2017 年 60 巻 8 号 p. 583-588
インターネットという情報の巨大な伝送装置を得,おびただしい量の情報に囲まれることになった現代。実体をもつものの価値や実在するもの同士の交流のありようにも,これまで世界が経験したことのない変化が訪れている。本連載では哲学,デジタル・デバイド,サイバーフィジカルなどの諸観点からこのテーマをとらえることを試みたい。「情報」の本質を再定義し,情報を送ることや受けることの意味,情報を伝える「言葉」の役割や受け手としてのリテラシーについて再考する。
第6回は,インフォメーションからインテリジェンスをつくり出すための「分析」に的を絞り,分析が失敗する原因にも着眼しながら,広がりゆくインテリジェンス研究の実際を追う。
「情報屋(情報サイド)」としての自分の仕事は,「インフォメーション」を収集・分析し,「判断・行動のために必要な知識」つまり「インテリジェンス」をつくり出すというものであり,その仕事そのものが半ば人生のようでもあった。外務省や内閣官房では「判断・行動」とは要するに「政策を立案し,執行する」ということになるから,それを担当する「政策サイド」の下支えをしてきたことになる。舞台は欧州,アジア,米国,アフリカと目まぐるしく変わったが,やっていることの本質は何一つ変わりない。
さて本稿では,「インフォメーション」から「インテリジェンス」をつくり出すための「分析」に焦点を当てて,「インテリジェンス研究(Intelligence Study)」における最先端を,できる限り平易に解説してみたい。
「インフォメーション」の収集と分析,その「どちらが大変か」と聞かれても,一概に「こちら」とはいえない。
外国でほっかむりをして,当局の目を気にしながら,下町で怪しげな連中からインフォメーションを収集するなど,収集には危険が伴うこともあるが,分析にそれはない。
しかし収集された「インフォメーション」を並べて,ひたすら考え,付き合わせ,レポートの形で一歩ずつ「判断・行動のために必要」な形に,つまり「インテリジェンス」に仕上げていくことは,精神的な苦しさでは収集と似たようなもの,いや,それどころか,時に収集を超えた苦しみさえある。
作家の開高健氏が「書くということは野原を断崖のように歩くことだろうと思う」といっているが,それと似ている面がある。一見平坦に見える土地(平凡にみえる情報)も,細心の注意を払い,ひたすら分析していくことで,そこに潜む山や崖,時には落とし穴などを発見することがある。
情報世界の同業者,特にメディア関係者と話すと,よく「真実は,どこかにある。それを知っている人からうまくインフォメーションをとることができれば,分析など必要ない」といわれる。
「回答がただ一つ,すでに存在している」場合は,そのものズバリの「インフォメーション」を入手できれば,それが「インテリジェンス」になるので,それで解決である(インテリジェンスの世界では「単純問題」という)1)。「行方不明の大統領はいまだ生きているのか」「この国の経済の実情は何か(公式な統計数字が平然と改ざんされている国の場合)」「テロの実行犯は誰なのか」などがそれに当たる。
そこは「足で稼ぐ」世界であり,時には危険を冒しつつも,ひたすら「インフォメーション」の収集に努めればよいのである。つまり「回答がただ一つ」の場合,「インテリジェンス」をつくり出すための分析は,重要ではない。
3.2 分析が重要なケースしかし「回答が複数」になった瞬間に,このアプローチは通用しなくなる(インテリジェンスの世界では「不確定問題」という)2)。「大統領の後継者は誰か」「この国の現体制は,いつ崩壊するか」「次のテロの標的はどこか」などがそれに当たる。
最初の2つには,「すでに存在している,ただ一つの回答」はない。テロの標的に関しては,テロ組織が狙いをつけているターゲットがあるかもしれない。しかしそこが本当に攻撃されるかどうかは最後までわからない。次の標的は,周囲の警備の状況や人の集まり具合などから総合的に判断してテロリストが決めるのであり,最終段階で攻撃を止めたり,標的を変更したりする可能性もある。つまり当のテロリスト自身にも,本当にそこを攻撃するかどうかは最後までわからないのだ。
このような問題に直面した瞬間に,インフォメーションの「分析」は重要になる。
インテリジェンスの研究家,リチャード・ホイヤーは「インテリジェンス活動の失敗(インテリジェンス・フェイリャー:Intelligence Failure)は,分析の失敗によるものの方が,収集の失敗によるものより多い」と述べた3)。
