「研究不正」は他の法令違反とは異なる原則や特徴を有しているため,「過失」から生じる場合が意外に多く,その対策として各国・地域では研究倫理教育が重視されている。現在,わが国の研究倫理教育は自国や自機関のルールに関するコンプライアンス教育(予防倫理の考え方による教育)が中心であると考えられる。しかし,研究不正の定義や各国・地域の研究公正システムには,各国・地域の国情や,国家イノベーションシステムの違いを反映して,国・地域による多様性が存在する。このような研究倫理における不均一性の存在は,研究活動のグローバル化に伴い研究不正が非意図的に発生するリスクを増大させる。また,研究機関間・研究分野間の移動や研究不正に対する時間的な認識の変化によっても同様のリスクは発生する。したがって,予防倫理による知識教育だけでは,このような非意図的に発生するリスクに十分対応できるのかは疑問であり,若手研究者の育成に当たっては知識に加え,新しい課題や状況に直面したときに適切な行動を選択できる能力を習得することが必要である。このため,博士課程における構造的訓練の実施など,研究倫理教育の指導方法の構造化が必要ではないかと考えられる。
「研究不正(research misconduct)」の低減は,各国・地域が直面する科学技術政策における共通の課題である。科学的知見は元来,国境を越えた普遍的な性格を有し,研究活動も本来,国境を越えたグローバルなものである。しかし,各国・地域の研究不正の実態は,発生量や不正の内容をみる限り,国・地域ごとに特徴がある1)。また,研究不正に対する取り組みも,各国・地域の法令やガイドラインに基づき実施されており,研究倫理(research integrity)の諸原則にはおおむね共通性があるものの,研究不正の定義や各国・地域の研究公正システム(National Research Integrity System: NRIS)には,各国・地域の国情や,国家イノベーションシステム(National Innovation System: NIS)の違いを反映して,国・地域による多様性が存在することが知られている2)。
わが国では,国の科学技術政策の指針となる「第5期科学技術基本計画(2016年1月22日閣議決定)」3)において「研究の公正性の確保」が明記され,科学技術・イノベーション政策の重要な柱となっており,研究不正対策は文部科学省「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」4)(以下,文部科学省ガイドライン)を中心に各省庁のガイドラインに基づき実施されている。文部科学省ガイドラインは,2014年8月に改正され注1),いくつかの点で制度的にも強化されたが,その一つが,「研究倫理教育の実施による研究者倫理の向上」である5)。これにより,以前は「研究の作法」として,研究活動の中で経験的に取り組まれてきた研究倫理教育が,国の制度上も位置づけられたことになる(第2章参照)。
筆者がこれまで取り組んできた研究倫理に関する調査研究や,実際の研究倫理教育の経験を踏まえつつ,主に博士人材を中心とするアーリーステージの研究人材育成に焦点を当てて,わが国の研究公正システムにおける研究倫理教育の役割や課題について,「博士人材の研究公正力」を3回にわたって考察する。第1回(本稿)は,研究不正の現状を整理しつつ,研究活動のグローバル化などに伴い意図せずして発生する研究不正のリスクについて分析し,わが国の研究公正システムにおける研究倫理教育の役割や課題について俯瞰(ふかん)的に考察する。第2回は,「研究倫理教育の対象」をいくつかに類型化し,どのような対象に対していかなる研究倫理教育が求められるかについて考察を深めたい。第3回は,全体のまとめとして,わが国の研究倫理教育の高度化に向けた課題や展望について考えたい。
なお,ここで示された意見や認識は,筆者個人の見解であり,国や所属組織の見解を示すものではないことに留意されたい。
これまでのわが国の研究倫理教育は,研究室における研究活動の中で経験的に習得するのが一般的であったと考えられる。しかし,改正された文部科学省ガイドラインでは,「研究倫理教育の実施による研究者倫理の向上」として,大学等の研究機関に対し,「研究倫理教育責任者」の設置など必要な体制整備や,広く研究活動にかかわる者を対象に定期的に研究倫理教育を実施すること等が明文化された4)。大学には,「学生の研究者倫理に関する規範意識を徹底していくため,学生に対する研究倫理教育の実施を推進」することが求められている5)。研究資金の配分機関に対しては,「競争的資金等の配分により行われる研究活動に参画する全ての研究者に研究倫理教育に関するプログラムを履修させ,研究倫理教育の受講を確実に確認していくこと」を求めている注2)。
