを模したスポーツというものは,われわれの感覚からすれば楽しみというには過激なものであり,その代表は剣を使って馬に乗って合戦をするトゥルノア(Tournois)である。のちには木製の剣になったものの最初は実戦さながらのものだった。いわば騎馬戦の実戦版である。鎧はつけているものの,そこで命を落とすものも少なくなかった。一方,木製の槍を使って1対1の決闘をするのがジュート(Joutes)である。もちろんこれも命を落とすことがあった。やや時代が下がると,馬に乗って地面に立てられた的を槍でつくカンテンヌ(Quintaine)が行われた。流鏑馬の槍版である。中世では,そこかしこで戦争が行われており,こういったスポーツは自らの戦いの能力の高さを示すものであり,勇猛さを競ったのであった。

ボールを使った遊びは古くから世界中に存在していた。ポーム(Paume)は詰め物をしたボールを棒切れで打ち合うもので,ボールを追いかけて激しく動きまわるスポーツである。へとへとになるまでやっており,瞬発力やとっさの判断力だけでなく,持久力があることを示すものであった。中世では非常に人気を博し,多くの人が熱中していた。当初は素手でボールを打ち合ったが,しだいに道具を使ってボールを打つようになり,16世紀にはラケットが登場する。屋外や屋内にポーム場が作られたが,間にネットが張られてボールを打ち合った。おわかりのように,これはテニスの原型であり,15世紀ごろにイタリアを介してイギリスに渡ってテニスとなった。個人プレーのボール遊びだけでなく,2つのチームに分かれて行うボール遊びもあった。木製あるいは詰め物をした革製のボールを蹴って城壁や教会の門などに作られたゴールを通過させるスール(Soule)というスポーツが12世紀ごろから行われていた。激しくぶつかり合いながらボールを争うもので,蹴られた堅いボールを受けたり,人と衝突して大怪我をするものが絶えなかったという。これが海を渡ってイギリスに行ってフットボールになった。これがサッカーの起源であり,先のフランス人のサッカー=アングロサクソン・スポーツ説は正しくない。フランスからすればサッカーは逆輸入されたものであり,フランス人がサッカー好きであることは何ら不思議なことではないといえる。

野山を駆け巡るスポーツの代表は乗馬と狩猟である。乗馬の歴史は古く,戦いのための騎馬が行われ,それがスポーツ化されたのがトゥルノアやジュートである。一方,狩猟は本来は食料を得るためのものであったが,やがて狩猟すること自体が遊びとなる。獲物を追いかけて一日野山を駆け巡ることは,敵を追いつめることと同じであり,戦いのための体力と技量が元となる遊びであり,騎乗すること自体を目的としたスポーツすなわち馬術は17世紀ごろに始まるが,それはトゥルノアやジュートの衰退の時期でもある。剣や槍が棒に取って代わり,武術の側面が弱まることで,乗馬の面だけが残されたと見ることができる。

このように中世においては,フランス人たちは屋外あるいは野外でスポーツをして,自分の強さを発揮することを楽しんだ。しかし,18世紀ごろになると変化が訪れる。貴族たちは着飾り,礼儀正しくなり,社交が重要となる。かつては,何時間も野山を駆け巡っていたり,外でボールを打ち合っていたものが,何時間もダンスに興じるようになる。あるいはカードで遊んだり,読書をして一日屋内で過ごすようになる。激しく身体を動かしてスポーツで時間を過ごすよりも,知識や感性を楽しむことに価値がおかれるようになるのである。この時代が訪れたために,フランス人たちはこれらのスポーツの起源がフランスにあることを忘れてしまったようである。一方,イギリスに渡ったこれらのスポーツはルールが整備され,イギリスでのスポーツ熱は高まる。そして,前述のように19世紀に現在のわれわれが知るスポーツの形になる。ルールが明確化されたことで,スポーツは世界に広まりやすくなり,フランスに逆輸入されただけでなく,わが国にも上陸したのである。ちなみに,1896年に開催された近代オリンピックの第1回大会において,イギリスによって確立されたルールが使われたという。

スポーツは戦いに起源があり,強さを誇るものであった。それがより実戦に即したもののときは粗野なものであった。やがて社会における規律という枠がはめられて,自分を律して練習をつんで,その力をルールの下で発揮することがスポーツで求められることとなった。したがって,力を発揮して強さを競うことと上への服従や厳しい規律という現在のスポーツが持っている2つの性質は,フランスからイギリスへとたどってきたスポーツの歴史の現れなのである。

