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過去からのメディア論
科学の不正行為と盗作の文学史
大谷 卓史
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2012 年 55 巻 9 号 p. 688-690

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iPS細胞から心筋をつくり心臓病患者に移植したというニュース1)は,あまりにもタイミングが良すぎた。この知らせは,山中伸弥京都大学iPS細胞研究所所長・教授のノーベル賞受賞の直後で,この手術の成功を発表した研究者も日本人ということで,大いに話題になった。

しかしながら,これは誤報であることがすぐに明らかとなった。共同研究者や共著者はこの手術の内容を関知せず,倫理審査を行ったとするハーバード大学や手術を行ったとされる病院はそのような事実はないと発表した。研究者はハーバード大学の客員講師であると名乗っていたものの,同大学によれば,同研究者は1999年から2000年まで同大学の客員研究員であったものの,その後は関係がなかった2),3)

iPS細胞を利用する心筋移植手術を行ったとする虚偽の説明とその誤報について,本稿では,以下iPS細胞移植事件と呼ぶ。

iPS細胞による心筋移植手術の成功を一面で報じた読売新聞は,誤報を認め,誤報の内容を検証する記事を掲載した。この検証記事では,彼が現在所属すると主張し,倫理審査を行ったとされるハーバード大学などに裏付けのためにさらに取材していれば,説明が虚偽であることがわかったはずだとした3)

今回の事例は,明らかに科学者による不正行為であるが,マスメディアの報道において,不正行為を行った科学者個人の振る舞いやさまざまな属性にばかり注目が集まる傾向に不安を覚える。この研究者が東京近郊の家賃6万円のアパート暮らしであったという事実を見出しとする記事4)などはその典型である。確かに不正行為が事実かどうか正すことは重要だが,多くの記者やカメラが彼(ばかりでなく彼の家族も)を追いかけ回すことには,言いようのない不快感を覚えた。

この不安と不快感は,科学の不正行為だけでなく,文芸分野における盗作・剽窃を報じるマスメディアの姿勢やその報道内容とも共通するように思われる。

明治以降の文芸分野における盗作・剽窃について詳細に調査しまとめた栗原裕一郎の著述を見ていくと,文芸分野における盗作・剽窃事件と科学者による不正行為事件とは相違点も多いものの,マスメディアの反応や扱いという点では共通点が複数見られるように思われる。

栗原は,盗作事件はマスメディアの報道によって作られる面があることを指摘している。「盗作」「盗用」「剽窃」「無断引用」などの言葉で語られる出来事は,著作権法上の著作権侵害と必ずしも重ならない。また,類似した事件であってもマスメディアでの報道が小さかったり,もしくはまったく報道されないことによって事件化されないこともある。ある種,恣意的にマスメディアによって取り上げられることによって,盗作事件は盗作事件になるのだと,数多くの盗作事件の調査から,栗原は指摘している5)

栗原によれば,盗作事件がマスメディアに大きく取り上げられるようになったのは,マスメディアが作家を大衆の興味の対象に祭り上げる1955年以降のことである。これは,同年の石原慎太郎の登場がきっかけだとされる。明治期にも偽版(海賊版)やゴーストライターの代作に伴う著作権問題は起きていたものの,文壇のゴシップにすぎなかったとされる。作家が名士となり,高額所得者となるとともに,盗作事件はニュースバリューを持つ出来事となった6)

マスメディアが大きな騒動をつくりだした盗作事件の例としては,美人作家としてデビューした直後に盗作騒動で作家生命をほぼ絶たれた西村みゆきの「針のない時計」事件がある。

この事件では,1959年に中央公論社第2回女流新人賞受賞直後,フォークナーの「サンクチュアリ」の盗作だとして,同作品の受賞が取り消された7)

この事件は,大量の週刊誌報道が続き,「現在からはちょっと想像できない規模の騒動に発展し」た8)。これほどの騒動になったのには,西村の属性が預かっていると思われる。彼女は若くて美人であり,受賞前にも演劇界の鬼才として有名な武智鉄二を略奪するように結婚し数か月で破局する事件を起こしていた9)

嵐のようなバッシングによって彼女は葬り去られ,栗原の調査によれば,その後数点の作品を発表したものの,現在では彼女の消息は知れない10)

もちろん今回のiPS細胞移植事件と「針のない時計」事件の状況や不正行為を行った者の属性は異なるのだが,複数の共通点がある。

第1に,事件そのものやその構造的原因に目を向けるよりも,不正を行った者の属性に注目が集まった点。かたや有名人と離婚した美人作家として注目され,かたや怪しい経歴の不審人物としてその住居に関するプライバシー情報が新聞に掲載される。

