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この本! おすすめします 図書館で過ごした時間
柴田 元幸
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60 巻 (2017) 5 号 p. 369-371

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OED苦行

これまで図書館で過ごした時間というと,まず思い浮かぶのは,辞書室・参考図書室で辞典や事典を引きまくった時間である。

まずは大学院生時代に,大学図書館の参考図書室にある『Oxford English Dictionary』(OED)と格闘した時間。文学作品を一語一句精緻に読むことの大切さを徹底的にたたき込んでくださった渡辺利雄先生と島田太郎先生の授業の前は,いつも参考室にこもることになった。少しでも意味が怪しい単語があったら,A-Bの巻,今度はN-Poyの巻,次はSole-Szの巻,とOED全13巻を行き来する。OEDは1933年に第1版が完成した,英語辞典の最高峰と誰もが認める辞典で,語源・語義・用例等々すべてにおいていかなる辞典よりも詳しい。難しい単語は記述も短いからいいが,getとかtakeとかを含むフレーズを調べるとなると,何ページも延々続く記述の中から探さないといけない。そもそも一巻一巻が腱鞘炎(けんしょうえん)になりそうなくらい重い。研究というより勉強,勉強というより苦行という感じだった。

1933年に初版が完成した後もオックスフォード大学出版局は改訂に向けて作業を続け,僕が学生だった1970~1980年代にかけて4巻のSupplement(補遺)を刊行した。読んでいる作品が新しければ,こちらにも目を通す必要があった。計17巻。

英米文学の勉強には絶対必要なのだから,自宅でも持っていたいが,もちろんそんな大部の辞書を置くスペースはないし,十数万円するとあっては金額的にも苦しい。だがそこはオックスフォード,スペースも金もない学生のことをちゃんと考えて,13巻を2巻にまとめた縮刷版を出してくれていた。こっちはたしか4万円くらい,なんとか手に届く額だった。ただし縮刷版という名にウソはなく,1ページに9ページ分が詰め込まれていて,肉眼では見えないくらい字が小さい。なので最初から拡大鏡がついている。ときどきめんどくさくなってグググッと目を近づけて肉眼で読もうとしたが,1,2行ならともかくそれ以上読むともう駄目で,こんなことをやっていたらあっというまに失明だと思った。図書館に戻って,肉眼で読めるサイズの活字を再び目にすると,ああ大きい,うれしい,と思ったものである。

1989年,改訂の成果がついに第2版OEDに結実した。全20巻,第1版より各巻が少し薄くなって腱鞘炎の心配も薄れ,印刷技術もずっと向上しているので活字もますます読みやすい。価格は20万円くらいだったと思うが,幸いその頃にはこちらも大学に職を得ていたので,迷わず購入することができた。息子とは違い手先が器用だった父親が,4箱に分かれた専用の収納箱を作ってくれた。

OEDについて,英国のジャーナリスト,サイモン・ウィンチェスターが『博士と狂人』というめっぽう面白い本を書いている。OEDは膨大な量の用例を集めるために,各地の学者やアマチュアから用例を送ってもらったわけだが,とりわけ良質の用例をたくさん送ってくれた人物がいたので,編者は辞書完成後にこの人物に会いに行った。手紙にあった住所にたどり着くと,そこはある種の病院だった……というエピソードがこの本の核を成している。

『博士と狂人』,サイモン・ウィンチェスター著;鈴木主税訳,早川書房,2006年,800円(税別) http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/90306.html

百科事典の一日

さて,大学に職を得て,これでひとまず辞書引きまくり修業ともおさらばか,と思ったらさにあらず。ある年,教養英語の授業の教科書に,ランダムハウス社から出ていた一巻本の百科事典を選んだ(『The Random House Encyclopedia』初版1977年刊)。この画期的な百科事典は,普通どおりABC順に細かい項目が並んでいるページとは別に,いろんなテーマをそれぞれ1ページにまとめたページが全体の半分をなしていた。たとえば産業革命の歴史的背景が1ページでつづられるかと思えば,ロックミュージックの歴史もやはり1ページに要約されている。読み物としても非常に面白い事典だった。その中で,僕も学生も幸福になれそうなテーマのページを選んで,講読の授業に使ったのである。

で,面白いことは面白いのだが,いざ授業で教える側に立ってみると,細かい部分でわからないところがどっさりあることが判明した。そもそも,普段読むときは難易度なんてものはいちいち考えないわけで,そういえばあれ面白かったな,と適当に教材に選んで,後から「レベル間違えた!」と後悔することはしょっちゅうあったが,今回は特に,こっちの無知が露呈するテキストであることが明らかになったのである。1848年ヨーロッパでの革命についても,ビッグバン理論についても,僕は本当に何も知らなかったのだ(今でも知らない)。しかも授業を始めてみると,学生のレベルは異様に高く,「先生,middle classはこの場合『中流階級』より『中間層』と訳す方が適切じゃないでしょうか」とかいった指摘が次々飛んできた。

