2018 年 60 巻 11 号 p. 819-823
『先週の金曜日聖ジェームズ図書館において古代と近代の間で戦われたる合戦の完全にして真実なる物語』というショートショートがある1)。通常は『書物合戦』と呼ばれている。著者はジョナサン・スウィフトである。かれは作家であるにとどまらず,政治家の秘書,聖職者でもあった。ついでにいうと,スウィフトはアイザック・ニュートンと同世代人である。
この書物であるが,皮肉,当てこすり,悪罵(あくば)が続き,しかも脱落――多分意図的な――も多い。当時の事情にうとい私には,そのいわんとすることをしかと理解することができない。誤解を恐れずにいえば,スウィフトはこの本によって,当時の古代・近代論争に割って入ったものらしい2)。
その古代・近代論争とは,古代(ギリシャ,ローマ時代)の文化と当時(17~18世紀欧州)の文化のいずれが高度であるのか,という議論であった。古代崇拝者は言った。「古代人」はすでに必要なすべての知的業績を残している。ヴァージル,キケロ,ホーマー,そしてとくにアリストテレスを見よ,と。いっぽう近代主義者は「巨人の肩のうえの小人」論を示し,後世の人の方がより多くの知的蓄積がある,と主張した3)。
『書物合戦』には蜂と蜘蛛(くも)との争いというアレゴリー(寓話(ぐうわ))が描かれている。蜂は古代人のように自然のなかから養分をとり,それを美しい翅(はね)音に変える。いっぽう蜘蛛は近代人のように,汚れた餌を食い散らかし,自分の排せつ物から伽藍(がらん)のようなウェブ(web: 蜘蛛の巣)を作る。このアレゴリーでスウィフトが何を伝えたかったか,そのあたりは曖昧のままである。
スウィフトの意図はともかく,「書物合戦」という用語は面白い。以下,これをキーワードとして書物の歴史をたどってみたい4),5)。ここでは蜂は写本,蜘蛛は印刷本としてみる。
まず,本のない時代があった。ここでは記憶術が頼りになった6)。記憶術は紀元前6世紀に始まるという。記憶術はその後,神話の口伝,詩歌の朗誦(ろうしょう),音楽の朗唱などとともに洗練される。12世紀になっても,狂詩2,000行からなるラテン語の文法書が書かれているという。この文法書は16世紀初頭になっても復刻されている。
巻子本(かんすぼん)が制作されるようになっても記憶術の衰えることはなかったという。巻子本にはページがなく,その検索が面倒だったからであった。だが,冊子体の写本が発明されるとともに,ページ,目録,索引などが考案され,読み手はアルファベットとその順を記憶すればよいようになる。
なお,中世では音読が当たり前であった7)。それは唯一のマスメディアであったという。だが写字という行為のなかで,「心は探るが,声と舌とは休む」という読み方,つまり黙読が生まれる。ただし黙読が社会の各層に普及するのは10世紀になってからという。
本について語るためには,まずそれが誰によって,どのように使われたかを確認しなければならない。ここではいくつかの流れがからみ合っていた。まず,「読む言葉」から「書く言葉」へ,ついでラテン語から俗語へ,そして聖職者の言葉から俗人の言葉へ,と8)。
13世紀には「世俗のものは僧侶と違って文字を読む力がない」と言い切る聖職者もいたという。その僧侶が読むことはできても書くことができたのかどうかは不明であるが,識字力はかれらが権力を維持するために不可欠な能力であった。ただし,すべての聖職者が読み書きに通じるようになるのは15世紀になってからという。
すでに12世紀に僧侶たちは,読書という特権の継承を図るために大学を設立する。大学が写本の大ユーザーとなった。その写本には,聖書,自由七科(リベラル・アーツ)のテキストなどがあった。
いっぽう13世紀になると商人が世俗語について,ときにはラテン語について,識字力をもつようになる。取引には文書主義が欠かせなかったためである。俗人が読み手となると,騎士物語などの写本も現れる。いずれにせよ,識字率の向上は写本の市場を広げた。
