情報管理
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善き先達と善き道しるべを探すためのヒント
和知 剛
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2015 年 57 巻 10 号 p. 781-784

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「情報リテラシー」を教えることは,情報を分析・判断する際には多様な考え方がありうる,ということを押さえるのが本来の趣旨であって,ある1つの方法論を教えれば誰もがもれなく習得できる,という種類の技術ではないと思う。ましてや,ある企業が開発販売しているコンピューターソフトの使い方を習得するのが「情報リテラシー」であるわけがない。いまだそのようなとらえ方をしている方々が存在するのが不思議である。

たとえば,ローベルト・シューマンの交響曲第2番について。筆者は以前ラファエル・クーベリックの録音(ドイツ・グラモフォンとソニー・クラシカルとにあるが,ここではベルリン・フィルと録音したドイツ・グラモフォンのもの)を聴いたときにはわからなかったのに,それから数年してポール・パレーがデトロイト交響楽団を振った録音(マーキュリー)を聴いたとき「なるほどこの作品はこのような音楽だったのか」と初めて理解できた。そして翻ってクーベリックの録音を聴き直して,なぜクーベリックでは理解できなかったのか納得した。この一連の流れは「情報リテラシー」を考えることに通じるのではないか,と思う。

このシューマンの話がクラシック音楽オタクである筆者に引きつけ過ぎであるならば,『家栽の人』第5巻にある盆栽職人のエピソードはどうだろうか。その中で桑田判事が「名木と普通の盆栽なんて小さな差なんだよ……ただ,あのおじいさんはその違いをわかるために何十年も目を光らせてきた……あのシャラが何かを言うんじゃない,あのおじいさんが感じることができるんです」1)と,盆栽職人の孫である不良少年を諭す。この盆栽職人と盆栽の関係は「情報リテラシー」を考える範疇(はんちゅう)に入るのではないか。

情報が放っておいても浴びるほど入ってくる社会である。入ってきた情報から何を読み取り,何を分析し判断するのか,情報を伝達する技術がいかように発達しようとも,最終的に「情報」の内容を判断し,有効に活用するのは人間側の準備いかんにかかっている。

こんなことを考えるようになったのは学生時代,ある講義で“Intelligence”(「分析・評価された情報」のことだが,30年前には“Intelligence”をそのような意味づけでは呼んではいなかったと記憶する)の重要性について教わったころからだと思う。その際のテキストは『八甲田山死の彷徨』だった。いかに情報(Information)を収集することに情熱を傾け,基盤を整備したところで,集められボトムアップされたInformationをトップや参謀役が分析・評価しIntelligenceに昇華できなければ,それはただ集めただけで終わってしまうし,現在自らが立っている場所がどのようなところであるかさえわからない。ましてや不十分なInformationで,その先の進路など定められるはずもないのだ,と。

『八甲田山死の彷徨』 新田次郎 新潮文庫,1978年,594円(税別) http://www.shinchosha.co.jp/book/112214/

ほぼ同じころに筆者が読んだ本が『洞爺(とうや)丸はなぜ沈んだか』である。こちらも不十分なInformationに基づいて,何とかIntelligenceを導き出し行動を定めざるをえなかった2人の青函(せいかん)連絡船船長の物語である。台風の中,函館港を出港しようとした洞爺丸は最終的に転覆沈没し1,300人余りの人命が失われる。青森港でテケミ(「天候警戒運航見合わせ」の頭文字をとったもの)して台風をやりすごした羊蹄(ようてい)丸は台風の通過後,無事に函館港に入港する。この結果を招いた「分析・評価」は「結果だけで第三者から勝手にたたえられたり,裁いたりされたりするもの」(『洞爺丸はなぜ沈んだか』p. 247)ではないとはいえ,運不運にのみ帰せられるものだったのだろうか。

『洞爺丸はなぜ沈んだか』 上前純一郎 文春文庫,1983年,388円(税別) http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167248048

「指揮官が悪ければ部隊は全滅する」(南海ホークスの監督を務めた鶴岡一人の言)。ことほど左様にInformationを分析・評価しIntelligenceとして自らの判断に役立たせ,組織の進路を定めるトップの責務は大きいものがあるのだが,翻ってわれわれも今日の困難な社会状況に直面して行き悩んだり考え込んだりする場面があるわけで,Intelligenceへの昇華をトップだけに任せておくわけにはいかないし,また己の判断で舵(かじ)取りをしなければならない状況に陥ることも少なくないはず。でも,そんなときでも「このやり方ならすべてすっきり解決!」できる方法論があるはずもない。では,「情報リテラシー」を学ぶ/教えるときに押さえておくべきことは何だろう。本稿では「情報リテラシー」を考える際に押さえておいた方がよいと筆者が考える,その補助線となるだろう本を2冊,紹介する。

