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サイバースペースとセキュリティー:第1回 「人間とは何か」が変わる時代
東 浩紀
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2016 年 59 巻 9 号 p. 624-628

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インターネットの利便性をこれまでになく享受し,ネット上に拡散する情報の力が革新的な発想を後押しすることも多い21世紀初頭は,同時に情報漏えいや権利侵害,依存といった弊害や危うさを露呈し始めた時代でもある。不可視だが確実に存在する脅威,ネットにつながっているゆえの不自由さをも見極める必要がある。現代の環境を冷静に認識し,今起きていることに対してどうふるまうべきか。現代思想・法曹・警察行政・迎撃技術・情報工学・サイバーインテリジェンス等のスペシャリストが,6回に分けて考える。

第1回は,サイバースペース(情報空間)やインターネットが浮き彫りにした「人間の本質」と「未来」について,哲学者・東浩紀氏が語る。

本稿の著作権は著者が保持する。

 「セキュリティー」の語源,すべてがそこにある

「サイバースペースとセキュリティー」という連載の第1回にあたり,まずぼくは「セキュリティー(security)」という言葉について考えてみたい。

「安全保証」という意味を持ち,「セクーラ (sēcūra)」というラテン語から来ているこの語は,思想的にみるとけっこう厄介な言葉である。というのも,「セ(sē)」にはwithout,「クーラ(cūra)」には関心という意味があるため,「セクーラ」は「関心がないこと」を意味するからである。つまり,「セキュリティーが保たれた(安全な)状態」というのは,「世界に関心がなくても大丈夫な状態」なのだ。危険な状態であれば世界に関心を持たざるをえないから,これはもっともなことではある。

さらに「クーラ(cūra)」は,英語でいうと「ケア(care)」,あるいは「キュア(cure)」という意味で,ドイツ語に訳すと「ゾルゲ(Sorge)」である。この単語も実は20世紀の哲学にとって非常に重要な言葉になるが,それはドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが,この「ゾルゲ」という言葉を用いて「人間が人間であるのは世界に配慮をしているときである」と言ったからだ。

さらにハイデガーは「世界内存在」という言い方で,世界の中にあり,世界のことを考えている状態こそが人間が人間であるゆえんであるというようなことを言った。逆に,ただぼうっと存在しているのは人間ではなく,堕落した状態である,と。

このことは,ネットの話題を考えるときには意味深い話である。「セキュリティーが保たれた(安全な)状態(security)」という言葉の,「世界に関心を持たずにぼんやりしている状態」という意味こそが,「セキュリティーを高めようとする」ことから発する問題のすべてをはらんでいるといってもよいのではないだろうか。

別の言い方をすれば,セキュリティーが高まれば高まるほどユーザーは,自分を取り巻く世界の構造,いってみればアーキテクチャーに無関心になる。逆に人をアーキテクチャーに対して無関心にさせるためには,セキュリティーを高めればよいのである。そしてセキュリティーが高まれば,ユーザーの側に根本的な脆弱(ぜいじゃく)性が出てくる。

最近ではFacebookがアルゴリズムを用いてコンテンツをイデオロギーの観点から分類し,投稿配信しようとしているが,「自分」のタイムラインに,自分の関心にカスタマイズされたニュースや投稿だけが流れてくる状態も,まさに「世界に対する関心を失っている状態」であろう。地球の裏側で何か大きなことが起きていたとしても,そのニュースを流すアカウントをフォローしていなければニュースは流れてこない。その点,古いメディアといわれる新聞やラジオといった中央集権タイプのプッシュ型メディアなら,ニュースは強制的に送られてくるから,いやでも関心を喚起させられることになる。

実は,インターネットやネットサービスが世界に対する関心を奪う方向に発展していることは,社会学系,人文系の多くの人たちも指摘している。米国の憲法学者キャス・サンスティーンは著書『Republic.com』1)2)でこのことに言及しているし,「エコーチェンバー」注1)「コクーン化」注2)「フィルターバブル」注3)といったさまざまなバズワードも出現している。

