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この本!~おすすめします~
この本! おすすめします 毎日が勝負です!?
中西 陽子
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2016 年 59 巻 5 号 p. 349-351

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「勝負脳を鍛える」とは,なんと勇ましいことで,女性が紹介するにはどうかしらと躊躇もしましたが,一見,勝負ではない日常のいろいろなことに,余力を持って対応できるように,脳の回路を自らプログラムすることを知っていただきたく,「〈勝負脳〉の鍛え方」という本を紹介します。

私が最初にこの本を知ったのは,夫が会社の研修会に出席した折,著者本人の講演を聞いて感銘を受け,早速購入したこの本を私に手渡したからでした。子どもも生まれて育児書以外には本も読まなくなっていた私でしたが,後になって,この本を思い出したのです。それはちょうどソチオリンピックで引退を表明していたフィギュアスケートの浅田真央選手が「これが最後のオリンピック!これが最後の…」と解説者が大声で連呼する中,大転倒してしまい,私も含め日本中が悲鳴をあげたときでした。もし,真央ちゃんがこの本を読んでいれば…と。そこで自分でも読み返してみたのです。

著者は,日本大学大学院の総合科学研究科の林成之先生です。私も日本大学に勤めておりますので,勝手な親近感を覚えているのですが,もともとは脳神経外科から救急救命医として活躍された医師で,脳死寸前の患者を救う脳低温療法を発見された先生です。2013年に,元F1レーサーのミハエル・シューマッハ氏がスキー事故で昏睡状態となりましたが,奇跡的に目覚めたという報道がありました。この時に行われたのが脳低温療法で,脳梗塞や脳出血,事故によるけがで脳が急激に大きな障害を受けた時,できるだけ早く低温状態にすることで脳の障害が進んでしまうことを防ぐという治療法だそうです。

この本は,そんな脳の専門家が,脳を理解することによって,脳を全開に働かせる方法を書いた本です。私同様,よくあるハウツー本と思われるかもしれません。ですが,この本を出された2年後に林先生は日本のオリンピック水泳選手団のために講演をされ,競泳の北島康介選手は,この勝負脳の鍛え方を熱心に学ばれたそうです。北島選手がこの後記録を更新し続けることができたのは実技面の鍛錬だけではなく,脳を鍛えたからともいわれています。

人はゴールが見えたとき,脳の働きによって最後まで力を出し切らずに必ず手前でブレーキがかかり,脱力してしまうのだそうです。たとえば,マラソン選手が完走後に倒れこんでしまうことなどがそうです。これもゴールを目前にしたとたん,手前ですでに力尽きてしまうからだと,脳科学的には考えられるそうです。そうならないための秘訣を本書から簡単に紹介しますと,勝つためには最後まで余力を持って全力を出すことが求められます。余力を残してゴールする,そのためには,ゴールを常に数メートル先にイメージするのだそうです。脳にはゴールは実際のゴールより先にあると思い込ませているわけですから,本当のゴール地点で失速することなく最後まで全力で走りきる,あるいは泳ぎきるということができるのだそうです。

昨今,人工知能の開発も進んでいますが,コンピューターにゴールは数メートル先であると学習させることは簡単そうです。そもそもゴールまで一定の速度で走れとプログラムすれば速度が低下することはないでしょう。いかにヒトの脳は単純に目的を達成することが難しいことか,いえ,だからこそ人間なのかもしれません。

勝負脳はスポーツの世界だけに関係していると思われるかもしれませんが,勝負というのは何も試合やいろいろな競争事だけではありません。この本を読みますと,目的を達成するという意味では,仕事でも趣味でも,日々の家事や育児にすら応用して考えることができるのではないかという気にさせられます。実際に林先生は,勝負脳を仕事に,さらには日常生活に生かすための本を,この後に出しておられます1)2)

育児と勝負脳?誤解のないようお願いしますが,決して子どもとけんかをして勝つための方法ではありません。実は,私も仕事をしながら一人息子を育てており,この本,といいますかこの考え方に出会うまで,まるで強迫観念にとらわれてでもいるように,一つひとつを毎日達成することに疲弊していました。実家は遠く,仕事は研究職。やるべきことが山のようにある中でも,特に育児は実に多くのゴールを達成しなければならないと思っていました。親の努力が必要なものもたくさんあり,たとえばオムツがとれること,お箸が使えるようになること,自分の名前が書けるようになることなどです。育児書には目安の時期も書かれています。今思うと,私はたくさんのゴールばかりを脳に刻み込ませてめちゃくちゃに走り,結局どれもゴール前で力尽きて母としての落第感にもがく毎日でした。家事でも,私の性格の問題かもしれませんが,今日はここまで片付けたらご褒美に一杯飲もう。そんな風にゴールばかりを見つめてしまうために,手元に力が入らず,ただ疲労感が増すばかりでおりました。いかにこれまで間違ったプログラムで脳と体を自ら疲弊させて失速の日々を繰り返してきたことかとあきれてしまいます。他にも,大学に合格したら勉強したくなくなってしまったりすることや,やっとの思いで学位論文を提出した後に力尽きてしまい,もう研究はやりませんという気持ちになってしまったりすることもゴールの設定を誤っている同じ現象かもしれません。逆に,一見大変そうな作業であっても,ルーティンワークは毎日淡々とこなすことができるのは,ゴールというものを脳がイメージしないからかもしれません。

