2017 年 60 巻 7 号 p. 522-525
今回は老人の戯言(たわごと)。老人の特権は過去のあれこれの雑念を集積していることにある。そうした雑念の集積の一つとして,さまざまな未来予測がある。それらを列挙してみたい。
私は闇市焼け跡派の世代である。少年の未来予測は単純なものであった。つぎのハレー彗星(すいせい)の接近を自分は見ることができるだろうか。
ハレー彗星が76年ごとに地球を周回するという予測は,英国のエドモンド・ハレーが1705年に発表し,その予測は繰り返し確認されてきた1)。
私はまだ生まれてはいなかったが,1910年の接近のときには,地球は彗星の尾に入り,そこに含まれる有毒ガスによって人類は窒息死するという流言飛語が飛び交ったという。
少年の私にとって,次回の地球接近時は1986年と予想されていた。いっぽう,当時の日本人の平均寿命は男50.06歳,女53.96歳(いずれも1947年)2)であり,少年の願望は実現しないはずであった。それがなんと実現した。彗星の運行は予測どおりであったが,日本人の平均寿命が大幅に増加し,私もその恩恵を受けたためであった(ただし,1986年のハレー彗星は予想外に暗かった)。
作家のマーク・トウェインはいった。
「私はハレー彗星が空に掛かる頃この世に生まれた。だから私は,ハレー彗星と共に旅立つのだ」
この言い方,なにやら星占い的な臭いがしますね。
18世紀末,英国の経済学者ロバート・マルサスは『人口論』を発表した。それは杓子定規な未来予測であった。
「人口は幾何級数的に増大するが,食糧は算術級数的にしか増加しない。……結果として,人間は幸福と窮乏とのあいだを永久に往復する」
この主張は,ヒトの未来予測がヒト自身とその環境との相互作用にかかわると示すものでもあった。
識者によれば,マルサスの主張は誤っていた3)という。現に,マルサス以後も地球上の人口は増大しつつあるから。注記すれば,『人口論』が刊行されたとき,世界人口は約10億であった。
20世紀後半,先進国ではあらゆる分野にわたり成長が続いた。未来予測についても,なんの疑義もなく,成長モデルが提案された。
成長モデルといえば,たとえば,科学史家デレック・プライスの『リトルサイエンス・ビッグサイエンス』4)がある。原著の刊行は1963年である。ここで著者は科学にかかわるさまざまな指標を時系列に示している。それらはいずれも増大の傾向をもっており,その傾向を彼は「倍増期間」という指標で整理している。その一部を引用しておこう。
多くの指標は縦軸に半対数目盛りを振って図表化すると,時間とともに直線的に右肩上がりとなる。この環境のなかで,デレック・プライスは研究者数とその母集団である人口の増大傾向に注意をうながしている。
学士号の倍増期間は15年,いっぽう人口の倍増期間は50年。とすれば,いずれは地球上のすべてのヒトが研究者となり,このときには,つぎのような未来が出現するはずだ。
「男,女,イヌ1匹について,科学者2人となる日が近い」(引用者注,イヌはご愛敬)
これはいつ実現するのか。1世紀以内だろう。これがデレック・プライスのご託宣。かれは科学者が生き残ればそれでよし,といった楽観的な発想をもっているかのようだ。
成長は安定して続くのであろうか。これに疑義を示す未来予測が1970年代以降に出現した。その一つに,核物理学者ラルフ・ラップの『対数グラフの時代:図説エネルギーの未来』5)がある。
彼はその未来予測を1972年に発表した。彼も半対数グラフを使った。ただし,グラフ上に1970年以前の成長傾向をプロットしただけではなく,その傾向を1970年以後に外挿した。
ここで扱われた成長の指数はエネルギー関連のものであり,人口,電力の消費量,自動車の登録台数,研究開発費,兵器の破壊力などにわたっていた。
ラップの主張は各章の見出しをたどれば理解できる。それは「交通地獄」「大燃焼」「殺到する消費者」「知識の爆発」と続く。つまり,ラップの真意は過去の成長の問題点を指摘しつつ,そのうえで,近未来のエネルギー需要に関する予測を示すことにあった。
彼は1970年以降の成長は鈍化するが,それが停滞するとまではいっていない。ただし,富裕国と貧困国とにおける成長の格差はそのまま残るだろう,と指摘している。
『対数グラフの時代:図説エネルギーの未来』はその冒頭に作家サミュエル・バトラーの次の言葉を反語的に引用している。
「あらゆる進歩は,身分不相応に暮したいと願う人間,(その)だれもが生まれながらに持っている普遍的な欲望によるものである」
バトラーは『エレホン』というユートピア小説――実はディストピア小説?――を書いている。架空の国「エレホン(Erewhon)」は‘Nowhere’のアナグラムである。この引用はラップが自らの予測の結論に不満足だったことを示しているともみえる。その終章にはマルサスが引用されている。
1972年,ローマ・クラブは『成長の限界』6)という報告を出版した。ローマ・クラブは人類に対する脅威――環境破壊,貧困,天然資源の枯渇化など――を回避するために設けられた篤志の民間団体であった。
『成長の限界』はマルサスの発想を全地球的に拡張した。それは,急成長する世界人口を有限な地球が支えることができるか,を論じたものであった。
