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この本!~おすすめします~
この本! おすすめします まっすぐ歩けなくなったときに思い出す
林 豊
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2016 年 58 巻 10 号 p. 797-799

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10年も働いていると新人のころのような向こう見ずな勢いはなくなるし,いろいろとものごとをシンプルに考えられなくなってくる。配慮ができるようになったということかもしれないが,単に信念を見失っているだけともいえる。目の前の道がゆらいでいるのに気づき,大学図書館員という職を選んだのはどうしてだったか,研究者を目指していたのはなぜだったか,そもそも大学に進学することにしたのは,と自問することが多くなった。そんなときふと頭に浮かんでくる本(というか人物)がある。そして,自分はたしかあんなまっすぐさに憧れていたんじゃなかったかと目を細めてしまう。

1冊目は,最近なぜかドラマ化やアニメ化が続いている人気作家の自伝的長編小説である。

もともとは『まどろみ消去』という短編集に収録されていたものである。大学に進学するつもりなどなかった私は,高2の終わりに「研究者はかっこいい」と憧れるようになって人並みに受験勉強を始めた。そのころに短編のほうを読んだように思う。

本書の主人公・橋場は工学系の研究者で,彼の目を通して学生時代の恩師である喜嶋先生(世間的には「変人」とカテゴライズされる)の生き様が語られていく。全体としては大学を舞台に2人の交流がたんたんと描かれていくだけで,大きな盛り上がりはない「静かな」物語といえる。

この小説の本質は,つまり喜嶋先生という人物の美しさは,次の台詞(せりふ)に集約されている。「僕が使った王道は,それとは違う意味だ。まったく反対だね。学問に王道なしの王道は,ロイヤルロードの意味だ。そうじゃない。えっと,覇道(はどう)と言うべきかな。僕は,王道という言葉が好きだから,悪い意味には絶対に使わない。いいか,覚えておくといい。学問には王道しかない」。喜嶋先生が他の研究者の仕事を「エキセントリック」(王道ではない)だと批判したあと,その真意を説明する場面である。

この言葉は橋場の胸に突き刺さる。「学問には王道しかない。それは,考えれば考えるほど,人間の美しい生き方を言い表していると思う。美しいというのは,そういう姿勢を示す言葉だ。考えるだけで涙が出るほど,身震いするほど,ただただ美しい。悲しいのでもなく,楽しいのでもなく,純粋に美しいのだと感じる。そんな道が王道なのだ。」

橋場はその後研究者として成功し,家庭を持ち,しかし歳を取り,いつしかいろいろなものに流されていることに気づく。ふと喜嶋先生のことを思い出し,「いつから,僕は研究者を辞めたのだろう?」「今の僕は,王道から外れている。エキセントリックだ。」とひとりごつ。その姿には胸が苦しくなる。

願わくは,研究者というひとたちにはいつまでもがむしゃらに,無邪気に研究をしていて欲しい。そのための環境を整えるのが私たち大学職員の役割だろう。そんなひとたちに囲まれて自分もまっすぐと仕事をしていきたいと気持ちを改める。

『喜嶋先生の静かな世界 The Silent World of Dr. Kishima』森博嗣著 講談社文庫,2013年,690円(税別) http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062776813

俗説の語るようにソーニャ・コワレフスカヤをめぐる恋愛事件が原因かはさておき,現在に至るまでノーベル賞に数学部門はなく,数学の世界で相当する栄誉としてフィールズ賞がある。

日本人でフィールズ賞を受賞した数学者はこれまでに3人いるが,1954年に初めてその栄誉に浴したのが小平邦彦である。1915年に官僚の息子として生まれた小平は,東京帝国大学で数学と物理学を修め,戦後は米国に渡り,プリンストン高等研究所(数学研究の世界的メッカ)等でキャリアを歩む。帰国後は東京大学と学習院大学で教鞭をとり,1997年に82歳で没した。

本書はそんな小平の代表的なエッセイ集である。数学者のエッセイというと小難しいものを想像するかもしれないが,「私の業績は数学の世界で遊んでいるうちに何となく自然にできたものばかりで」と偉ぶらない人柄や独特のユーモアが感じられる,読みやすい一冊である。数式はいっさい現れず,音楽の話題が豊富でむしろ五線譜が登場したりする。

