2015 年 57 巻 11 号 p. 849-852
1979年,米国の社会学者エズラ・F・ヴォーゲルは『ジャパンアズナンバーワン』1)を出版した。この著書は戦後日本の高度成長を肯定的に紹介したものであり,たとえば,日本人の美点はその読書習慣にあり,それは読書時間,新聞の発行部数をみればわかる,などと記されていた。さらに大蔵官僚,通産官僚による卓越した行政能力も高く評価していた。
1980年代に入ると日本経済は第2次石油危機から次第に復活し80年代後半にはバブル経済に入る。この経済的な繁栄の中で,この本は日本でベストセラーになった。同様の書物としては,1978年にフランスの大統領府もいわゆる『ノラ・マンク報告』2)を発表しており,これも日本の官僚制度の成功を伝えていた。
すでに1965年,日米間の貿易収支が逆転し,1972年には繊維について,1977年には鉄鋼とカラー・テレビについて,日米間で貿易摩擦の解消に向けた折衝がなされていた。1980年代に入ると,これが自動車,半導体へと広がる。ジャパン・アズ・ナンバー・ワンの時代が到来する。
戦後,日本を占領した米軍は,その占領政策を実施するために,日本の工業力を復活させる必要に迫られた。緊急度の高いものには,まず電話網の復旧があったが,その梃(てこ)入れは次第に占領軍の調達する工業製品に及んだ。これを実現するために,占領軍は生産管理手法を日本に定着させる必要があり,そのためのプログラムを設けた3)。そのプログラムは多種にわたったが,その中核となったものは,中級管理者向けの「QCベーシック・コース」と「MTP」(マネジメント・トレーニング・プログラム)であった。前者は統計的品質管理,後者は組織管理の手法を中心としたものであった。私は双方のセミナーに参加できた最後の世代であるが,いずれもそれなりに実務的かつ学術的であり,とくに後者はミル・スペック(米軍規格)のにおいの強いものであった。そこでは,たとえば「統制の限界」という概念が示されたが,それは当時の認知心理学から導入したものであった。
1980年代,日本企業はTQC(Total QC)という生産方式を編み出し,世界市場でその優越性を示していた。それはPDCA(Plan→Do→Check→Act)のサイクルを組織一体となって回していく,それによって不良品の発生を抑え,生産コストを減少させるという方式であった。ここでは作業の効率化がよしとされ,同時にそれは現場のやる気を高める労務管理的な狙いも併せもっていた4)。
つまり,TQCは当の企業の「ノウハウ」であり,それは「カイゼン」という言葉とともにジャパン・アズ・ナンバー・ワンを支える手法となった。
このような環境の中で,ISO 9000という規格が欧州から伝えられてきた。私はそれを目にしたとき,ある種の既視感をもった。そこにはミル・スペックが透けてみえたからであった。
私はミル・スペックに接したことがあった。それはMIL-Q-5923であり,そのタイトルには「品質管理システム要求」と記されていた5)。その要求は途方もないものであった。その後,MIL-Q-5923はMIL-Q-9858,さらにANSI Z1-15と変身し民間に移転する。ANSIは米国国家規格協会を指す。
MIL-Qの要点は「システム」という言葉にあった6)。それは「製品の品質」を保証するのではなく,「生産システム」の品質を保証せよ,というものであった。それは発注者としての軍が納入者に押しつけた契約書であり,軍が納得するような品質保証プログラムを納入者は構築し,加えて,それが実施されていることを記録にとどめておけ,というものであった。
発注者のどんな疑念にも受注者は対応しなければならない。これがミル・スペックの原則であった。たとえば,牛乳の空き瓶を花瓶として生産現場に置くことは許されなかった。牛乳瓶は,本来,牛乳を入れるものである,それに花を入れるのは目的外使用,乱れた現場で良品ができるはずはない。この形の活動をミル・スペックは「ハウスキーピング」と称した。このように,ミル・スペックには2者間契約の厳しさがあった。
ミル・スペックは製品を保証するのではない,システムを保証するのだ,とはすでに第2次大戦中からあった言葉であり,この理念は戦後もNATO(北大西洋条約機構)の調達に使われたという。危険のど真ん中にいる兵士に与える武器が不良品であってはならない。その不良品を単なる製品検査で除くことはできない。この懸念が「システムの保証」という理念を生み出したという。
顧客を納得させるために必要なことは何か。それは記録を残しておくことである。誰が,誰に,いつ,どんなメッセージを送ったのか。そのメッセージは,あるいは設計図面であり,あるいは検査記録である。たとえば,現場に新図面が配布されたのはいつであり,旧図面が回収されたのはいつなのか,その記録を残しておくことが求められた。このような環境は,文書第一主義とでもいう風潮を生んだ。つけ加えれば,どの文書にも宛先,記入者名,日付,を記入することになっていた。今日の言葉では,それは理系流にいえば「実験ノート」,法系流にいえば「ペーパー・トレール」ということになる。
当時,ダグラスの法則というものがあった。図面や検査記録の重さがそのジェット機本体の重さになったときに,それは完成するという経験則であった。また,フリゲート艦は,その開発に必要とした文書を搭載すると,その喫水が1インチ深くなる,という話もあった。まだ紙の時代であった。