自分の関心の中だけに閉じこもり,世界への関心を失い,自己充足的な生き方に閉じてしまう可能性。ぼくは,セキュリティーという言葉は語源的にそのような危険をはらんでいると思う。このことは,現在を生きるぼくたちが強く意識しなければいけないことである。

 「人間の本質」に寄り添う開発を

では,「世界に関心を持たずにぼんやりしている状態」と「セキュリティー」の同義性という,この事実をいったいどうするか。これは技術の本質にかかわる難しい問題だと,ぼくは思う。

少し異なった話になるが,たとえば友人関係を「固定的に」とらえているFacebookを例に考えてみよう。人は長く生きていると,仲のよかった友人でも連絡を取りたくない時期に入ったりする。婚姻関係ですら,いったん解消してまた新しい関係を結ぶということがある。

ところがFacebookでは,そういった人間関係の変動がほとんど考慮されていない。生まれた瞬間からタイムラインが始まっていて,そこに,次々に写真が貼り付けられるようにして人生がデザインされていく。

実はこれには,Facebookの開発者が学生だったこと,20代の若者が,友達をうまく作るために作ったサービスであることの影響が大きいのではないだろうか。Facebookが想定しているのはあくまでも20代のユーザーであり,50代,60代の,人生で失敗も重ね,複雑な人間関係を培っている人たちにも使われることを前提として生まれたわけではない。

ぼくは,ITにまつわる現代の問題は案外そこに大きく絡んでいるのかもしれないと思う。すなわち,若い技術者が開発した若い人間観,人生観に見合ったサービスを,若者ばかりではなくすべての人が使っているという状況から生じる齟齬(そご)の問題である。

セキュリティーの文脈でも同じことがいえるのではないだろうか。エンジニアの視点からはセキュリティーを高めることくらいしかできないと思ってしまいがちだが,その見方は単純すぎる。実際には,開発者が世界と人間の関係をより深く考えることで,ユーザーを無関心から救い出すサービスも作ることができるかもしれないのである。

 「人間とは何か」が変わりつつある

サイバースペースの問題と密接に関連するテーマに,もう一つ気になるものがある。それは,タッチスクリーンのグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)という平面である。思想,哲学,美学,いずれの分野でもあまり研究されていないが,これは実は極めて奇妙な平面だ。

新しいメディアの誕生は,それに応じた世界観や人間観を作る。たとえば近代的な自我が,活版印刷の発明・グーテンベルクの革命によって作られたというのは有名なマーシャル・マクルーハンの説である。印刷聖書の出現は,聖書を「聞く」行為から「読む」行為へと変えた。自己の内部に文字を介して1対1で向き合う,この「読む」という行為が,近代特有の「内面」を作り出したのである。

タッチスクリーンのGUIも,グーテンベルク聖書同様,人間の自己意識や表現に大きな影響を与えかねない発明である。今まで,文字とイメージ,音といったものはまったく違うものとして知覚されていた。

ところがGUIは,それらをすべて統合してしまう平面である。しかもそれを「指の操作」で還元しようとしているという点で,人間の文化の中で非常に新しいものなのである。

昔はデスクトップとマウスだったコンピューター環境が,現在は完全にこのタッチスクリーンになろうとしている。長い間人間が親しんできたペンやキーボードが,指の動きに代わろうとしてきている。そのように人間の表現や情報収集の仕方が非常にダイナミックに変わろうとしていること,その象徴がタッチスクリーンパネルだといってもいい。活版印刷の発明が近代の出版文化を創り上げ,近代的個人を生み出し民主主義社会を生み出したように,この奇妙なメディアは,これからまったく新しい社会や文化を出現させるかもしれないとぼくは思う。

これからは自分のパーソナルデバイスに今まで生きてきた履歴が写真と動画のかたちで全部入っている,しかも指1本で呼び出せる,という現実が出現するだろう。このことで「自分はいったい何者か」についての考え方が大きく変わっていくだろうということは,容易に想像がつく。

