ウォルター・リップマン(Walter Lippmann 18891974)の古典的名著『世論(Public Opinion)』は,「疑似環境」や「ステレオタイプ」の概念を提唱したことで著名である。
動物が環境に反応して行動するように,人間も環境に反応して行動する。私たちは,自らの行動を選択するためには,環境について知らなければならない。ところが,「真の環境があまりに大きく,あまりに複雑で,あまりに移ろいやすいために,直接知ることができない」1)。だから,私たちは,より単純なモデルによって環境を「疑似環境」に再構成し,その「疑似環境」に対して反応し,行動している2)。
疑似環境は,人間性と諸条件の混合物である。世界・現実と私たちを媒介するメディアも疑似環境を提供する手段であって,人びとの集団が頭の中に描く自分自身や他人,自分自身の要求,目的,関係のイメージである世論の形成に大きな力をもつ。さまざまな情報供給側の制約,受け手側の制約が環境を再構成して,疑似環境をつくる3)。
受け手側の制約である先入見や偏見がステレオタイプで,文化の中で私たちが受け入れてきた標準的な解釈のパターンである。情報に接したときはこのステレオタイプを働かせることで,短時間で判断ができるようになる4)。もちろんこれらのステレオタイプは現実や環境の解釈をゆがめるようにも働き,環境に対する判断や反応を誤らせることにもなるし,これらの解釈が差別などの倫理的問題も生む。
一般的に,同書は,これらの概念によって,マスメディアやジャーナリズムの社会的機能と限界を指摘したこととなっているが,現在の目から見直すと,SNS(Social Networking Service)などのネットメディアにおける意見や気分の形成を理解するうえでの手掛かりにもなるかもしれない。そもそも「疑似環境」も,人間の認知限界とその限界を補綴(ほてつ)するステレオタイプなどの働きも,リップマンによれば,マスメディアを媒介とする認知に限って働いているわけではない。私たちが,直接見聞するのではなく,メディアや人間の媒介によって環境を認知する際には,必ず機能しているものだからである。
リップマンによれば,伝達したいと思う情報を大衆のすべてに到達させるためには,きわめて大きな努力を必要とする。そもそも,リップマンによれば,『世論』初版発行当時(1922年),平均的なアメリカ人が,1日の間に公共的な話題に注意を向ける時間は約15分(新聞を2紙読む)程度にすぎなかったから,新聞だけを通じて人びとに働きかけるのではまったく足りない5)。
情報・意見の供給量や質は,旅行や雑誌・書籍の購入などによって補えるものの(だから,地域や個人の収入がコミュニケーションと情報・意見の供給量や質を決める),人びとは自分自身の社交仲間との接触によって,世界に関する情報や意見を得ることが多い6)。
リップマンは,見聞を広げるだけの十分な収入がある有閑(ゆうかん)階級であっても,社交仲間を超えて情報や見解を求めようとしない傾向について,次のように皮肉っている。「彼らは縄で杭(くい)につながれている犬のように、自分の属する社交仲間の規則と信条に従って、定められた半径内の知人たちの間で動いている」7)。
リップマンによれば,社交仲間の選択は経済的地位によってほぼ決まるものの,職業の種類なども影響する。ただし,社交仲間は利害を一にする堅固な階級というわけではない。個々人の利害は多様であって,人びとを団結させるのは容易ではないと,彼は述べている8)。とはいえ,社交仲間はいったん形成されると,生物学上の族に酷似するという。つまり,恋愛や結婚,子ども同士の付き合いは,この社交仲間の中で行われる。彼らは規範を共有している。大学の社交クラブに典型的であるが,社交仲間は等級づけがあり,どの社交仲間に加わるかで,将来の成功や地位が左右される。社交仲間に加わったからには,自分たちの集団の保全に役立つよう注意深く観察する能力や,ほかの社交仲間が何をしているかを知る特殊能力を磨く必要がある9)。
これらの社交仲間を社会的等級づけという点で垂直方向にも,水平方向にもつなぐ人びとがいると,リップマンは観察する。彼らは不審を抱かせるような人物であることが多く,集団を出入りしているという10)。このような人物は,近年のネットワーク科学が解明した「弱いつながり」を多数もち,多くのネットワークを接続する人びとと重なる11)。
国の政治や国際政治を動かす「大社会」の指導権を握っている大都市の社交仲間を地域の社交仲間が模倣し,彼らの規範や価値,意見を受け入れていると,リップマンは,社会学者ガブリエル・タルド(JeanGabriel de Tarde 1843-1904)の「模倣の法則」を踏まえて仮定している10),12)。
ポール・ラザースフェルド(Paul Felix Lazarsfeld 1901-1976)が観察した,集団で影響力を持つオピニオンリーダーが情報を取捨・解釈して,その他の集団の成員がその情報の解釈を受け入れるという「コミュニケーションの二段階の流れ」の仮説とは違って,集団のリーダー以外の成員がそれぞれムードや意見などで影響力を振るうというモデルである点が,リップマンの社交仲間のモデルでは注目される。
現代の(少なくとも日本の)SNSでは,リップマンが観察した社交仲間・社交集団とは違って,社会的・経済的地位よりも,友愛に基づいて,社会的・経済的地位を超えて多数の人々とつながることを良しとする傾向が大きいように思われる。また,「大社会」について意思決定する大都市の社交仲間をその他の地方の社交仲間が模倣しているようにはとても思えない。
しかし,誰とつながるかがその人の評判やほかの人びととのつながりに影響を与える点では,リップマンが観察した社交仲間に近いものがある。また,リップマンの観察した社交仲間は有閑階級にみられた現象であるものの,経済・生活や教育の水準が上昇した現代においては,より広い階層にみられて当然と考えてよいのではないだろうか。
また,さまざまなネット上の情報や見解を引っ張ってきて,「友達」や「フォロワー」に提示することで,「友達」や「フォロワー」の意見形成に影響を与えることもできるだろう。少なくとも,何を社会問題と考えるべきか気づかせるなどの効果があるように思われる。リップマンが観察したように,多くの人にとって,公的問題について接触し考える時間は以前ほど増えてはいないだろうから,ネット上でつながる「友達」や「フォロワー」の影響力は強いことだろう。
Facebookが,ユーザーのタイムラインに表示される投稿を操作したところ,彼ら/彼女らの感情や投票行動が変化したことが話題となった13)。オピニオンリーダーの意見だけではなく,SNSでつながっている「友達」の行動や気分が,私たちにわずかとはいえ影響を与えているらしい。
ネット上の見解を見ると,Facebookの利用規約にはこうした実験に利用する可能性を示唆する条項があるものの,対象となるユーザーに明示的に許諾を得なかったことが問題という声が多いようだ。
個々のユーザーへの影響は,統計的にみてごくごく小さい。しかし,Facebookのユーザー数は巨大だから,個々のユーザーへの影響は小さくても,社会全体の大きな変化の引き金になるかもしれない。現に,2010年には,Facebookは「友達」の投票行動をタイムラインに表示する実験を行い,米国議会の中間選挙の投票行動に影響を与えた可能性も示されている14)。
個々の人びとが気づかないような投稿の表示の操作によって,全体としての人びとのムードや投票率などを左右することに対しては,おそらく何らかの規制が必要と思われるものの,それはおそらく容易ではないだろう。