2016 年 59 巻 5 号 p. 340-344
知識にはさまざまのものがある。公開をよしとするものと秘匿を旨とするもの,万人向けのものと専門家向けのもの,など。これをいくつかの枠組みに従って分類してみよう。その枠組みとしては,先人の示した「文化」という尺度を借りることにしたい。
文化(Culture)とはどんなものか。レイモンド・ウィリアムズの『キイワード辞典』によれば,その祖語はラテン語のcolereであり,これには「住む」「耕す」「守る」「尊敬する」などの意味があったという。
これが歴史の中でもまれ,多義的になってしまったという1)。現在では3つの用法があり,その1つに「ある国民や時代や集団の特定の生活様式を示すもの」という定義があるようだ。以下,これに従う。なお,ウィリアムズは20世紀の英国におけるニューレフトの文芸批評家である。
文化人類学の分野に“Human Relations Area Files”(略称“HRAF”)というシソーラス紛(まが)いの用語集がある。これを手がかりとしたい2)。文化人類学は世界について素直な理解の枠組みをもっているかにみえるので。
私の手元にある1961年版を見ると,まず,上位にmaterialという用語がある。たぶん,人類学の分野では,このmaterialをタグとして,世界を理解するのだろう。そこで文化だが,まず,cultureがあり,その下位概念としてethos,norms,cultural participation,cultural goal,ethnocentrismが並んでいる。ここには知識に関する明示的な用語はない。
しからばということで,知識に関する用語をあらためて探してみよう。見つかった用語は3つのカテゴリーに分けられる。
第1には,communication(gesture and sign,transmission of message,dissemination of news,postal systemなどを含む)と,law(ethical idea,legal norms,tabooなどを含む)がある。いずれも,その人がどんな文化集団に属していようと,だれもが不可欠とする日常的な知識である。
第2には,経験的な知識がある。ここには,structural engineering,military technology,medicine in researchなどが入る。engineeringという用語もtechnologyという用語も自立して現れることはない。かならず形容詞をかぶっている。経験が先,そこに知識が生まれるという形か。
第3には,知識自体として自立しているものである。exact knowledge,idea about nature and manがここに属する。pure scienceもapplied scienceもexact knowledgeの下位概念として現れる。以下,前述の第1,第2,第3をそれぞれ「日常型知識」「経験型知識」「自立型知識」と呼ぶことにしよう。
こうみてくると,人類学者の理解によれば,科学は自立型知識,技術は経験型知識ということになる。medicineは後者に含まれる。
なお,HRAFは,ジョージ・マードックらが人類学の文献を整理するために開発したものである。
だが,多忙な近現代の社会においては,HRAF流の理解では通せない。知識を標準化,つまり単純な形に分類しなければならない。結果として,知識は学術情報となり,あるいは企業秘密となり,さらには著作権や特許権に関するものとなる(これらの具体的な姿については本欄でしばしば触れてきた)。
この知識の特徴づけはそれにかかわる利害関係者のもつ文化に従う。まず,これを表1として一覧にしておこう。
ホセ・オルテガ・イ・ガセットは20世紀前半にスペインで活躍した思想家である。その主著が1930年に公刊された『大衆の反逆』である3),4)。
かれは,ここで社会の人びとを「選ばれた少数者」と「平均人」とに分類した。エリートと大衆といったらよいか。かれの定義によれば,前者は自己完成の努力をする人,後者はそれを怠る人を指す。HRAFの理解枠で示せば,前者は自立型知識にかかわる人,後者は日常型知識のみに頼る人,ということになるだろう。
オルテガの指摘は,経験型知識の分化が激しいために,いかなるエリートも専門家となり,しかも自分の専門分野以外においては平均人になってしまう,これでよいのか,というものであった。
2.2 ヴェブレンの理解ソースタイン・ヴェブレンは20世紀初頭に合衆国の産業社会を批判的に論じた経済学者である。かれは1919年に「近代文明における科学の地位」という論文を発表し,ここで進化論的な知識論を示した。つまり,知識は原始人のそれから,現代人のそれに進化すると示した。
かれはエリートの知識を「実利的な処世術」(worldly wisdom)と「目的なき好奇心」(idle curiosity)とに分類した5),6)。HRAF流にいえば,前者は経験型知識,後者は自立型知識ということになる。
つけ加えれば,ヴェブレンは経験型知識の原型として習慣を挙げ,自立型知識の原型として神話を示している。
ここでオルテガの理解とヴェブレンの理解とを重ねて示すと表2のようになる。オルテガの静的な理解とヴェブレンの動的な理解を重ねることには無理があるが,ここでは目をつむってほしい。
20世紀英国の知識人であったチャールズ・スノーは1959年に『二つの文化と科学革命』という講演をおこなった7)。ここでスノーは文化を文系のそれと理系のそれに分けて論じた。かれは当初物理学者であり,当時の英国にあった物理学者――たとえばアーネスト・ラザフォード――を知識人として扱わないという風潮に不満をもったようだ。スノーはこの傾向に対して上記の講演をしたのであった。
