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「情報」とはなにか 第7回 ■情報×遊戯性:創造博物館のアトラクション的手法から考える
長谷川 一
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60 巻 (2017) 9 号 p. 651-654

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著者抄録

インターネットという情報の巨大な伝送装置を得,おびただしい量の情報に囲まれることになった現代。実体をもつものの価値や実在するもの同士の交流のありようにも,これまで世界が経験したことのない変化が訪れている。本連載では哲学,デジタル・デバイド,サイバーフィジカルなどの諸観点からこのテーマをとらえることを試みたい。「情報」の本質を再定義し,情報を送ることや受けることの意味,情報を伝える「言葉」の役割や受け手としてのリテラシーについて再考する。

第7回は,情報が日用品の一つといえるほど当たり前となった今,米国の「創造博物館」を例に「遊戯性」という観点から,社会における情報のありようを解説する。

本稿の著作権は著者が保持する。

情報コモディティ化社会と「遊戯」

「情報」という言葉は,20世紀後半から21世紀の初めごろまで,少なくとも日本語世界においては,それなりにきらびやかな色彩を帯びていた。この言葉は,やりとりされる記号やその意味,それらを交換するコミュニケーション行為,その行為を支えるテクノロジー,あるいはそうしたテクノロジーを核とする社会や人間の様態にいたるまで,さまざまな文脈で幅広くつかわれてきた。そしてそのいずれにおいても,「未来」を予感させるようなイメージと,社会のあり方をつくり変えようという志向をともなって語られてきた。

しかし21世紀に入って20年近くたとうとする現在,「情報」という言葉からはそうした輝きは失われてしまっているように見える。もちろんそれは情報という概念が重要でなくなったためではなく,あえて言いたてる必要もないほど「あたりまえ」になったからだ。

それは,かつてはめざすべき目標と考えられていた「情報化社会」が(まがりなりにも)実現された姿ともいえる。それは同時に,情報が日々消費されてゆくコモディティ(日用品)と化し,情報を語ることに特別な価値を見いだしにくくなることでもあった。そして,いざ実現した「情報化社会」のなかでぼくたちは,かつてないほど多様なコミュニケーション手段と利便性を手にするとともに,どこにも逃げ場のない閉塞(へいそく)感をも味わっているだろう。

情報がコモディティ化した社会のあり方の一端を,本稿では「遊戯」という観点から読み解いてみたい。「遊戯」といってもビデオゲームのような特定のジャンルのことではない。情報をめぐる諸行為のあらゆる瞬間に遊戯性を見いだそうとしている。

創造博物館

創造博物館(Creation Museum)という施設が米国ケンタッキー州にある注1)。ぼくがいま住んでいるミシガン州アナーバー市から南南西へ約265マイル(約427km),州間高速道路を走ること5時間ほどの距離だ。

同館が扱うのは「創造論」にかんする展示である。運営するのはアンサーズ・イン・ジェネシスというキリスト教団体で,主宰者ケン・ハムはオーストラリア生まれの宗教活動家だ。

創造論とは,おおまかにいえば,世界は神が最初の6日間で創造したというような旧約聖書『創世記』の記述を文字どおり受けとり,歴史的事実とする見解をさす。当然ながら近代科学の知見や思想とは相容れない。周囲の大学関係者たちも一様に,あれは特殊だからね,という。しかし米国全体で見ると,創造論は白人保守層を中心に一定の規模で受け入れられているらしい。じっさいぼくが現地で見た来館者の大半は白人で,家族づれも多かった。入館料は税別で大人30ドル,アーク・エンカウンター(Ark Encounter)という姉妹施設(ノアの箱舟を実物大でまるごと再現したのだそうで,ここも興味深かった)との複合チケット60ドル,プラネタリウム7.95ドルである。

順路にしたがって歩いてゆくと,ベルトコンベア式につぎつぎと展示室があらわれる。化石の存在やグランドキャニオンを形成したような侵食作用といった自然科学的諸事実を直接否定するわけではなく,近代科学とは異なる「もうひとつの(オルタナティブな)」解釈として神学的説明が可能なのだと主張する。

全体をゆっくり見ると2~3時間はかかる。さいごにあらわれるショップでは,Tシャツやマグカップなどとならび,創造論の教科書やDVDセットなどが販売されていた。ぼくは同館の図録を買うことにした。カラー印刷だが薄っぺらな小冊子で,価格は1ドル。満面の笑みをうかべたレジの白人女性が,愉しんでもらえたかしら? と訊く。もちろんです,とぼくは答えた。

空疎な内容とパネル展示

ミュージアムをメディアと考えたばあい,創造博物館における展示の様態は,情報コモディティ化社会のあり方を戯画的な形で示しているようにおもわれる。その特徴をひと言でいえば「空疎な内容,洗練された手法」である。

「空疎な内容」は端的に,展示の核となるような実物が見られない点にあらわれている。歴史的にも実際においても,ミュージアムはなんらかの実物コレクションを展示の核としてきた。同館にも恐竜の化石の全身骨格などの実物が展示され,目玉として大きく扱われてはいる。だが,なぜ恐竜なのかという必然性はほぼまったく見えない。