中世前期,知的伝統は教会によって継承され,その知的伝統は「ラテン語」によって伝達された9)。この伝統は,教会,大学など特権階級によって独占されていた。「野蛮人と呼ばれるのはラテン語の純粋さを知らない故にである」という賢人もいた。そのラテン語は唯一の書き言葉として教会を通して行政文書に使われるようになり,それによってその用語,文法の標準化が進んだ。
だが,商業の発展とともに,「俗語」つまり土着の民族語がしだいに書き言葉として利用されるようになった。それは市民にとっては日常的に不可欠なものとなった。この動向も本の需要を増大させた。
話がとんで宗教改革の時代になると,ラテン語は正統派の言語,俗語は異端の言語とみなされる。反教会的なデジデリウス・エラスムスの『痴愚神礼賛(ちぐしんらいさん)』が禁書にならなかったのはそれがラテン語で書かれていたためであり,ガリレオ・ガリレイの『天文対話』が教皇庁により異端と断罪され禁書処分を受けたのは,それがイタリア語で書かれていたためともいわれる。
印刷術が発明されるまで,本は写本として制作され,利用された。それはペンで制作する手芸品であり,その生産性は低く,1日あたり3,000字だったと見積もられている。それだけに需要は供給を大幅に上回っていた。写本のレンタル事業者も現れた。
14世紀になると,疑似的印刷本とでもいうべき手工業的な製法が出現した10)。それは並列処理で写本を量産することであった。なぜ量産かといえば,学生がそれを必要としたからであった。
まず,原本を「ペシア」と呼ぶ丁単位に分割する。1ペシアは,判型を全紙4つ折りにした場合,8ページであった。原本がmペシアであれば,これをm人の写字生に貸与し,そのコピーを手書きで作らせる。これで写本の生産性はm倍となる。
原本貸与方式はやがて原本口述方式へと進化した。中央に1人の読み手がおり,それをn人の書き手がガレー船をこぐ奴隷さながらに筆写する。これで生産性はさらにn倍となる。
つまり,ペシア方式は20世紀前半に評判になったテイラー方式を未熟な形で実現していたことになる。つけ加えれば,ここでは「原本」→「写本」となり,「コピー」→「コピー」であった初期の写本システムよりも,誤記の確率が減った。
筆者も大学生の時代(1950年代)には写字生であり,教師の講義を口述筆記させられた。
写本と印刷本との違いは,それが手芸品であるのか工業製品であるかにある。どこが違うかといえば,後者が標準化において徹底していることにある。印刷術はペシア方式をより標準化し,より自動化した方式である。その分,本の個性は失われる。
15世紀半ば,マインツの金属細工師ヨハネス・グーテンベルクは活版印刷を発明したという。その発明は「圧搾運動に関する品々で作られたプレスを利用した新技術」と呼ばれた。この発明の要素技術は「金属活字」「油性インク」「プレス」,それに「紙」であった11)。
グーテンベルクの出版物としては1455年刊行の『四十二行聖書』――通称『グーテンベルク聖書』――が有名である(正しくは,グーテンベルクの債権者の発行であったが)12)。ラテン語で印刷され,刊行数は185部,うち150部は紙に,残りは仔牛皮紙であった。後者は1冊につき170枚の仔牛(こうし)皮紙を要したという。『四十二行聖書』についてみると,各ページは2段組×42行(部分的には40行,41行),活字はゴシック体20ポイントである。
標準化にもどる。それは印刷術の場合,まず,使用言語,判の大きさ,ページのレイアウト,活字の大きさ,装丁など,製品の標準化をも伴った13)。
活字についてみよう。大きさ,書体をそろえなければならない。まずデファクト標準としてゴシック体が,ついでイタリック体,ローマン体が出現した。イタリック体はフランチェスコ・ペトラルカの筆跡,ローマン体はエラスムスの筆跡を模したものという。ペトラルカは写本時代の,エラスムスは印刷本時代のベストセラー作家であった。当時の人には活字よりも手書きの方が美しくみえたという。
文章の書き方についても標準化は不十分であった。語間のスペースもピリオドも,コンマもなかった。
標準化は製造法についても求められ,それは,植字→校正→印刷→製本などの工程に及んだ14)。たとえば,植字工程では,活字棚上の活字の並び方がタイプライターのQWERTY配列のように作業効率に影響した。ただし,それが業界標準になるまでにはいたらなかったようだ。