そこで,研究倫理の体制整備の状況をみてみると,文部科学省ガイドラインの「平成27年度履行状況調査」の結果によれば,「国立大学の90%が整備済み,残り10%が平成27(2015)年度末までに整備する予定」であり,「研究倫理教育を実施する体制の内容」として,「研究倫理教育責任者の配置(78.5%)」「機関全体の委員会等の設置(45.4%)」「機関全体の事務局の設置(39.4%)」等を回答している6),7)。この状況は,現在,さらに進展していると考えられるので,わが国の研究倫理教育の体制整備は,外形的にはかなり進んできたと考えられ,今後は研究倫理教育の内容を充実させるフェーズに移りつつあるといえるだろう。
こうした状況の中で,研究不正低減の観点から研究倫理教育の効果や有効性について,さまざまな意見があり,その中には,研究倫理教育の実効性に疑問を呈するものもある。
しかしながら,多くの国・地域が,研究倫理教育を研究不正対策の一つの柱として,その充実に力を注いでいる。それは,「研究不正」の場合,他の不正行為とは異なる特性や原則が存在し,罰則の強化だけでは必ずしも十分な効果が期待できない実態の存在が,経験的にわかっているからではないかと考えられる。
わが国の場合,研究不正に対する具体的な罰則としては,たとえば「競争的資金の適正な執行に関する指針」(競争的資金に関する関係府省連絡会申し合わせ)に基づき,競争的資金への応募資格制限等が課せられる。「これらの応募の制限の期間は,不正行為の程度等により,原則,不正があったと認定された年度の翌年度以降2から10年間とする」と明記8)されている。
しかし,わが国で1977年以降2012年10月31日までに発生した114件の事案における被申立人等203名のうち,研究不正等に関する認否に言及した被申立人等94名について,「研究不正等の原因」の自己認識を分析すると,意図的ではない「過失」注3)が原因であるとした者が約3割(30.8%)で,研究不正等の認識があったと答えた者(17.6%)より多いことがわかる9)。自らの行為が研究不正に当たる可能性があるかもしれないという認識自体が乏しい者には,いくら罰則を強化しても,十分な抑止効果が期待できないと考えられる。そこで,研究不正の低減を図るためには,まず,研究倫理教育により研究不正に対する知識の普及と認識レベルの向上を図ることが現実的な対策として求められている。
研究不正が「過失」から生じる場合が意外に多いのは,本人の認識不足等,不注意によるところもあるが,「研究不正」が他の法令違反とは異なる原則や特徴を有していることに起因する側面もある。
元来,「研究不正」とは,当該研究分野において一般に「真正」(真実で正しいこと。本物であること)と見なされる「適正な研究慣行(すなわち,規範)」からの逸脱を示す概念であり,逸脱の内容(不正の種類)や程度(不正の重篤度)などを勘案し,不正の認定が行われる。しかし,実際の研究活動においては,完全に「真正な研究」というものはむしろ少なく,「疑義のある研究行為(Questionable Research Practices: QRP)」が,かなりの割合で存在することが知られている10)。QRPのどこまでを許容し,どこからを「不正」と認定するのかは,国・地域や研究分野により異なり,必ずしも一様ではない1)。すなわち,研究倫理における「不均一性(heterogeneity)」が存在する。
4.1.1 研究活動のグローバル化と国際流動性に伴うリスクこのような研究倫理における「不均一性」の存在は,研究不正が非意図的に発生するリスクを増大させる要因の一つと考えられる。
たとえば,研究活動のグローバル化に伴う問題がある。科学的知見は,元来,国境を越えた普遍性を有しており,各国・地域は研究活動の国際化を推進し,多くの研究者が国境を越えて活動している。一方で,研究不正の諸制度は国・地域ごとに整備され,その原則に共通性はあるものの,研究不正の定義や認定基準,国・地域の研究公正システムにおいては,不均一性が存在する11)。このため,ある国では「不正とまではいえない」行為が,別の国では研究不正と見なされることや,同様の行為に対しても,国・地域により不正の判断や罰則の適用が異なる場合がある。