ISO 9000に戻る。それはまずANSI Z1-15が1979年に英国に移転されてBS 5750となり,さらにそれがISO(国際標準化機構)に伝播(でんぱ)して,1987年にISO 9000となった7)。英国への移転はサッチャー政権の政府調達のためであり,英国がそれをISOに売り込んだのは,欧州諸国の市場統合に主導権をもとうという狙いがあったためといわれる。
この動きを支えたのは政府調達の方式を統一しようとしていたNATOであった。同時に,原子炉事業者からの要求もあったという。当時,発電用原子炉が次第に普及し,その品質要求も見過ごせなくなったからであった。
加えて,1980年代中頃からGATT(関税及び貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンドが始まり,ここでのちにWTO(世界貿易機関)のTBT(貿易の技術的障害に関する)協定として条約化される論点が検討されていた8)。このような国際動向もISO 9000の制定を促すものとなった。なおTBTには「国際規格への準拠」などが定められている。1994年,TBTは合意に至る。
ISO 9000はミル・スペックと大きく異なる構成をもっている。それは第1に対象を政府調達の物品から民生品に拡大したこと,第2に,品質保証の形を2者間契約から第3者機関による認証へと変えたことであった。なお,MIL-Q-9858は1996年に廃止された。
日本は,ISO 9000の検討には遅れて参加した。加えて,その検討に積極的に寄与することもなかった。日本企業は,この品質マネジメント・システムに冷淡であった9)。
その理由は,第1に,すでに示したように,マネジメント・システムを規範としてではなく,ノウハウとして理解していたためであった。ノウハウであれば,JISにもならない,またJISにしようというインセンティブも生じない。
第2に,JISがないために,日本はISOに検討資料として示すための国家標準をもたないことになってしまった。日本の対応は遅れざるをえなかった。
第3に,一般消費者が政府機関のように購入品の要求仕様を決めることができるのか,という論点があった。認証機関の職員がその代行をしたとしても,それは無理なはずだ。加えてその認証にはコストがかかる。
第4に,それは紙の製造システムに堕するのではないのか,という懸念もあった。
第5に,日本的品質管理の本質は「改善」とされていた。改善は変化を求める。変化するものに対して標準化はなじまない。
第6に,専門家の意見によると,ISOのいう‘quality management’が日本の「品質管理」に相当し,ISOのいう‘quality control’に相当する日本語がない,という事情もあったらしい。いずれかといえば,後者の意味は「検査」「監査」「統制」に近い意味をもつと理解された。
とは言いながらも,日本はISO 9000を1987年に受け入れ,同時にTQCという用語をMQC(Management Quality Control)と変更した。1991年,日本はISO 9000をJISの中に受け入れた。このとき,ISO 9000を受け入れていない主要国は日本とサウジアラビアだけになっていた。
すでに,日本企業の中には海外の認証機関に認証を求めるものもあり,日本に英国の認証機関の下請けの組織が設立されるようにもなっていた。海外と取引をするプラント建設業者などにとってはISO 9000の認証を得ることが不可欠となった10)。
このあと日本にISO 9000にかかわる狂騒が始まる。ISO 9000の認証をとる企業も急増した。マネジメント・システムも環境(ISO 14000),労働安全(OHSAS 18001),情報セキュリティ(ISO/IEC 27000),個人情報保護(JIS Q 15001)と広がっている。
しかし,ジャパン・アズ・ナンバー・ワンの時代は去った。この言葉を記憶している世代も少なくなった。
文書主義について付け足す。ISO 9000はその認証方式とともに,ダグラスの法則を膨らませるだろう(文書を減少させる試みもあるやに聞いてはいるが)。
この視点でみると,1980年代にすでにCALSという技法が評判になっていた11)。それは,Computer Aided Logistics Support(1985年)→ Computer Aided Acquisition and Logistic Support(1987年)→ Continuous Acquisition and Life-cycle Support(1993年)→ Commerce At Light Speed(1994年)と発展した。米軍は1987年版までは主導権を握り,1993年版以降は民間に開放した。
当初,CALSはミル・スペックを支えるために電子化情報の共有を図るためのシステムであった。だが,それはPDCAサイクルの効率を高め,ISO 9000を支えるためのシステムとしても役立つはずである。21世紀になり開発されつつある巨大データ解析技術はCALSの可能性をさらに高めるはずである。ISO 9000の文書主義はより完全になるだろう。