Informationを扱う際,注意していてもついつい陥ってしまうのが,われわれが遭遇した事例を,日ごろの経験で培ってきた「ステレオタイプ」に当てはめて考えてしまうことである。ウォルター・リップマンは『世論』の中で「ステレオタイプ」に依存したInformationの分析と判断の危険性を,たとえば次のように指摘する。

「自分たちの意見は,自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験に過ぎない,と認める習慣が身につかなければ,われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない。その習慣がなければ,自分自身の描くヴィジョンが絶対的なものであると信じ,ついにはあらゆる反論は裏切りの性格を帯びていると思いこんでしまう。人びとはいわゆる『問題』については裏表があるということは進んで認めるが,自分たちが『事実』とみなしているものについては両面があることを信じていないからである。(中略)たとえ一点でも,重要なところでステレオタイプのパターンが自分たちの経験に合致していれば,彼らはもはやそれを一つの解釈とは見なさないのである。彼らはそれを『真実』と見なす。」(『世論』上巻p. 172)

『世論』 W. リップマン著;掛川トミ子訳 岩波文庫,1987年,上巻,720円(税別) http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-342221-X
『世論』 W. リップマン著;掛川トミ子訳 岩波文庫,1987年,下巻,840円(税別) http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-342222-8

判断の基準が自らの「ステレオタイプ」に陥る危険を回避するためにも,できるだけ先入観を排して物事を,Informationを分析し,判断する努力が,情報を取り扱う人間には必要なのではないか。たった1つのやり方だけが正しいのではなく,多様な方法を受け入れ試すことができる心構えを日ごろから養っておかなければならないだろう。

しかし,なぜ多様な方法を受け入れることがInformationの分析・判断にとって重要なのか。

「道徳と政治の問題,さらには価値にかかわるすべての問題には最終的な答を出すことはできない。(中略)したがっていくつかの価値が両立しなくなるような余地を生活の中に設けておかねばならない。その結果,破壊的対立は避けたいというのであれば,妥協をとりつけねばならない。そしてたとえ不承不承であっても,最小限の寛容が不可欠になるであろう。」(『ある思想史家の回想』p. 71-72)

碩学(せきがく)アイザィア・バーリンは『ある思想史家の回想』でこのように述べる。誰もが自らの信じる価値観に基づく「正義」を振りかざして突き進めば,早晩価値と価値,正義と正義の衝突は免れない。それはトマス・ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」であり,とどのつまりはミルトン・フリードマン流の規制緩和と道学者的権威への隷属を旨とする新自由主義的社会の到来をもたらすものでしかないことを,われわれは恐れるべきであろう。

「選択は苦しみですが,われわれの考え得る世界では避けられません。両立不可能な価値は,そのまま両立不可能なまま存続するでしょう。われわれにできることは,選択があまりにも苦しいものにならないようにする位のことです」(『ある思想史家の回想』p. 209-210)

『ある思想史家の回想 アイザィア・バーリンとの対話』 アイザィア・バーリン,ラミン・ジャハンベグロー著;河合秀和訳 みすず書房,1993年,3,000円(税別) http://www.msz.co.jp/book/detail/03066.html

InformationをIntelligenceに昇華するための「情報リテラシー」は,われわれがより善き社会を目指すためのコモンズを構築(再構築)するためにも,身につけなければならない必須の教養ではないだろうか。それを身につけるためには善き先達と善き道しるべが必要になるだろう。本稿は,先達と道しるべを探し当てるための方法論について考える,ラフなスケッチの試みである。

最後に,冒頭で触れたシューマンの交響曲第2番について。この作品は4曲あるシューマンの交響曲の中でもっとも大きな規模の作品(演奏時間約36分)だが,もともとシューマンがピアノ曲を得意としていたこともあって,リズムや旋律の組み立て方がピアノ的な手法に依存しているところが少なくない。そのため,オーケストラ曲としてそれらしく,しかも初期ロマン派らしく角を丸くして,色彩豊かに演奏するとよくわからないものになってしまいがちである。ポール・パレーは華やかではあるが楽器ごとに異なる音色を同じように合わせ,きつめのアクセントで鋭角的に造形することによって,この作品の内容を筆者にもわかるように表現することに成功したのだった。

執筆者略歴

和知 剛(わち つよし)

郡山女子大学図書館司書係長,郡山女子大学短期大学部非常勤講師(図書館情報学)。1988年図書館情報大学卒業後,郡山女子大学図書館に奉職し現在に至る。いまは新しく設置されたラーニング・コモンズの運営に知恵を絞る日々。

参考文献
  • 1)  家裁の人5. 毛利甚八作. 魚戸おさむ画. 小学館, 2003, 328p.
 
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