このようなリスクは一部の専門家の間ではすでに認識され,海外では現実に問題が発生しているようだ。たとえば,外国人ポスドクが研究不正に問われた欧州での事案では,出身国の基準では研究不正に当たらないという倫理観の違いが背景にあったようで,こうしたリスクが現実のものとなっている注4)。したがって,コンプライアンス(法令順守)教育の一環として,自国・地域の規制やルールについて学ぶだけでは「グローバル化時代の研究倫理教育」としては必ずしも十分とはいえない状況が生まれつつあり,今後,国際共同研究の進展や,研究者の国際流動性(international mobility)の増大に伴い,このようなリスクは,ますます高まるものと考えられる。
特に欧州ではEUを中心に,域内での研究協力の拡大や,研究者の流動性を高めるための政策が採用されており,若手も含め多くの研究者が国境を越えて活動している12),13)(図1)。欧州は,研究不正に関して異なるレベルの規制を導入している国々が域内に存在する14)(図2)。このため,研究倫理におけるハーモナイゼーション(国際的な基準やシステム等の調和)への問題意識が比較的早くから存在したと思われる。
たとえば,先行研究では,欧州31か国(EU27か国および欧州自由貿易協定4か国)の「科学の公正さ(scientific integrity)」に関する国レベルの公的なガイダンス文書を収集して系統的な精査・分析を行い,その定義や概念を比較している。その結果,欧州各国間で「科学の公正さ」のガイドラインに「不均一性」が存在し,「混乱状況(confusing situation)」にあると指摘され,欧州レベルでの「研究公正」のハーモナイゼーションが必要であると述べられている11)。この論文の中で,「こうしたガイドラインが見つけにくく,研究者に対してフレームワークを提示できるのか」,また「国際研究プロジェクトにおいて,(各国・地域の)ガイドラインに多様性があり,研究者はどのように協力しあえばよいのか」と疑問が投げかけられている。
研究不正の諸規制が,各国・地域の研究不正の特徴や社会背景の違いに基づき形成されている以上,完全なハーモナイゼーションは難しく,異質性はどうしても残るだろう。したがって,こうした異質性を前提に,それに対処できるだけの行動様式を研究倫理教育として身に付ける必要があると思われる。このような状況の下,欧州では,実際,大学院教育の中で「倫理(ethics)」が必修科目として教えられるのが一般的であることを指摘する専門家もいる注5)。
今日,わが国の博士課程在籍生における約2割は留学生が占め,そのほとんど(約9割)がアジア出身者である15)。このようにわが国はアジアにおける人材育成の拠点となっているが,言語の障壁や文化的な違いなどもあり,わが国でも留学生や外国人研究者による研究不正事案は発生している9)。したがって,わが国で研究活動に従事する留学生や外国人研究者に対しても研究倫理教育が求められている。
一方,わが国の場合,博士課程修了から1年半後の状況をみる限り,海外で活躍する者は5%程度と少ない15)。その点ではこのようなリスクが,まだあまり顕在化しておらず認識されていないのかもしれない。しかし,実際に海外で日本人研究者が研究不正に問われた事案も報告されており,米国研究公正局(ORI: Office of Research Integrity)の研究不正事案公開Webサイト「Misconduct Case Summaries」16)には,日本人と思われる研究者の名前もしばしば掲載されている注6)。このような現状を考えると,グローバル化に対応した研究倫理教育は,今後ますます重要になると考えられる。
研究倫理における不均一性に伴うリスクは,原理的には,研究機関間の移動や研究慣行の異なる研究分野間の移動でも発生する。実際,同じ国・地域の研究機関間でも,程度の差はあるものの,研究不正の認定にある程度違いが生じることは現実的には避けられない。このため,研究者の公平性を担保する観点から,国・地域の研究公正機関が各研究機関の調査結果をレビューまたはチェックする仕組み等を導入している国・地域も多い2)。ただし,わが国には,このような研究機関の研究公正活動を監督(oversight)する国レベルの研究公正機関は存在しない。
なお,研究公正機関というと,研究不正を犯した者を調査する機関というイメージをもつ者が少なくないと思われるが,少なくとも近年先進諸国で整備されているのは,各研究機関が行った調査の適正性(あるいは妥当性)を検証する仕組みであると理解した方が適切なものもある注7)。