で,仕方がないからにわか勉強して授業に備えるわけだが,残念ながら英語の辞典を引くだけでは,たとえOEDであっても不十分である。百科事典的な記述について「これを日本語でどういうか」を知るには,やはり日本語の百科事典を見る必要がある。もちろん何十巻にも及ぶ百科事典を買うスペースも財力もない。OED第2版で精一杯である。で,再び図書館に行く。今度は地元の図書館である。小さな図書館でも大型の百科事典がいくつか並んでいたが,数年前に発売された平凡社の『世界大百科事典』が,映画の項を蓮實重彦が書いていたり,博物学の項を荒俣宏が書いていたり,と画期的な事典だということは知っていたので,まずはこれを見る。これを見てわからなければ,小学館その他,ほかの百科事典も見る。事典には,詳しくはこれこれの図書を見よと記してあったりするから,ピンとこないときはそっちも図書館にあれば見る。そんなこんなで,100分の授業をするために,結局毎週,前日は丸一日図書館で過ごす羽目になった。今でも,図書館にいる自分,というものを考えると,まず思い浮かぶのは,近所の図書館で百科事典を何冊も開いて辞書棚の上に並べてメモを取っている自分の姿である。あれはあれで,悪くない時間だった。

文明の粋

ところで,『The Random House Encyclopedia』に限らず,英米では一巻本の百科事典というものに出版社が非常に情熱を注いでいた。特にコロンビア大学出版局が出している『The Columbia Encyclopedia』は,図をほとんど使わず,ひたすらすべてを言葉だけでコンパクトに記述していて,その一冊(といっても5kg弱あるのだが)に文明の粋が凝縮されて収められている気がしたものである。あるいはまた,有名な英語学者David Crystalの編さんしたケンブリッジ大学出版局から出ている一巻本百科事典は,やや小ぶりながら,pachinkoを引くと(→see also yakuza)と大胆な相互参照がなされていて仰天させられた(その後,クリスタル氏に会ったとき聞いてみたら,いやあれは日本人のinformantに言われたことをそのまま書いたんだよ,と涼しい顔で言っていた)。

今は昔

言うまでもなく,こういう話はすべて,今や旧石器時代の話と変わらない昔話になってしまった。OEDはCD-ROM化され,それもほぼ放棄されて現在はオンラインでの利用が中心になっている。百科事典といえば,encyclopediaという言葉よりWikipediaという言葉の方がずっと一般的になっている。そしてWikipediaは,知の切り取り方がかつてのencyclopediaよりはるかに民主的である。『The Random House Encyclopedia』ではロックの歴史が取り上げられているだけで狂喜したものだが,WikipediaならThe Whoのアルバム一枚一枚について詳しい記述が(随所に興味深い逸話も添えられて)項目として設定されている。ハイカルチャーはともかく,ポップカルチャーへの目の行き届き方はかつての百科事典の比ではない。いろんなところで,Wikipediaでは本当の知識は得られない,というたぐいの発言を耳にするが,僕が興味を持つ範囲に限っていえば,たいていの場合非常に充実した内容である。かつての紙の事典を過度に理想化しても仕方ない。もっとも,今のWikipediaの高水準も,かつての一連の百科事典に注がれた知的努力のうえに成り立っていると考えることはそんなに無理ではないと思う。みんなが知識を持ち寄って作る,という発想にしても,OED初版の作り方に通じるものがあるのだ。

とはいえ,すべての知がひたすら民主化されればいいというものではない。少数の専門家集団が集まって作った専門的な辞典や事典も重要である。英語圏文化に関わっている人間であれば,英語圏のどの辞書にも載っていない情報満載の――かつ信頼度抜群の――『リーダーズ英和辞典』『リーダーズ・プラス』(研究社)のような優れた辞書をアップデートしつづけることの必要性はみんな認識している。今後は,採算を取るのは困難だが文化的に重要なこうした事業に関しては,公がサポートするのが当然,という発想が浸透していく必要があると思う。

『リーダーズ英和辞典 第3版』[並装],高橋作太郎編集代表,研究社,2012年,10,000円(税別) http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/978-4-7674-1432-4.html
『リーダーズ・プラス』,松田徳一郎編集代表,研究社,2000年,10,000円(税別) http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/978-4-7674-1435-5.html

執筆者略歴

イラスト:(C)きたむら さとし

  • 柴田 元幸(しばた もとゆき)

米国文学研究者,翻訳家,東京大学名誉教授。文芸誌『MONKEY』編集人。著書に『生半可な学者』(講談社エッセイ賞),『アメリカン・ナルシス』(サントリー学芸賞),『ケンブリッジ・サーカス』など。訳書では,トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞。ポール・オースター,レベッカ・ブラウン,スティーブン・ミルハウザー,リチャード・パワーズなど現代英語圏文学の翻訳紹介の他,「柴田元幸翻訳叢書」シリーズ(スイッチ・パブリッシング)などでは古典英米文学の新訳も多く手がける。1990年代は東京大学教養学部における英語教育改革を佐藤良明教授(当時)らと主導,全学共通の英語テキスト『The Universe of English』シリーズを刊行した。

 
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