まず,世界の構造を人口,工業生産,食糧,天然資源,汚染などが相互に作用を及ぼしあうシステムであると仮定し,その時間的な構造変化を過去から未来へと外挿した。その作業はシステム・ダイナミクスというシミュレーション手法によって実行された。
結果は悲観的なものとなった。それは,21世紀中には,地球上の人口増が食料不足,天然資源の枯渇,環境汚染によって制約されるだろう,と示していた。
『成長の限界』が発表され,すでに半世紀弱を経た。一方には人口増と資本不足に悩む貧困国があり,他方には汚染増と資源不足に悩む富裕国が現れている。予測は当たった。
ローマ・クラブは最後に提案する。われわれは社会の目標を成長から均衡へと方向転換しなければならない。そして強調する。この方向転換のためには,政治的,道徳的な決意が不可欠である。
政治的,道徳的な決意とはなにか。『成長の限界』は終章に哲学者バートランド・ラッセルの言葉を引用して閉じる。
「技術進歩によって瓶の生産性を2倍に上げたとしよう。ここでなすべきことは,需要を超えた瓶を作ることではなく,瓶工場の労働時間を半減することである」(要旨)
この主張はどんな人工物に対しても拡張できるはずである。
1980年代後半,終末論的未来予測の一つとして,地球温暖化に関する説が発表された。問題となった人工物は二酸化炭素であった。この人工物の制御を目指して「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC: Intergovernmental Panel on Climate Change)が設立されたのは1988年であった7)。
未来予測を知ったヒトは,その予測を危機管理のシグナルとして受け取るだろう。地球温暖化問題はその典型的な例となった。問題は,国際社会がIPCCの予測結果をよしとして共有できるか否かにかかっていた。
IPCCでは,二酸化炭素による地球環境の汚染が課題になった。地球温暖化は産業革命とともに始まった現象であるが,これに社会が気づくまでに多くの年月がかかり,それを科学的に実証するためにはさらなる年月を費やしてきた。
このような不確実性があるためか,IPCCの『第1次報告』(1990年発行)は,その冒頭において,「科学的知見」として,「我々は以下のことを確信する」と表現するにとどめている。
IPCCは,地球温暖化論の説得力を高めるために,多角的な視点から,複数のシナリオを設定し,そのうえでシミュレーションを実施している8)。たとえば,経済優先的か環境保全的か,あるいは,国際化指向か自国優先か,など。
にもかかわらず,その後の経緯をみると,この課題に対する社会の反応は,とくに国際的な合意は,一進一退している。ここでは気候変動枠組条約締約国会議(Conference of the Parties: COP)をめぐり,多様な試行錯誤が繰り返されている。
じつは未来予測には禁忌があることを,地球温暖化問題は示している。ここでは人間活動による二酸化炭素の排出量の削減を論じているにもかかわらず,その第一原因となる人口増の抑制については触れていない。
なぜか。それは私たちの社会の禁忌にかかわるから。すでに地球上に生存しているヒトについて,その長寿命化や出産数の抑制を求めることはできないだろう。ここにローマ・クラブの示した政治的,道徳的な決意の意味がある。
話がそれるが,1960年代にガイヤ仮説という世界観が示されていた。それは,地球にはホメオスタシス――恒温動物のように定常状態を維持できる能力――という特性がある,という見解であった9)。主張者は学際的な研究者ジェームズ・ラブロックであった。
この仮説は「ガイヤ」――ギリシャの女神――などという人文的な命名法が理系の研究者には嫌われ,反科学論の一つとして扱われてしまった。じつは,ガイヤ仮説の予測期間が10億年のオーダーであるのに対して,地球温暖化のそれは100年のオーダーにすぎなかった。
対象を技術分野にかぎる未来予測は20世紀以降,数多く発表されてきた。その代表的な例に,レイ・カーツワイルのシンギュラリティー論10)がある。
この理論の骨子はつぎのようになっている。第1に,ヒトは有機物と無機物とから構成される。前者は生物体としての部分,後者は人工物つまり技術的な道具――IT機器など――としての部分である。第2に,前者は算術級数的に成長するのみであるが,後者は幾何級数的に成長する。したがって第3に,未来のある時点で,有機的な身体――とくに脳――は無機的な人工物によって代替される。この代替はヒトの脳をAIに接続することで実現する。
カーツワイルはこの代替の実現する点を「シンギュラリティー」と呼び,それが2045年に生じると予測している。カーツワイルはこの時点まで生き延びるために,毎日200錠以上の栄養補給剤を服用しているという。
シンギュラリティー論の各論の一つとして,2050年には拡張現実(Augmented Reality: AR)が眼球に組み込める,という予測11)も出ている。
ここでは技術と資本との成長がヒト自身のそれに優越することになる。とすれば,この論はヒトの社会にとっては禁忌破壊的な意味をもつことになるだろう。
17世紀英国の文人トーマス・ブラウンは次の箴言(しんげん)12)を残した。
「予言は,それが歴史になったときに,注視せよ」
この予言についての箴言は,予測にたいする教訓にもなりうるだろう。予言は神からのメッセージであり,予測はヒトによるメッセージではあるが。