また,このようなリスクは,研究者が,研究慣行の異なる分野間で移動(interdisciplinary mobility)する場合や,異分野との研究協力を進めた場合でも起こりうることで,たとえば,ある分野では不正とまでは扱われなかった行為が,別の分野では不正と見なされる,という事象が発生する懸念がある。異分野融合研究や学際研究がますます進展している今日,こうしたリスクも想定した研究倫理教育が必要であると考えられる。
4.1.3 研究不正の時間的変遷に伴うリスク研究不正が「規範」である以上,上述のような空間的・物理的な「移動」だけでなく,時間的にも「変遷」する。すなわち,新たな事案の発生や,それに伴う社会的関心の高まりにより,これまでの規範が見直され,新たな規範が形成されるという性格を有している。
規範は,時代とともに(一般に厳しくなる方向に)変化する傾向があり,過去において不正とまでは見なされなかった行為が,今日の基準に照らせば研究不正と見なされることもある。このため,研究不正の適用基準がより厳しくなったことを知らずに過去の基準で研究活動を続けた場合,研究者自身は適正な研究を行ったつもりでも,「不正(過去の基準での研究実施)」と見なされることがある。
なお,研究不正の事案の調査においては,告発を受けた論文の他,現在の基準に照らして,過去の論文に遡及(そきゅう)して調査が行われることがあり(研究不正の遡及性),その結果,過去の論文の取り下げ等が行われる場合もある。
4.2 「真正な間違い」と「故意性」の問題研究倫理においては,科学活動の特性に照らして,一般に「真正な間違い(honest error)」と「(科学的・学問的な)見解の相違(differences of opinion)」は,研究不正とは見なされない原則がある(研究不正の適用除外)。「真正な間違い」とは,研究活動を適正かつ誠実に取り組む中で生じた間違いのことであり,科学活動の本質や人間の特性に照らして,避けることができないものもある。このため,研究不正の認定においては「故意性(intention)」(言い換えれば,「真正な間違いではない」こと)の立証が争点となる場合が多い。
しかし,現実的な問題として,故意性の立証,あるいは,真正な間違いであるのか否かの証明は,明白な不正事案を除けば一般に難しい。特に,研究が独創的・先端的であるほど,科学的な正当性の説明は,その研究を自ら実施した研究者でなければ難しい場合もある。このため,通常の法令違反では「申し立て」側が不正の立証責任を負うが,研究不正はそれと異なり,申し立てを受けた研究者(被申立人)自身が,自らの研究活動の「公正さ」を立証する責務を負うという考え方が採用されている。
この事実は,不正を告発する側が立証責任を負う通常の法令違反に比べて,研究不正の場合,当該研究者(被申立人)が相対的に弱い立場に置かれていることを意味している。仮に真正な間違いであっても,それが立証できなければ不正と見なされる懸念がある。このため,研究活動においては,意図せぬ申し立てに対しても自らの真正性を証明するため,根拠となるデータや実験ノートの管理が要求される場合が多い。このような現実を踏まえ,「研究者自身が自分を守るため」の教育(防衛的な研究倫理教育)としての研究倫理教育の役割が強調されることがある。
また,近年の傾向として,「研究者としてわきまえるべき基本的な注意義務を著しく怠ったことによる」ずさんな行為がみられた場合(善管注意義務違反),たとえ故意性が認められなくても研究不正と見なす場合が増えている。文部科学省ガイドラインの改定により,わが国でもこの考え方が採用されている。どこまでを不正とするかについては,今後さらなる経験の蓄積が必要であろうが,少なくとも,研究者が意図せずして「研究不正」と見なされる潜在的なリスクは増大していると考えられ,研究倫理教育の役割はますます重要視されている。
近年,わが国では研究倫理教育体制の整備が進み,eラーニングを活用した知識教育やビデオ教材,テキスト等の教材もかなり開発され,その充実が図られてきた。しかし,わが国で普及しつつある「研究倫理教育」,特に大学院生等,アーリーステージの研究者に対する研究倫理教育の実態は,多くの場合,
が中心ではないだろうか。そして,これらの教育の中心は,「研究者(学生を含む)自身」に対する「コンプライアンス」型の研究倫理教育,すなわち,やってはならないことや守るべきことを示す「予防倫理(Preventive Ethics)」注8),7)の考え方が支配的ではないかと考えられる。
あらかじめ教育により,ルール(法令,規制)を順守するために必要な「知識」を与えることで,これらの教育は,以下の役割を果たす。