では分析における失敗は,いかにして起こるのか。原因は種々あるのだが,本稿では代表的なものを3つ紹介することとしたい。
4.2 失敗の原因 その1 ルビンの壺図1に,「ルビンの壺」といわれるものを示した。
一見すると黒い壺に見えるが,白い部分に注目すると,2人の人物の横顔が向かい合っているようにも見えてくる。
レポートの結論に「これは『壺』かもしれないし『人物の横顔』かもしれません」と書いたら,それは「インテリジェンス」ではない。
「判断・行動」に役立つレポートにするためには,最低限「現時点では『壺』である可能性の方が高いです」とか,「今後事態がこのように推移した場合には,『人物の横顔』になる可能性が高くなります」くらいまではいわないと,そのレポートは「インテリジェンス」たりえないのだ。
読み違いを恐れ,安全運転をし過ぎると「インテリジェンス」はつくれない。逆に思い切った運転をし過ぎても,出来上がった「インテリジェンス」は読み違ったものとなってしまう。つまり「インテリジェンス・フェイリャー」が起こってしまうのだ。
ゆえに分析官は,2種類の運転の間を,うまくギリギリいっぱいですり抜けることを迫られる。要するに分析というのは,本質的に危うい(ヤバい)作業なのである。
危うく,困難な仕事であればこそ,失敗は起きやすい。つまりこれが,失敗が起こる第一の原因だ。
第二の原因,「インテリジェンスの政治化(politicization)」は,既述の「ルビンの壺」と深く関わっている。
つまり「壺」か「人物の横顔」かという紙一重のところで悩む分析官に,「政策サイド」の誰かが「(政府の高官や,企業の上司は)『壺』だったらさぞ喜ぶでしょうね」とか,「『人物の横顔』だったら,さぞがっかりするでしょうね」と耳打ちしたとしよう。
どれほどプロ意識の強い分析官でも,何らかの影響を受けざるをえない。
「分析」はもともと紙一重の危うい作業である以上,「政策サイド」の耳打ちという「一突き」で,分析官の受ける影響はなおさらのものとなる。それによって「インテリジェンス」の結論は,大きく一方に傾いてしまうのだ。
分析を誤ると,分析官が怒られる程度では話が済まなくなる。最悪の場合,国家や企業は政策や戦略を大きく誤り,国益や企業益が大きく損なわれる,という事態を招いてしまう。
だからこそ「情報サイド」と「政策サイド」は峻別(しゅんべつ)しなければならないのである。
しかしここでまた,難しい問題がもちあがる。「政策サイド」の関心を引かない「インテリジェンス」をいくらつくっても,それは「政策サイド」の「判断・行動」につながらず,それは「インテリジェンス」の名にそもそも値しないということだ。要するに「情報サイド」と「政策サイド」は,峻別されつつもつながっていなければならないのである。
この「禅問答」のような世界を実現し,維持することを「インテリジェンス・サイクル」4)(図2)という。
「政策サイド」が「このようなインテリジェンスが欲しい」という要求(リクワイアメント:requirement)を「情報サイド」に伝達し,「情報サイド」がそれに見合うインテリジェンスを生産して「政策サイド」に配布する。これだけのものだが,これがなかなかうまく回転しないのが現実だ。
政府でも企業でも,大いに試行錯誤が必要なサイクルなのである注1)。
分析官が(というか人間は誰でも)自覚していない,最も厄介な問題が3つ目である。
「ルビンの壺」に戻ると,「『壺』か『人物の横顔』か」という問題に直面したときに,何と,分析官は,収集されたインフォメーションを付き合わせながら,結論を徐々に出すわけではないのである。意外に思われるかもしれないが,分析官は(というか人間は誰でも)最初に結論を出してしまうのである。たとえば,まず「壺だ」という結論を出し,インフォメーションを付き合わせながら,それを 徐々に修正するのである。
これを「修正のヒューリスティクス(Adjustment Heuristics。正確には単数だが,煩雑になるのでカタカナの表記に合わせる)」という。
この,「先に結論を出してから徐々に修正する」ことは,われわれが生きていくうえで大変重要なものだ。これによっていちいち最初から考える必要がなく,瞬時に取りあえずの結論を出すことができるからだ。後は許される時間内で,徐々にその結論を修正していけばよい。
たとえばオフィスにいるあなたに,判断するまでの時間・1時間が与えられたとしよう。仕事の世界では,状況は容易に変わりうる。15分ほどたって,「状況が変わりました。あと5分で決めてください」ということにもなりかねない。