私は大学院時代に小平の仕事(特に小平-スペンサー理論)を学んだ。情けないことにその内容はほとんど忘れてしまったが,そこで展開される論理の明晰(めいせき)さに触れたときの感動はたしかに残っている。目の前にまっすぐ伸びる道を一歩一歩着実に進んでゆくイメージが浮かび,王道の存在を感じた。

所収の三十数編のなかで,私が一番好きなのは「発見の心理」である。プリンストン大学に移ったころに楕円曲面の研究がうまくいったことを思い出し,その実感を漱石の『夢十夜』を引き合いに出しながら述べている。「第六夜」では運慶によって無造作に,だが見事に仁王が彫り抜かれる。「なに,あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんぢやない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋つてゐるのを鑿と槌(つち)の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違ふ筈はない」という一節は有名だろう。小平も「私の楕円曲面論は実は私が考え出したのではなく,数学という木の中に埋まっていた楕円曲面論を私が紙と鉛筆の力で掘り出したにすぎない」と告白する。このくだりには小平の数学観がよく表れていて,本書以外でも「数覚」や「数学的実在論」ということばを用いて繰り返し語られている。

このように何か超越的なものに誘われてするすると自然に導き出された(ように見える)業績に対して,私は「王道」を感じたのだろうと思う。

ただ,小平は「数学に王道なし」という文章も残しているので,こんなことをいうと先生に怒られてしまうかもしれない(笑)。

『ボクは算数しか出来なかった』小平邦彦著 岩波現代文庫,2002年,900円(税別) https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-603060-6

最後に紹介したいのは,『少年マガジン』で連載中のテニス漫画である。第38回講談社漫画賞を受賞し,アニメ化もされている。

主人公の丸尾栄一郎は,真面目で几帳面(きちょうめん)な優等生である。学校の成績がオールAなので「エーちゃん」というあだながつき,彼のノートはクラスメイトから頼りにされている。スポーツ漫画の主人公,という感じのキャラクターではない。(目が良いことを除けば)資質的にも体格的にも恵まれているわけでもない。そんな彼が,高校入学後にテニスを始め,プロを目標に練習を重ねていき,面白いように強くなっていく。

エーちゃんの強さの秘密(すなわち,数あるテニス漫画のなかで本書が際立っている理由)は「ノート」である。持ち前の目の良さを生かして,彼はプレーの過程をすべて記憶する。ファーストサーブのコースと成功率。ラリーの流れ。フラット,スライス,スピンといった球種。それらを短い休憩時間でノートに記録し,試合中にも繰り返し復習する。つまり,学校の勉強で培ったスタイルをそのままテニスに適用しているのである。彼のラケットバッグは何十冊ものノートでいっぱいである。

彼はラリーが終わるまで絶対に諦めない。過去のデータから次の球筋を予測し,それに基づき(時には博打(ばくち)を打って)行動し,失敗したら原因を考える。その,気の遠くなるような繰り返し。こんな粘りが最後に奇跡を生む。

「ベイビーステップ」というタイトルには,「小さい一歩の積み重ねがいつか大きなストライドになる(Baby steps to Giant strides)」という想いが込められているようだ。“Giant”と聞けば,学術関係者なら「巨人の肩の上に立つ(Standing on the shoulders of giants)」を連想するだろう。学問の歴史と同じように過去の蓄積を大切にして一歩一歩着実に成長していくエーちゃんの姿には思わず勇気づけられてしまう。

『ベイビーステップ』勝木光著 講談社コミックス,2008年~刊行中,429円(税別) http://www.shonenmagazine.com/smaga/babysteps

執筆者略歴

  • 林 豊(はやし ゆたか)

1981年岐阜県生まれ。大学(院)で数学を学ぶ。2007年に京都大学附属図書館に就職し,国立国会図書館関西館への出向を経て,2014年より九州大学附属図書館eリソースサービス室リポジトリ係に勤務。担当業務はWebサービスのフロントエンドとそれを背後で支えるメタデータのマネジメント。

 
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