一般に「予防倫理」教育では,自国・地域や自機関のルールに関するコンプライアンス教育が中心となると考えられるが,上述のとおり,研究不正は本質的に,それだけでは対処することが難しい特性が存在する。実際,研究不正の定義や規制,ルールは各国・地域により一様でない以上,自国・地域や研究機関のルールに関する「知識」を得るだけでは,グローバル化する研究活動に適応する人材育成としては,まだ十分とはいえないし,異分野協力を進める場合でも同様の問題は生じうる。
このため,過去の事案や基本的なルールの知識は確かに不可欠であるが,研究活動が先端的で,革新的であるほど,過去の事案からの知識では適応できない新たなリスクが発生する懸念もあり,研究者が困ったとき,悩んだときに,いつでも気軽に相談できるメンタリングシステムが必要である。こうした整備がないまま,「予防倫理」が行き過ぎると,研究不正のリスク低減のため,ともすると先端的・革新的な研究活動への意欲が萎縮することが懸念される。研究倫理は,本来,研究活動を推進するからこそ必要な研究活動のクオリティー・コントロールであり,「研究あらずば,不正なし」という自己矛盾に陥らないよう十分配慮する必要がある。
今日,研究倫理教育では,必要な「知識」に加えて,新しい課題や状況に直面したときに「適切な行動を選択する能力」の習得が求められているのではないか。また,研究不正の規範的性格から,国・地域や分野,あるいは時代によって違いがある以上,研究倫理教育は一度身に付ければよい「知識教育」というより,継続的・反復的に行われるべき「思考・行動様式のトレーニング」と考えられる。かかる視点から,予防倫理的な教育に対して,優れた意思決定と行動を促すための,よりポジティブな教育として「志向倫理(Aspirational Ethics)」の重要性を指摘する専門家もおり7),試行的な取り組みも始まりつつある。
「志向倫理」については文部科学省の委託調査において,「研究不正の防止にとどまらず,信頼性の高いすぐれた研究成果を産み出すためには,今後の研究倫理教育では『何を守ればよいか』『何に従えばよいか』といった『予防的な視点』だけにとどまらず,『どのように対応すればよいか』を主体的に考える『志向的な視点』を取り入れた取組が今まで以上に求められると考えられる」と指摘されており,それぞれ図3のように整理されている17)。すなわち,研究活動の各局面で,適切な対処行動を主体的に考え,選択する能力を身に付けることであるといえるだろう。
このような状況の中で,大学院教育においては,研究倫理教育の内容だけでなく「やり方」(教育方法)も工夫していく必要があるのではないか,と考えられる。上述のとおり,わが国の大学院における博士課程教育は研究室における研究指導が中心である。研究倫理もこの中で経験的に習得されていくが,研究室における研究倫理指導は,研究指導者の資質や研究室マネジメントに依存するところが大きい。
上述の114件の研究不正事案における被申立人等203名のうち,実行責任を問われた134名について,わが国の研究不正の実態を見ると,被申立人等の役職別割合は教授(31.5%),助教授・准教授(13.8%)が多く,また,研究不正の実行責任が問われた者も,教授(32.8%),助教授・准教授(17.2%)である9)。つまり,学生や若手研究者を指導する立場にある研究指導者(あるいは研究管理者)が研究不正のかなりの部分を占めており,研究指導者に対する研究倫理教育やマネジメント指導が所属機関により徹底されていなければ,学生や若手を含めた研究室の全員が,研究不正を犯すリスクにさらされることになる。また,このような研究指導者の下で指導を受けた人材が他の研究機関に転出することで,本人の自覚がないまま研究不正が他機関に「飛び火」する可能性がある。
具体的な対策として,研究指導者に対する研究倫理教育に力を入れる研究機関も多いと思われるが,それに加えて,博士人材に対する研究倫理の「指導方法の構造化」が必要ではないかと考えられる。すなわち,博士課程教育の中で,研究室内のルールだけを専門教育として習得するのではなく,博士課程カリキュラム全体の中でモジュールとして,段階的に標準化(基準化)された研究倫理教育を実施していく必要があると考えられる。研究指導者の自己基準に基づく研究倫理教育に依存するだけでなく,体系的に研究倫理を身に付けられるような研究倫理教育のやり方が今後,「研究倫理教育の質の管理」として求められるだろう。
