科学が,今社会との関係で変革期にあるといわれている。このことは科学に関係するすべての人々,つまり専門家はもちろんのこと,一般の人々にも大きな影響をもたらそうとしている。
現代社会は科学と無関係では存在しえない。身のまわりのさまざまなモノやインターネットなどの科学の成果はわれわれの生活の中に深く浸透しており,また,それによる便益や深い影響は,アマゾンなどの商品流通,再生医療や原発の事故,PM2.5等で人々や社会に意識されている。一方,情報通信技術の急速な進展が科学の成果だけでなく,科学のプロセスに人々がアクセスすることを容易にしている。加えて,特に先進国では,市民社会の成熟と教育の水準の向上により,一般の人々の科学への関心と自らの理解と知識に基づく科学への考え方を急速に進化させている。さらには,科学の最大のスポンサーは公的であれ,民間企業の研究であれ,社会であり,人々であり,科学そのものが社会や人々に帰属し,その影響力の大きさから今後の発展が世界の国や地域の将来を左右するとみて,世界中で科学をもとにした革新,創新が重視されている。これらのことは,人々や社会の将来を変えるだけでなく,科学自身にもこれまでにない非連続的な変化をもたらす。
欧州から提唱されだしたオープンサイエンス注1),注2)は,今や世界的な潮流になろうとしている。科学はもともと,科学者が疑問に対し,仮説を立て,それに基づき実験でデータを収集し,その結果を論文にまとめてきた。350年前に英国で科学雑誌が創刊されて以来,今日までこのような方法が科学の進め方であった。ところが先に述べたとおり,科学が人々の生活に極めて深く浸透し,社会が科学を支えていることから,少なくとも公的な資金で行われた研究のデータは基本的にオープンにして,さまざまな科学者のさらなる研究に役立てていこうというオープンデータが進められている。これはこれまでの科学や研究の進め方を根本から変える。また仮に,膨大な研究データがオープン化されると,これまでの科学研究の努力の蓄積が多くの人に利用可能な状況になり,研究のビッグデータが新しい科学の世界を開く,データ駆動型科学ともいわれる第4の科学が本格化しうる。
ビッグデータはすでに行政や市場の中では利用が進んできている。従来は科学やそれを活用した国家安全保障のような限られた分野で活用された先端的な手法が社会や市場へ及んでいった。コンピューター然(しか)り,インターネット然(しか)りである。しかし,ビッグデータについては科学の世界の方が遅れている。これは,科学の世界ではデータは科学者のものという考えが確立されていたこと,そしてデータが科学者にとって独創性を証明する証拠であること,それゆえにデータの形式などは科学者のアイデアや分野,対象により細分化され,万人に共通なものとなりにくい点があると考えられる。これに対し,社会にあるデータは個人情報の縛りを別にすれば,共通化して使う価値が共通に認識されてきたため,ある程度の標準化や相互利用(ある場合には対価を伴う)が進んだとみられる。
万人が研究成果に分け隔てなく,自由にアクセスできるオープンサイエンスにおいて,科学論文のオープンアクセスは既定の路線となっている。データについて科学界の認識は,特に日本において必ずしも敏感とはいえない。しかし,オープンデータ注3)の流れもすでに止めがたい流れになっている。第1に,欧米でこの流れは政府レベルで強く推進され,それに伴い科学論文の出版社も論文に紐(ひも)付いたデータの審査と登録を進めつつある。つまり論文の論旨展開のもととなるデータセットを他の科学者がアクセス可能なリポジトリなどに収録することが求められることとなる。第2に,オープンデータについては複数の正当性がある。まず,公的資金で行われた研究のデータは社会のものであるべきという点,さらには研究にかかる資金は年々高くなっており高額なデータは最大限有効に活用されるべきとの点,さらに過去のデータをよく検討することで科学研究の効率的,効果的推進が図られる点や,他者による検証や再現可能性がデータレベルで問われることで最近多発している研究不正への歯止めになる点などである。ただし,オープン化を求める者はこれらの正当性以外に,当然ビッグデータを活用して自らの科学研究を有利に進めようという思惑がないはずがない。
このような状況で,日本の科学界は,概して反応が鈍くみえる。危機感が希薄に思われる。かつて,国際標準化がいわれ始めたときの日本企業の対応を想起させるものがある。当時の日本企業は,日本の技術は世界一で,どんな国際標準が策定されようと何ら影響を受けるものではないと自信をもっていた。ところが欧米中心に作られた国際標準は技術の善しあしだけではなく,ビジネスモデルまでにも及ぶもので,標準を満たさなければ市場から締め出される場合もありえた。国際標準は環境対応や労働慣行にまで及び,その議論に最初から参画し,リードできなかった国や企業は辛酸を舐(な)めた。
オープンデータでもさまざまな議論が始まっている。その議論は今の段階ではまだまだ確立されてはいないが,すでに関係者のネットワークが作られつつある。その1つがResearch Data Alliance(RDA)注4)である。RDAは関係者個人の参加による集まりだが,米国NSF(National Science Foundation,米国国立科学財団),欧州委員会,オーストラリア政府がその発足を後押しし,現在でも組織的関与がなされている。日本は個人の参加が基本ということで,組織的な対応をしてこなかったが,半年に1度の総会が5回すでに開催されていることから,2016年春の第7回総会を日本で開催して,日本も本格的に組織的な対応を行おうという段階にきた。
また,オープンデータをはじめとするオープンサイエンスについては内閣府が検討会を開催し,2015年春に報告書をまとめた。今後2016年度からの第5期科学技術基本計画でも1つの大きな政策課題として位置付け,政府としても世界に遅れることのない対応を行うという証しと考えられる。
繰り返し述べるが,オープン化の波はすでに世界的潮流となりつつあり,避けがたい。そのうえ,350年間続いてきた科学の進め方や常識をも変える大きな可能性をもっている。大きな潮流にのみ込まれるか,はたまた潮流に乗るか,それにもまして,潮流を起こす側に回り,日本の科学界の英知や戦略に基づいて大きな波紋を作るかの岐路にある。内閣府の検討に示されるとおり,政府はこの問題を看過できない政策的課題として認識した。今必要なことはこれに対し,日本の科学界がどう対応するかである。国際標準化の二の舞いを踏むべきではない。日本にとって科学技術は,数少ない未来の発展への可能性である。その可能性を左右する世界の潮流づくりを,自らの手から放してはいけない。日本の科学界にとって,これは世界の中できちんと競争できるかどうかの土俵づくりである。科学を進めるためには,もはや研究だけでは足りない。このような研究の進め方にかかわる国際的な場でも世界と互角に議論できる科学界でなければならない。
オープンサイエンスが推進される今日,科学に対する責任は誰にあるのか。責任ある研究とイノベーションということがいわれるが,その責任は科学者だけのものか。この点でも科学は変革期にある。これについては次号でさらに述べていきたい。
理事 大竹 暁