今は,「人間とは何か」が大きく変わりつつある時代だ。スマートフォンのデバイス一つ,インターネット一つとっても,人間の人間観を大きく変えるサービスなのである。

 カギをかけるか,教えるか。どちらが自由か

権力とは何かについて考えてみたい。ある人間を管理することを例に考えてみよう。管理には「ドアを開けてはいけない」と教える方法と,「ドアにカギをかける」方法の2つがある。カギをかけるのはコストがかかる。だからある程度の技術的段階までは,「開けるな」と教える方が安上がりである。ところがカギをかけるのが非常に簡単になれば,自然と「カギ」の方へ切り替わっていく。情報社会の到来で起きているのは,あらゆることがこの「カギ」の方に変わっていくという変化である。

そのうえでいえば,ぼくたちの世界が今直面しているのは,一言でいえば「どちらがより自由か」という問題かもしれない。

「開けるな」と命令する方では,物理的な自由は奪われない。しかし,開けたら怒られるという恐怖心を植え付けられることで,精神的な自由が奪われるようにも思える。

他方でドアにカギをかければ,物理的な自由は奪われる。けれども精神的な自由は残される。何を考えてもいい。ドアを開けたいと考えても,ドアを壊したいと考えてもいい。ただ,何を考えていたとしてもドアは開かない。その意味で自由は最初からない。

ネットの文化は,あちらにもこちらにもカギをかけて,その代わりに人の心には立ち入らないという文化である。それがよいことだと考えている技術者は多い。しかし,「心には立ち入らない」ことが,必ずしも人の自由を拡大しているわけではない。カギをかけて物理的な自由そのものを奪うのか,「ドアを開けるな」と教えることで物理的な自由はそのままにしたまま精神的な自由を奪うのか,どちらが「より自由」なのかを決定するのはとても難しい。

 スタンドアローンで,「モノ」として残すことの価値

ところで,一時期,リアルは有限だが,ネットは無限だといった議論がされたときがあった。しかし実際はそうではない。第一にネットも永遠ではない。データは消える。次に,たとえネットが永遠だとしても,人間の側が無限ではない。たとえば手元のスマホに10万枚の写真が保存されていたとしても,実際に10万枚を閲覧することは不可能だ。自分の能力には限りがあるから,ネットがいくら無限だったとしても,実践的には意味がない。

特にデータの持続可能性が問題である。たとえば美術家が未来に残る作品を残そうとしたとき,デジタルメディアで作品を作るのは大変危険だといえる。30年後,あるいは半世紀後,現在のデジタルメディアはもうないかもしれない。もし美術家が長く作品を残したいと思ったら,普通にモノで作るべきである。そして,もし電子化したとしてもオリジナルの破棄は断固,するべきではない。

Facebookは15年前まで,Googleは20年前までは存在しなかった。iPadだっていつまであるかわからない。これからは情報時代といわれるが,今のネットやデジタルメディアがどれほど長く継続するかはだれにもわからない。技術的には存続可能でも,人間の方が飽きて放棄するかもしれない。その点では出版メディアの方がはるかに信用に値する。本は時間のテストに耐えているからだ。今のネットのかたちを信頼してデジタルだけに突っ走るのは危険すぎる。プラットフォームやデバイスやファイル形式が激しく変わっている今の時代は,もしかしたら,後世からは,ほとんどの書類が再生できない「混乱期」として評価されるかもしれない。現実的には,あらゆるデータ形式の書類について,その再生を保証する公的機関か何かが設立されないと,この状況は改善されないだろう。

クラウドサービスの脆弱性も同様である。日記全部をクラウドに保存するのは愚の骨頂だ。同じく,「Facebookが日記代わり」の人や,ビジネスにしても,Google Docs上にすべての帳簿があるという会社は多いだろうが,GoogleやFacebookのサーバーが永遠に安全だという保証はない。そんな危険な時代に,ぼくたちは生きている。

だからこそ,記録を「スタンドアローンで」,アナログで,紙で,モノとして残すことの価値は大きい。なぜなら,現実世界こそが,過去数百万年続いてきて,これからも続くとわかっている大きな,そして確かなプラットフォームなのだから。