欧州諸国では「倫理」教育を,博士課程の「構造的訓練(structural training)」注9)の一つとして教育している13)。構造的訓練の導入割合はEU27か国平均で約50%である。またEUの平均を上回る国が19か国存在する。このうち,ノルウェーを筆頭に研究倫理の歴史が長い北欧諸国や英国等では構造的訓練の実施率が高く,6か国で7割を超えている注10)。
図4は,上記の調査において,博士課程期間中の構造的訓練の内容を示したものである。その内容を見ると,コミュニケーション力やプロジェクト管理能力などの,「移転可能スキル(transferable skills:トランスファラブル・スキル)」注11),18)を中心とする項目が並んでいる。
この中で「倫理」注12)は,他の「移転可能スキル」との並びで構造的訓練の一つとして教育されており,研究者として競争的資金に応募したり,研究提案書を書いたりするために必要な能力である「グラント/プロポーザルの書き方」(18.6%,図4)とほぼ同じ比率で教えられていることがわかる。「倫理」についての教育内容等の詳細についてはわからず,引き続き調査が必要であると考えられるが,少なくとも「倫理」は研究者として身に付けるべき能力として,博士課程のモジュールの中で構造的(あるいは体系的)に教育されているようである。
また,図5に示したように,博士課程教育の構造的訓練のモジュールの中で,「倫理」について教えている比率は,ノルウェー(約50%)を筆頭にスウェーデン,英国,フィンランドで3割以上と高い。すなわち,研究倫理についての伝統や歴史が長い北欧や英国では,博士課程におけるモジュールとして「倫理」を取り入れている比率が高いことを示している。
しかしわが国の大学院における指導は,研究室における研究指導を通じての専門分野の能力習得が中心であり,博士課程在籍者の意識もそこに傾注している。科学技術・学術政策研究所が博士課程在籍者に対して試行的に実施した調査19)でも,「博士課程在籍中に身に付けたい能力」としては,「研究遂行能力」を選んだ者が最も多く,「専門知識・専門能力」「論理的思考力」の順に選択され,たとえば,「業務遂行能力」「マネジメント力」「コミュニケーション力」など,「移転可能スキル」に対する関心は,総じて低いことがみてとれる(図6)。この調査は「倫理」が含まれていないので,詳細な調査は現在実施中であるが,このような意識は研究室中心の教育の方法と深く関係しているのではないかと考えられる。
「研究不正」という語感は,通常「悪い人」が「何らかの意図(故意性)をもって行う違反行為」というイメージを想起させる。そして,研究倫理教育(スポット型の講習)に携わった経験から,「自分は悪いことをしないから研究不正は犯さない」という思い込みが受講者に先験的に存在し,研究不正は自分自身とは距離の遠い事象のようなイメージをもつ者が意外に多いのではないかと思われる。それゆえに実りある研究倫理教育にはつながらないことが危惧される。
しかし実際には,研究不正はその特性から,本人の認識がないまま非意図的に発生する場合もある。文部科学省ガイドラインが求めるように,研究倫理に対する「規範意識を徹底していくため」には,まずは研究倫理教育の受講者自らが研究不正を身近に存在するリスクとしてとらえ,当事者意識をもって学ぶ必要がある。
博士課程は,研究者として生きていくために必要な基本的スキルを専門教育とともに体系的に身に付ける課程である。わが国と異なり,欧米では,研究申請書類の段階から研究倫理が適用されるのが一般的で,研究者として生きていく限り,競争的資金に応募する方法や研究提案書を書く技術と同時に身に付けなければならない基本的なスキルである。
一方,わが国では博士課程を専門分野の研究を学ぶ課程としてとらえており,研究倫理を含む移転可能スキルに対する認識は,意識のうえでいまだ十分浸透しているとはいえない状況にある。こうした状況は,研究室中心の指導方法によるものかもしれない。
研究倫理とは,研究の「質の保証」であり,研究活動のグローバル化や研究者の流動性向上等,今日の研究活動を取り巻く状況を考えれば,コンプライアンス教育として基本的知識を学ぶだけでは,必ずしも十分とはいえない状況にある。非意図的に発生する研究不正のリスクの存在を認識し,「適切な行動を選択する能力」を学ぶための継続的・反復的トレーニングが必要ではないかと考えられる。そのためには,研究指導者による倫理教育の徹底や単発的な倫理研修に加えて,倫理教育をモジュールとして構造化して教育していく努力も,研究者育成の「質の保証」の観点から今後,必要となるのではないかと考える。
科学技術・学術政策研究所 第1調査研究グループ総括上席研究官。専門は科学技術政策。研究倫理,人材問題,イノベーションシステム等に特に関心がある。