スノーの主張は屈折しているが,つぎのようにまとめることができるだろう。かれはエリートを伝統指向の文系集団と未来指向の理系集団に分類し,それぞれを個人的思考をむねとする集団(文学者あるいは科学者)と組織的思考をよしとする集団(行政官あるいは技術者)とに分けている。これを表3に示そう。ここでも,スノーの理解をヴェブレンの理解と重ねてみた。スノーはオルテガのいう平均人の文化は無視している。
なお,スノーは物理学者としては挫折(撤回論文を書いた)し,行政官,小説家としてその地位を回復したという経歴をもつ。
IAEA(国際原子力機関)は1991年に「安全文化」という概念を公表した8)。旧ソビエト連邦のチェルノブイリ事故を受けてのことであった。
OECD(経済協力開発機構)は2002年に「セキュリティー文化」という概念を発表した9),10)。2001年に起こった9.11事件に対応するものであった。いずれも,社会の安全に関する技術標準を文化のレベルから基礎づけようとする文書であった。
いずれの文書も安全にかかわるルールである。にもかかわらず,ここには経験型の知識を文化と関連づける試みが示されている。
注目すべきは,それぞれの知識に求められる利害関係者である。IAEAの「安全文化」は専門家に限られ,OECDの「セキュリティー文化」は専門家を含むすべての利害関係者に及ぶとされている。つまり,後者は非専門家であるかもしれないユーザー――オルテガのいう平均人――までも含むということになる。
逆に,安全文化においては対象となる専門的な知識を非専門家には求めていない。自主規制がキーワードになっている。平均人は口を出すな,すべては専門家にまかせよ,ということか。以上を表4に示す。
雑誌『サイエンス』の2003年2月21日号は巻頭に「二つの文化」という論説を掲げた11)。タイトル名はスノーと同じだが,中身はまったく違う。こちらの二つの文化とは,「セキュリティー文化(S1文化)」と「科学者共同体の文化(S2文化)」を指す。ここにも2001年の9.11事件が影を落としている。
S2文化とは,専門家である科学者が自律的にその知識を公表する文化を指す。いっぽう,S1文化とは,S2文化的知識のうちに秘匿すべき知識がありうるという文化を指す。つまりS1文化は自由なS2文化を否定する抑圧的な文化として生じたことになる。
たとえば,生物化学兵器に関する知識がS1文化に入る。じつは,原子爆弾,SDI(戦略的防衛構想),暗号など,秘匿を求められる専門的知識は,これまでも存在した。ただし,それが文化のレベルにまで踏み込んで議論されることはなかった。ここでも平均人は無視されている。
20世紀フランスの文芸批評家ロラン・バルトは分類について次のように語った。「君がどのように分類するか,いってみたまえ。そうしたら,君がどんな人間か,当ててみよう」と12)。たしかに,ヴェブレンの分類,オルテガの分類,スノーの分類をみれば,当人の思想を忖度(そんたく)できる。IAEAは専門家の立場を固守し,OECDはそれをあきらめている。『サイエンス』の編集部は科学者共同体を解体する文化をみずから設けたことになる。
21世紀初頭の現在,どんな形の知識が私たちの社会に存在しているのか。例示的にいえば,すべての知識がSNS(Social Networking Service)型になったといってよい。SNS型とはここまで日常型といってきた知識に対応する。このようになった理由は,ネットワーク技術の地球規模的な普及にある。結果として,すべての知識は,万人によってアクセス可能となりつつある。
その姿は,私の理解では,表5のようになる13)。どんな文化においても知識の物理的な存在形式は公開か秘匿かのいずれかしかないが,文化的な縛りは,多様になる。
バルトは続ける。「事物の位置には,つねに賭け金があるのだ」と(引用者注,「事物の位置」とは「分類」を指す)。しからば,知識の分類の壁の消滅にはどんな賭け金がかかっているのか。ほとんどの知識は希釈されて万人に共有され,残余の知識は専門家によって専有され秘匿される,ということになる。この「希釈」と「秘匿」とが分類――とくに二分法――の壁の消滅の代償ということになるだろう。
表5をもう一度見てほしい。ここで二分法はあいまいになりつつある。二分法は「左と右」「過去と未来」というように自然界においては有効であるが,「善と悪」「正と不正」といった価値観が入ると怪しくなる14)。もう一つ。Aと非Aとは一般には非対称的になる。スノーも二分法を使いながらも「二分法という分類はいかがわしい」と言っている。
最後にもう一つ。対抗文化という言葉が,1970年代,ウッドストックの時代に流行った。この文脈では,対抗文化には「反・機械的」「反・合理主義」「反・産業主義」という含みがあった。この気分は21世紀になると,「反・エリート的」という意味合いを受け継ぎつつ,SNSとして全知識領域に拡がっている。『大衆の反逆』は,1世紀を経て,サイバー空間で復活したかにみえる。
(注)本文で紹介するのを忘れてしまったが,「モード1」の科学的知識と「モード2」の科学的知識があるという15)。英国の科学社会学者マイケル・ギボンズの説である。前者は目的のない好奇心をより専門化したもの,後者は実利的な処世術をより専門分野横断的にしたもの,といえる。モード2を平均人にまで拡大かつ希釈した文化が21世紀のSNS型文化となる。