 身体的リアリティーとブレーク,その関連性

最後に10年後,わたしたちがどのようなサイバースペースに生きているかを考えてみよう。

ぼくは,「ポケモンGO」は「指で触れる」からこそヒットしたのではないかと思っている。個人的な予測だが,完全にヘッドマウントディスプレー化したポケモンGOが発売されても,今回のようなブレークは来ないのではないだろうか。それは,「見る」だけでは,「あちらの世界」との身体的インタラクションがそれほど生々しくないからである。触ったりなでたり,というところまで行ければわからないが,「見る」ことだけがどれほどアップグレードされても,ユーザーはあまりそそられないのではと思う。

VR(バーチャルリアリティー)ゲームにしても,技術者は作りたいかもしれないが,ユーザーのプレー体験を考えた場合,同じゲームで,ヘッドマウントディスプレー版と2D版ではそんなに違うだろうか。ゲームの本質は,もっと別のさまざまなシステムバランスにあり,それは今のところ2Dでも十分に味わえる。

3D映画も同じだ。3D版の選択がなかったらぼくたちは2D版を見るし,2Dでその作品を見たことに後悔もしない。ましてや3D でないとその作品について語り合えなくなったりもしない。それは,映画の本質が3Dにないからである。3Dを見るとき,ぼくたちはせいぜい「スピーカーがよくなった」くらいにしか認識しない。作り手の技術は確かに上がったかもしれないが,見る側,受け取る側の気持ちとしては,3Dだからといって「映画の本質」はなんら変わらないのである。作り手は,ジャンルの本質がどこにあるかを正確に認識することが大事だ。

 自動翻訳,そして国境の消滅

十数年後,際立ったブレークスルーがある分野は何かというと,自動翻訳ではないかとぼくは思う。しかも人工知能に優しい,冗長性が高くすなわち翻訳しやすい「話し言葉」から自動翻訳の革新はやって来るのではないか。そもそも人間の脳はディープラーニングで話し言葉を学んでいる。専門的な話は割愛するが,書き言葉は少し構造が違う。つまり,Webサイトが翻訳される日は遠くても,YouTubeあたりからブレークが来るというのがぼくの考えだ。

そして将来,YouTubeの動画がすべて自動で字幕がつき,自動翻訳されるようになれば,世界の文化には大きなインパクトがあるだろう。「どこの国で何が流行しているか」の情報が今はかなり分裂しているが,そこを一気に巻き込む流れができる。そうすれば国境が壊れていく。そんな近未来がみえはしないだろうか。

執筆者略歴

  • 東 浩紀(あずま ひろき)

哲学者,作家。初の著書『存在論的,郵便的 ジャック・デリダについて』(1998年・新潮社)でサントリー学芸賞を受賞,『クォンタム・ファミリーズ』(2009年・新潮社)では三島由紀夫賞を受賞。東京大学大学院 情報学環・学際情報学府客員助教授,国際大学グローバル・コミュニケーションセンター副所長,東京工業大学世界文明センター 人文学院特任教授などを歴任後,株式会社ゲンロン創業。自ら代表取締役社長兼編集長を務める。

本文の注
注1)  エコーチェンバー:人は異質のものよりも,自分の考えと同じだったり,似ていたりするものに賛同する傾向がある。そのため同じ考えや思想が共鳴する部屋(エコーチェンバー)にこもり,時には他を排除してしまう。※一般的な意味。

注2)  コクーン化:自分の繭(コクーン)の中に閉じこもってしまうこと。SNSなどは多くの人とつながれることが特徴だが,たとえば特定の人のみに限定するなど,自らつながりを拒否してしまう。※一般的な意味。

注3)  フィルターバブル:検索Webサイト等がアルゴリズムを用いて,ユーザー個々の検索履歴等を分析し,ユーザーに合わせた情報を推定して提供すること。便利な一方,情報が選択されているため,情報から隔離され孤立するおそれがある。※一般的な意味。

参考文献
  • 1)  Sunstein, Cass R. Republic.com. Princeton University Press, 2001, 224p.
  • 2)  サンスティーン, キャス著; 石川幸憲訳. インターネットは民主主義の敵か. 毎日新聞社, 2003, 223p.
 
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