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視点
読むという行為
倉田 敬子
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2012 年 55 巻 9 号 p. 681-683

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過去2回の記事で,電子書籍と電子ジャーナルを取り上げ,印刷体からデジタルメディアへと変化する様相とその意味について論じた。今回は,それら情報メディアを読むという行為とは何なのかをあらためて考えてみたい。特に,デジタルメディアを読むことについて考えてみたい。

1. 読むということ

読みや読書とは非常に複雑で,総合的なプロセスであり,その行為,活動は多様な側面からアプローチできる。読みや読書を対象とする研究が,哲学,文学,歴史,教育学,心理学さらには脳科学まで,非常に幅広いのはその証拠である。また,現代では多くの人が読書を身近な経験としており,個人による読書論や読書術に関する言及も多い。さらに近年では,インターネットの普及や,電子書籍の登場によって,あらためて読むとは何なのか,その実態や意義についての議論がなされるようになってきている。

読書というと,「小説」を読むというイメージが強いが,ここでは小説に限らず,専門書や専門論文はもちろんのこと,新聞,雑誌,マンガ,Webサイト,ブログ,ツイッターなども含めた活字を中心とした「読み」を考えていく。

最初に読みの基本的なプロセスと特徴について確認しておきたい。読むとは,一定量の文字を視覚的に見て内容を理解することである。読みの最初の段階は,文字をとらえることであるが,これは眼球を非常に素早く動かすことと停留することの繰り返しでなされる。そこで得られた視覚刺激が脳の視覚野を通って言語野に入って,そこで過去の単語,音韻,文法に関する知識に照合されて理解される。

眼球運動による視線軌跡を分析すると,私たちは文字を1文字ずつとらえているのではなく,何文字か先を見ながら,読み進めていることがわかる。よく知っている単語だとこの先読みは素早くなされ,普段見ない難しい単語だと眼球運動が止まりがちになると言われている。つまり,私たちはこれまでの知識や経験を常に使いながら読んでいるのである。

文字テキストは,直線的に読み進められることで,理解を形成していく。文字,語,文,段落,ページと積み重ね,時に行きつ戻りつしながら,少しずつ理解が進んでいく。それゆえ,本は最初から最後まで読まれることで本当に理解されたといえる。

それに対して,絵や映像は全体を一瞬で見て理解される。視野よりも大きなものに対しては,当然視線を動かして全体像を把握するようにするが,文字を読み進めているような,部分を積み重ねて理解を少しずつ進めるのではなく,全体像を俯瞰することで理解する。

呉はこのことを文字の線条性と絵の現示性という比較で説明している。彼は,マンガという表現形式が,この文字の線条性と絵の現示性の両方を兼ね備えたものであり,絵本は両者を並列させているだけなのに対して,マンガは両者を融合した表現形式となっていると述べている。マンガは,そのコマ一つ一つが現示性による理解を形成しているが,そのコマを線条的に並べることで,時間軸に沿った物語理解が可能になっている。さらにマンガの絵は,抽象的な絵画の絵とは異なり,意味を伝達するための記号としての絵であるとされる1)

言語は人間が生得的にもつ能力であるが,読み書き能力,リテラシーは社会の中で身につけていくスキルである。現代においてこそ社会全体に普及したスキルとなったが,歴史的に見た場合はむしろそれを修得することは困難が多く,ごく少数の人に限られていた。「読む」とは記号としての文字(時には絵)を,自らの自由なスピードと順序で,ただし最後まで通すことで理解する行為である。ビデオや映画は,自らでは見るスピードや順序をコントロールできない(技術的には可能だがメディアとしては想定されていない)という意味で,「読み」ではない。

2. 読みの歴史的構築

現在,私たちが「読書」といった時の核にあるイメージは,小説もしくは専門的な本を黙読によって集中してじっくり読むというものであろう。しかし,文字をそのように読むことは,古代においてはほとんど見られず,歴史的に徐々に形成されていったものである。

古代において書かれた文字は声に出して読まれることが前提であった。単語の間にスペースはなく,語順の厳密な決まりもなく,句読点や余白といった視覚を助ける工夫もなかった。読み上げられる際の韻律やアクセントを楽しんでいたとされる。

中世になって,読み手の要求に応えるように,語順が定まり,単語間にスペースが置かれることで,読むことは格段に楽となり,個人が自分のペースで読んでいくというスタイルが徐々に定着していく。中世の聖職者たちは,文字テキストを黙読で,内容をじっくりと吟味して読む,いわゆる精読という形式を確立していった。

近代において,印刷技術や教育の普及で,読書の対象となる本も読み手も格段に増大し,近代社会の形成に大きな影響を与えた。近代思想は時間をかけた精読以外で解釈することは難しく,黙読による集中した読みは哲学,歴史,文学という学問の基盤ともなっていった。