校正という品質管理についていえば,1631年に英国で発行された欽定(きんてい)訳聖書のなかで,‘not’を落として大事件になったこともある。いわゆる『姦淫(かんいん)聖書』。
つけ加えれば,朝鮮ではグーテンベルク以前の14世紀に,中国ではグーテンベルクと同時代の15世紀に金属活字が開発されたという15)。いずれも続かなかったが,その理由の一つには漢字の数が多いことがあった。
写本時代にもどる。この時代,写本は貴重品であり,つねに紛失のリスクを負っていた。だからか「一葉たりとも奪ったり,切り取ったりする者あらば,呪(のろ)われん」という呪いを書き込んだ写本もある。
対策としてとられた工夫が写本を書見台に鎖でつなぐことであった16)。後世になっての注解だが,スウィフトを引用しつつ,そもそも僧院の図書館担当者が「書物合戦」を避けるために本を鎖でつないだ,というふざけた見解もあった。
問題は,1つの書見台に複数の写本がつながれていたことであり,それらがもつれてしまうということもままあったらしい。
印刷術が発明され,本が量産化されるようになるとともに,読み手の本に対するアクセス法が異なってくる。17世紀になると回転型書見台なるものが出現する17)。水車の羽根に本を1冊ずつ固定し,それを回転しつつ多くの本にアクセスできるような仕掛けである。この装置は16世紀半ばにパリで刊行された『機械のさまざまな工夫』に紹介されている。
15世紀中に印刷本――「揺籃(ようらん)本(インキュナブラ)」と呼ぶ――は約4万点,1点あたりの印刷数は102部のオーダーだったという18)。この時期,神聖ローマ帝国内では4万人の筆写生が職を失ったらしい。とはいいながらも,写本は16世紀にも残っていた。
印刷術が開発されるとともに,本は多様なステークホルダーを生んだ19)。まず,著作者,印刷者,出版社,そして王侯,さらに教会とプロテスタント。同時に,それは体制外の世俗的な人々のかかわるインフラとなった。
印刷本という量産品になったあとでも,それは高価であった。活字一式――1組のフォントあたり活字105本――をそろえること,紙という媒体を入手すること,このいずれにもコストがかかった。この負担を背負ったものが出版事業者ということになる。そこは「タコ部屋兼寄宿舎兼研究所」だったという。
いっぽう,出版物にはつねに反体制的な意味が含まれていた。まず,世俗の人々は教会をバイパスして聖書にアクセスできるようになった。それは『四十二行聖書』で実証済みであった。ついで,教会の禁書目録は,そこに本の需要があることを示した。出版者は「われに26人の鉛の兵隊」あり,と豪語するようになる。「26人の鉛の兵隊」とはアルファベット活字を指す。15世紀末には,ローマ教会,プロテスタント,国王など,どんな権力にとっても本は脅威となった20)。
スウィフトにもどる。21世紀に入った今,スウィフトの思惑は外れたかにみえる。同時に,そのメタファーも。それは
「蜂」→「最初の巨人の肩のうえの小人」
「蜘蛛」→「巨人の肩のうえの小人すべて」
「ウェブ(蜘蛛の巣)」→「人工物」
長いあいだ,拙文にお付き合いいただき,ありがとうございました。この欄の狙いは,変転する情報技術が既存の法制度に与えるきしみを,非専門家としてたどることでした。本欄「情報論議」は2002年より,「コピーライト,そしてコモン・センス」→「情報と規範」→「情報論議 根掘り葉掘り」→「ランダム・ウォーク半世紀」→「レガシー文献・探訪」→「情報論議 根掘り葉掘り」(再度),と看板をかけ変えながら書き継いできました。長期にわたり貴重な誌面を拝借できたのは,読者諸姉兄と「情報管理」編集事務局からの声援があったからです。お礼を申し上げます。
思い返しますと,「情報管理」と最初のお付き合いができたのは1983年でした。このときには「オフィスオートメーションへの展望」と題した拙論を掲載していただきました。
「情報管理」は近日中に休刊のよし。「一巻の書の読み残し」(漱石)という感も残ります。書物合戦の時代は過ぎたということでしょう,か。87歳の呆(ぼ)け老人にとっては往事茫茫(おうじぼうぼう)の感があります。