少し「勝負」と離れてしまいましたので,勝負強さについて,本書の内容の一部を紹介します。元来,草食系である日本人は,勝負に弱い民族なのだそうです。なぜならば,食物連鎖において草食動物は常に食べられる側にいるため,「勝負」とはすなわち負けるという結果が予想される危険な行動なのだというのです。このために,争いを好まず,勝負どころになると緊張して体が動かなくなるという素因をもともともっているのだそうです。では,そんな日本人が勝つためにはどうすればよいのか。それは,勝つという目的に向かって,つまりゴールを設定して突き進むのではなく,勝つためにはどうすればいいのかという弱点や戦略の分析を行って一つひとつの目標の達成に集中し,目的を意識しないことなのだそうです。実は,これと同じ方法でオリンピック金メダルを見事獲得したのがフィギュアスケートの荒川静香選手なのだそうですが,身近なところでは受験生などにも同じ効果が期待できるのではないでしょうか。

私もあらためてこの本を読み返し,これまで自らゴールだらけにしては失速し,体調まで崩していた自分を深く反省しています。でもやはり,無意識にゴールを設定したくなる性格,いえ,一仕事の後の爽快な一杯がやめられない性格をなかなか変えることができずにいるため,何事に対しても少し先にゴールがあるようなイメージをもつようにする練習をしているところです。これだけのことでも,精神的にも体力的にもずいぶん余力をもてるようになった気がします。爽快な一杯は?適当な区切りで飲んでもいいことにして。

さて,すっかりオムツもとれ,もちろん名前も書けるようになり,小学生になった息子は勉強がきらいです。誰に似たのかテストのたびに,息子はテストが終わることをゴールに設定し,結局本番ではいつも力尽きている様子。ゴールばかりをみて手元に集中できていないのです。これこそ勝負脳の出番ではないかと思い,早速息子にテストというものはずっと続いて終わりがないからと話したところ,息子は途端に泣き出して,さらにやる気を失ってしまいました。またしても母落第です。

最後に,私の貴重な勝利談をお話しします。私はどちらかというと草食傾向が強く,試験や発表,自己紹介ですら緊張して体が動かなくなる人の代表選手のようなものでした。ところが,そんな私がなんと優勝してしまったのです。それは,2014年に情報科学技術協会(INFOSTA)の総会後に行われたビブリオバトル注1)でのことでした。そこで紹介したのはもちろんこの本だったのですが,内容を紹介するために,何度も何度も繰り返し読んでいるうちに,勝負脳を鍛えることが実践されていたのではないかと思います。初めて肉食獣にでもなった気分になりました。その後の一杯はなんとおいしかったことでしょう。

決して楽をして勝ちましょうという本ではありません。ですが,ゴールの設定や集中の仕方など,論理的に脳をコントロールする方法を知ることで,日々努力し続けることへの無用な気負いがなくなり,不思議と肩の力が抜ける本だと思います。そう言えば,先日大記録を達成したイチロー選手も,ゴールを設定したことは一度もないと語っておられたのが印象的でした。勝負脳は,他者ではなく,自分自身と戦い続ける力なのかもしれません。日々の育児にも研究にも,ましてや人生にもゴールなどないわけですから。

『〈勝負脳〉の鍛え方』林成之著 講談社現代新書,2006年,720円(税別) http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061498617

執筆者略歴

  • 中西 陽子(なかにし ようこ)

1991年,京都工芸繊維大学繊維学部応用生物学科卒業。勤めた企業を退職し,夫の異動で来た茨城県で,筑波大学社会医学系,茨城県立医療大学に勤務した後,2001年より日本大学医学部病理学分野に勤務。この間,医学における情報科学への興味から,図書館情報大学大学院に社会人入学して情報学の学位を取得。その後,日本大学に勤務しながら同大学で医学の学位を取得し,現職。

本文の注
注1)  ビブリオバトルとは,おすすめしたい本を持ちよった参加者たちが順番に,参加者全員の前で本の紹介を発表し,その後,参加者全員が一番読みたくなった本の参加者に投票する「知的書評合戦」である。http://www.bibliobattle.jp/

参考文献
  • 1)  林成之. 脳に悪い7つの習慣. 幻冬舎, 2009, 182p.
  • 2)  林成之. 体感!思考力の鍛え方:仕事に負けない〈勝負脳〉. 日本能率協会コンサルティング, 2010, 182p.
 
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