5. スポーツと富国強兵

あらためてスポーツと健康との関係を見てみよう。その起源においては,スポーツは身体を鍛えるものであり,戦いでも壊れない強靭な体を作り,負けない気持ちを持ち続けられる強い精神力,相手に負けない素早い判断力・動作,また戦い続けられる疲れない体力を発揮するものであった。これらは自分自身への挑戦であり,自分を克服する快感や,自らの能力を発揮しきる快感を伴うことから,遊びとして楽しいことであった。中世のようにそこかしこで戦争がある時代においては,スポーツで発揮される力は戦いに勝って生き延びる力であり,寿命の延伸のためのものである。健康を寿命の延伸ととらえれば,まさにこういったスポーツは健康のためのものだったといえる。しかしながら,その後のジェントルマンのためのスポーツは,規律を守ることが重視され,それは君主のために戦う気持ちを育むものであった。同じ戦いに勝つためといっても,自分自身が勝つのか国が勝つのかの違いがあった。

日本語としての健康という言葉は江戸後期になって使われるようになったものであり,江戸時代以前においては養生という言葉が使われていた。この究極は不老不死であり,仙人伝説につながる。明治になって健康という言葉を盛んに使って広めたのは福沢諭吉である。身体の生理的機能が正しく機能しているという意味で最初は使っていたが,やがて身体を鍛えて強い身体を作るという意味で健康という言葉を使うようになる。ここには西欧人に負けない身体を作って対抗できるようにするという富国強兵の考えがある。教練において,身体を鍛えることと規律を重んじることは,まさに富国強兵という目的に合致したものであり,イギリス流のスポーツとの相性が良かった。こうしてわが国にスポーツが導入され,学校教育の中で使われるようになったのである。スポーツは健康のため,はここから始まったと思われる。身体に良いといっても,病気に強い身体ではなく,戦いに強い身体のためであった。

6. スポーツから何が得られるのか

このようにスポーツの歴史を振り返ってみると,身体を鍛え,体力の限りを使って争いに勝つことが楽しい時代は,部族あるいは民族が生き残るためという,それ自体が社会的な要請でもあった。また,ジェントルマンあるいは富国強兵の帝国の時代においては,国家のために働くことの訓練として社会的に機能してきた。こういった時代の変遷のなかで形作られてきたスポーツが現在の日本における健康感と相性が良いのか再考してみても良いのではないだろうか。

やりたくもないスポーツを,健康のためだからと無理してやるのは賢いことではない。体重を落としたければ,食べる量を減らせば良いのである。そのために怪我をしていては意味がない。なにも健康を大義名分として,それに振り回されることはないのである。

スポーツは怪我の元であると揶揄めいた書き方をしたが,怪我は無理をしたためともいえるが,チャレンジをした結果起きたことともいえる。無理や無茶をしてもやり抜くことがチャレンジなのである。わかっている範囲で行動するだけではチャレンジではない。

さまざまなことを想定して作られたルールによって管理されている社会であればリスクは少なく,そこではチャレンジすることにあまり意味がない。むしろルールに従うことが社会的に良いことになる。しかしながら,管理された社会であったとしても,災害が起きれば,すべてを想定の範囲内とすることはできないことにわれわれは気付かされている。想定外のことが起きたときであっても,そこでやり抜く力,折れない心をわれわれは持っていなければならない。うまくいくかわからないことに挑戦する気持ちは大事なことである。そういった気持ちを育むことができるのであれば,スポーツをそのように位置づけて取り組むのも良いかもしれない。

執筆者略歴

赤松 幹之(あかまつ もとゆき)

通商産業省工業技術院製品科学研究所に入所。2001年の改組に伴い,(独)産業技術総合研究所となる。この間,人間工学一般,生体計測,ヒューマンインターフェースの研究,行動計測技術の研究,人間行動の解析とモデル化の研究等に従事。2008年よりサービス工学研究センターに兼務。学術誌『Synthesiology』編集幹事。主な著書に『人間計測ハンドブック』(編著,朝倉書店),『サービス産業進化論』(共著,生産性出版)がある。

参考資料

  1. a)   Oxford English Dictionary. 2nd Edition, 2009, Oxford University Press.
  2. b)   ジャン=ジュール・ジュスラン. スポーツと遊戯の歴史. 守能信次訳. 駿河台出版社, 2006.
  3. c)   エティエンヌ・ソレル. 乗馬の歴史 起源と馬術論の変遷. 吉川晶造, 鎌田博夫訳. 恒星社厚生閣, 2005.
  4. d)   稲垣正浩, 今福龍太, 西谷修. 近代スポーツのミッションは終わったか 身体・メディア・世界. 平凡社, 2009.
  5. e)   新村拓. 健康の社会史 養生,衛生から健康増進へ. 法政大学出版局, 2006.

 
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