第2に,嵐のようなバッシングや取材攻勢にさらされたこと。すでに述べたように,「針のない時計」事件では多くの週刊誌が数ページの特集を組み,継続的に報道を行うことで,西村の作家生命は絶たれた。iPS細胞移植事件でも,研究者はテレビカメラや多数の記者に追い掛け回され,フラッシュの放列にさらされ,研究者をやめるという宣言をすることとなった。

第3に,報道の大きさが事件とバランスしていないように見える点も,共通点として指摘できるだろう。事件の深刻さや影響の大きさと報道が比例しないのは常であるように思えるものの,現代の目から見れば「針のない時計」事件の騒動は大きすぎるように見えるし,iPS細胞移植事件についてもすぐに虚偽が発覚するような内容であって,深刻さという点では,これまでに報じられてきた科学の不正行為と比べてそれほど重要というわけではないように思われる。関連研究のノーベル賞受賞のタイミングに合わせて一面で報道されてしまったため,過剰に大きな注目を集めたように思われる。

最後に,マスメディアの誤解も共通点かもしれない。科学の不正行為を報じるマスメディアも,盗作・剽窃を指摘するマスメディアも,科学者の世界や文芸の創作・著作権問題について誤解している面がある。

文芸分野の盗作・剽窃問題においては,「盗作」「盗用」「剽窃」「無断引用」という言葉は自由自在に使われ,その内容は明らかではないように思われる。そもそも著作権法上引用は無断でできる(つまり,許諾を得なくてもよい)とされている(著作権法第32条)から,「無断引用」が問題とされるのはおかしい。また,「盗作」「盗用」「剽窃」という言葉で騒がれたとしても,字句の類似にとどまり,著作権侵害(翻案権侵害も含む)といえないケースもある。こうした問題は,前出の栗原の著作に事例とともに指摘されている。

今回のiPS細胞移植事件では,この研究者について「職を転々」とし,めまぐるしく肩書が変わったことを取り上げる新聞もあったが11),安定した雇用を得にくい現在の研究者の多くが置かれた状況から考えればそれほど不思議なことではない。就職に当たって,それまでの研究分野と必ずしも連続しない職場に就いたり,教育・研究内容も従来の主たる研究分野とは違う分野にシフトせざるを得ない場合もある。したがってiPS細胞移植事件の主役となった研究者の一見不思議に見えるキャリアは,現在の研究者の多くが直面する,かつては可能であった一貫したキャリア形成の困難を示すものであっても,それが不正行為や研究者の実力を示す端的な指標と見ることはできない。

研究者が不正行為に手を染めた場合,その研究者の資質のみに原因を求めるのは不健全である。不正行為があったとしたら,キャリア形成の困難や業績づくりの圧力など,科学の世界の構造的問題の存在を示す可能性が高い。

剽窃・盗作や不正行為というセンセーショナルな出来事は,文学者の世界や法律,科学者の世界の一端を垣間見させるとはいえ,その出来事を伝えるマスメディアはまったく歪みがないとはいえない。誤解が再生産されることで,問題の適切な解決が妨げられることがないよう願いたい。

参考文献
  • 1)  iPS心筋を移植,初の臨床応用. 読売新聞. 2012-10-11, 朝刊, 1面.
  • 2)  “Harvard Spokesman reiterates: Moriguchi did not have Harvard IRB approval”. Knoepfler Lab Stem Cell Blog. 2012-10-11. https://www.ipscell.com/2012/10/harvard-spokesman-reiterates-moriguchi-did-not-have-harvard-irb-approval/, (accessed 2012-10-15).
  • 3)  検証「iPS移植報道」森口氏,治療の事実なし. 読売新聞. 2012-10-13, 朝刊, 8面.
  • 4)  “iPS臨床問題:家賃6万円のアパート暮らし 森口氏”. 毎日jp (毎日新聞). 2012-10-13. http://mainichi.jp/select/news/20121014k0000m040077000c.html, (accessed 2012-10-17).
  • 5)    栗原 裕一郎. ⟨盗作⟩の文学史 市場・メディア・著作権. 新曜社, 2008.
  • 6)    栗原 裕一郎. ⟨盗作⟩の文学史 市場・メディア・著作権. 新曜社, 2008, p. 59.
  • 7)    栗原 裕一郎. ⟨盗作⟩の文学史 市場・メディア・著作権. 新曜社, 2008, p. 138.
  • 8)    栗原 裕一郎. ⟨盗作⟩の文学史 市場・メディア・著作権. 新曜社, 2008, p. 132-138.
  • 9)    栗原 裕一郎. ⟨盗作⟩の文学史 市場・メディア・著作権. 新曜社, 2008, p. 142.
  • 10)    栗原 裕一郎. ⟨盗作⟩の文学史 市場・メディア・著作権. 新曜社, 2008, p. 145-147.
  • 11)  “「iPS臨床」の森口氏,資格は看護師 職を転々”. 朝日新聞デジタル. 2012-10-13. http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201210120674.html, (accessed 2012-10-17).
 
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