人間の脳は,元々周囲の環境の変化に敏感で,常に視線を動かし,注意の対象を次々と変える性質をもっているとされる。周囲の環境の変化に常に注意を向けるのは,原始的にはそのことが危険を察知し,獲物を得るなどの生き残るチャンスとなるからだとされている2)。つまり,注意力散漫の状態にしておくのが自然の状態といえる。

それに対して,“本を読むということは,単一の静止した対象に向かい,切れ目なく注意を持続させねばならない”。長い本を黙って読むには,自分を失うほど本のページに没入する必要がある。そのためには,読者は自分の脳を訓練して,注意散漫になろうとする脳に,集中に必要な神経リンクを作り出し,強化しつづけなければならないとカーは主張している2)

ユーリンもまた読書の最大の喜びとは,“読者が本と一体化する”ところにあるとする。本を読み,どんな場面であれ,“心を動かされ,筋の展開や登場人物に共感できたときに”,人生さらに自己の認識にいたる。読者は活字テキストに入り込むことにより,登場人物や場面を通して,自分と著者,さらには万人との共通性を体感することができる。さらに,何度同じ本を読み返しても,そのたびに“何かしら新しいことに光を当ててくれる。新しい発見がある”3)と論じている。

3. 新しい「読み」

多くの人が述べているように,上記のような読書活動が現在のインターネットやデジタル環境の進展の中で脅かされている。これまでも新聞,ラジオ,テレビなどが登場するたびに,本の終焉が予想されたが,それでも本は生き残った。インターネットの登場で,これまで読書家であることを誇ってきた人たち,文芸評論家,研究者,ジャーナリストといった読書の専門家たちが,「長時間,本に集中できなくなっている」と嘆きだしているのである。

これは一方では,本以外の多様なツールを通して最新の大量の情報を取得でき,それを処理するのに時間が費やされてしまっているからである。電子メールを常時チェックし,毎日ときには日に何度も,ニュースサイトや自分の気に入っているブログやSNSを読んでいくという状況は,まさに脳が注意散漫な状況にあるということである。この中で,長大な本に意識を集中し,没入して読むことが困難になってきている。

カーは,脳は可塑的なものであり,このような状況が続けば,印刷本の読書によって訓練されてきた脳が,また注意散漫な状態へ,断片的な情報を常時消費しないではいられない状態へと変化してしまうことを危惧している2)

「電子書籍は多数購入したが,読み通していない」という言及もほぼ同様の状況を指している。印刷本の時には読めた長い本が,パソコンや電子書籍端末では読みきれなくなっている。それはテクノロジーの未熟さでもあり,またパソコンの場合は他の活動や情報源と簡単に接続されており,読書が中断されやすい環境にあるということも影響しているだろう。

本の読み手,読む環境が変化すれば,対象としての本の形態も書き手も変化せざるをえない。日本のケータイ小説は,「普通の小説は読み通せない,読んだことのない」若者たちによって,一時熱狂的に受け入れられた。短く,毎日配信され,自分と等身大の登場人物や設定で,想像力を働かせなくても感情移入がしやすい会話を中心とする表現は,従来の文学作品との違いが議論になったが,その後書籍化されベストセラーとなり,ドラマ化,映画化されたものもある。

ユーリンは,パワーポイントで書かれた章が1つ入っているジェニファー・イーガンの『ならず者たちの訪問』という小説について,単なるおもしろいアイデアというレベルを超えた作品と評価しており,“マルチメディア要素が直接埋め込まれているような「本」で”読んで見たいと述べている3)

前回紹介した電子ジャーナルとしての新しい機能を全面的に展開している「未来の論文」も,デジタル環境に適応した新しい情報メディアである。それの読み方はもはや伝統的な学術論文の読みとはまったく違ったものとなっていくことは確かである。

印刷本によって修得され,読み手と書き手双方がその相互作用の中で形成してきた「没入する読書」が,インターネットに代表されるデジタル環境の中でも,形を変えて生き残るのか,それとも私たちの脳自体が変化してしまい,もはやそのような読みを受け付けなくなるのかはまだわからない。今後,読みの変化がより加速していくことだけは確かであろう。

執筆者略歴

倉田 敬子(くらた けいこ)

1987年慶應義塾大学文学研究科図書館・情報学専攻博士課程単位取得退学。

1988年慶應義塾大学文学部図書館・情報学科助手,1993年慶應義塾大学文学部助教授。1994年から英国ランカスター大学訪問研究員。2001年より慶應義塾大学文学部人文社会学科図書館・情報学専攻教授。

参考文献
  • 1)    呉 智英. 現代マンガの全体像:待望していたもの,超えたもの. 情報センター出版局, 1986, 286p.
  • 2)    Carr,  N. G. ネット・バカ:インターネットがわたしたちの脳にしていること. 篠儀直子訳. 青土社, 2010, 359p.
  • 3)    Ulin,  D. L. それでも,読書をやめない理由. 井上里訳. 柏書房, 2012, 206p.
 
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