しかし「修正のヒューリスティクス」のおかげで,あなたは慌てる必要がない。すでに「取りあえずの結論」を出しているからだ。
結論を修正する時間が,45分から5分へと短縮されただけの話なのである。
もっと極端な話をすると,瞬時の決断の遅れが命取りになることさえある。実際「『修正のヒューリスティクス』があったからこそ人類は生き延びた」という人もいるほどなのだ。
4.4.1 「修正のヒューリスティクス」の落とし穴しかしこの「修正のヒューリスティクス」には,深刻な落とし穴が2つ潜んでいる。そしてどちらも,分析官が(というか人間は誰でも)自覚していないことが多い,大変厄介な落とし穴である。
第一の落とし穴は,あなたが出した「取りあえずの結論」は,「取りあえず」のはずなのに,容易に崩れなくなってしまうことだ。
わずかな数のインフォメーションで出来上がった「取りあえずの結論」は,それと同じ数の,「取りあえずの結論」を否定するインフォメーションをぶつけても壊れない。場合によっては何と10倍ものインフォメーションをぶつけないと壊れないのである。これを「アンカリング(anchoring)」という(「取りあえずの結論」が錨(いかり)(アンカー)になってしまうことから)5)。
第二の落とし穴は,人間(分析官も人間だ)が「修正のヒューリスティクス」によって出した,取りあえずの結論をサポートするインフォメーションばかりを,無意識に探してしまいがちだ,というものだ。これを「自己正当化の罠(わな)(confirming evidence trap)」という6)。
4.4.2 無意識ゆえに厄介な「修正のヒューリスティクス」「アンカリング」,そして「自己正当化の罠」実は解決策はある。「修正のヒューリスティクス」は無意識に発動されるから,その「無意識」を意識すればよい,という方法である。「取りあえずの結論」と反対の結論も念頭に置いて,むしろそちらをサポートするインフォメーションを積極的に収集することだ。
そして,「取りあえずの結論」の根拠をよく考えてみることも有益である。「取りあえず」だから,ほとんどの場合,根拠は結構薄弱である。
このように処理して初めて,「取りあえず『壺』」という結論を出したものの,「『人物の横顔』という結論も捨てたものじゃないな……」とか,「『壺』にはあまり根拠がないから気をつけよう」など,バランスをとるための思考が可能になる。
そうしてこそ,無意識の世界が意識され,「修正のヒューリスティクス」の落とし穴を乗り越えることが可能になるのだ。
かつて歴史的観点からの研究が主流だった「インテリジェンス研究」は,今や心理学,統計学などさまざまな分野の研究成果を取り込みつつ,広大な領域へと広がりをみせている。
その中で「分析」という分野は,国家安全保障の領域を超えて,企業の経営者の「意思決定(decision making)の研究」という形で,ビジネスの世界でも重視されるようになってきた。
かつて中国の戦略家の孫子は「彼を知って,自分を知れば,百戦して危うからず」といった。
これからの時代にインテリジェンスを活用していくためのキーワードは「自分を知る」である。
ビジネスの世界でいえば,「彼」,つまりライバル社のインフォメーションさえ収集・分析していればよかったかつての時代は,とうの昔に終わりを告げている。突然,業界違いの企業や,地球の反対側の企業が殴り込みをかけてくる,といったことが起きる時代だからこそ,「彼(ライバル社)を知る」から「自分(自社)を知る」への変化が重要なのだ。
自社の弱点や強みをしっかりと分析することができて初めて,未来志向の戦略に役立つインテリジェンスがつくれる時代になったのだ。
このアプローチは,草の根のテロリストが平然と牙をむいてくる時代の,国家における対テロ戦略でも最も重要になりつつある。
本稿で強調したとおり,分析を担当する分析官もまた「自分を知る」ことで自らの無意識を意識しなければならない。
自国や自社という広い「自分」から進んで,個人の領域にまで思い切って入り込み,分析官という「自分」までをもしっかりと知ることが肝心なのである。
1956年東京都生まれ。東京大学法学部卒。オックスフォード大学修士取得。英国,米国,バングラデシュ,フィンランド,エチオピアに勤務し,現在,在タジキスタン日本国大使館,特命全権大使(初代)。国内では外務省国際情報課長,内閣情報調査室内閣衛星情報センター総務課長,国立情報学研究所教授,政策研究大学院大学教授などを歴任。インテリジェンス関連の著書多数。日本のインテリジェンス研究の先駆けである。