核となる実物の不在を覆い隠すかのように館内で目につくのは,説明パネルの多さである。通常パネルは,展示物の背景情報を提示して理解を深めるためにつかわれる。しかし同館では論理構制が転倒しており,逆に来館者を創造論の世界観に包摂しようとしている。それは結論が先にあるタイプの言説であり,事実を創造論の世界観に整合するよう解釈しようとする。その解釈を教えこむためにパネル展示が多用されているのだ。それがめざすのは「説得」,つまり来館者の考えや態度を変更させることにある。

だが一般に,パネルによる説明は展示に不可欠ではあるものの,あまり洗練された手法とはいえない。説明が多くなれば,たとえ親和性の高い客層であったとしても,見る者はふつう退屈するし,ましてその主眼が説得にあるのなら逆に訝(いぶか)しがられてしまう。しかし同館は2007年の開館以来累計250万人以上の来場者を集めることに成功し,満足度も高いという。それを支えているのは,そのきわめて洗練されたもうひとつの手法,体験型のアトラクションである。

アトラクション的手法

創造博物館におけるアトラクション的手法は,要所に配置された巨大なジオラマ仕立ての展示に見られる。ノアの箱舟の建造風景を再現する展示では「箱舟」の内部に入ることができる。悩みなど存在しない世界だったというアダムとイブの最初の楽園や,堕落したカインがアベルを殺す場面などもジオラマだ。それらを見てまわるさまは,東京ディズニーシーのライド系アトラクション「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」を想起させなくもない。ジオラマに立つ人形の一部はオーディオ・アニマトロニクス――動きと音声が連動するよう制御された精巧なロボット――である。まさにテーマパークそのものだ。じじつ同館の展示は,フロリダのユニバーサルスタジオでアトラクション・デザインを担当した人物によって設計されている。

こうした洗練されたアトラクション的手法は近年各所で用いられているが,じつは多くのばあい,それは従来的な意味での「展示」をめざしてはいない。なぜなら展示をめぐる一般的な関係の成立を必ずしも要件としていないからだ。

ある者が何かを提示し,別の誰かがそれを眺める。そうした展示における一般的な関係において,来館者はときに冷静な観察者となりうるし,批判的思考の芽が育まれる余地もある。これにたいしアトラクション的手法は,来館者に事物をじっくり観察させる代わりに,みずからの世界に巻きこもうとする。状況に没入した来館者は,観察や説明をとおして何かを論理的に理解するというよりも,身体を媒介して状況を経験する。まるで『創世記』の現場にいあわせたかのような臨場感を得るのだ。「からだ」をとおして得た経験は,「あたま」で得た理解よりもしばしば強力であり,効用は小さくない。他方で,状況に没入した者が全体を見渡すことはむずかしいため,ともすれば批判的思考を遠ざけてしまう。

すなわち,アトラクション的手法においては,論理でもって来館者を「説得」しようという態度は後退している。代わりに,創造論の世界を体験させて強い印象を与え,その経験をとおして創造論に漠然と「好意」をいだいてもらうことで,ゆるやかに包摂してゆく。それが創造博物館の展示実践戦略だといえる。

テクノロジー・遊戯・両義性

アトラクション型の展示においては,コミュニケーションをめぐって従来広く受け入れられてきた主従の図式――言うべき内容がまず先にあり,それを表現・伝達するための手段として情報テクノロジーがある――が反転し,これまで従と考えられてきた手法やテクノロジーこそが前面にせり出している。アトラクション的手法は,すべての来館者につねに同じように当該場面を再現してみせる必要があるため,情報テクノロジー抜きでは成立しないからだ。ここに顕在しているのは,ルーマンらの思想が論じてきたような意味でのコミュニケーション図式である。

テクノロジーとならんでアトラクション的手法に不可欠なものがもうひとつある。来館者の身体である。ベンヤミンが述べたように,テクノロジーが身体と呼応して運動するとき,そこに遊戯性が立ち上がる。この遊戯性こそが,アトラクション的手法がもたらす体験に比類なき力を与えるものだ。遊んでいるときは誰だって愉しいのだから。

では遊戯とは何か。それは自己以外の外部に目的をもたない行為をいう。鬼ごっこはその行為を遂行・継続するために遂行されるのであって,それ以外の別の目的のためではない。だから創造博物館に見られるように,アトラクション的手法は,内容が空疎であればあるほど卓越してゆく。

ただし遊戯性においてもっとも重要なポイントは別にある。両義性を宿していることだ。ウィトゲンシュタインが示唆したように,遊戯とは,既存の秩序を強化・再生産するだけでなく,同時にあらたな別の遊戯を生みだしうる契機を含んでいる。

つまり,こういうことだ。創造博物館の展示は,それがアトラクション的であるがゆえに,来る者をその世界観へゆるやかに包摂するべく機能するだろう。だが同時に,それが遊戯性を含有するかぎり,拒絶や否定ではなくむしろ愉しむことをとおして,その世界観や戦略にたいする根源的な批判的思考へたどりつく余地も,かすかといえども含まれているにちがいない。

ならば,この閉塞した社会においてもまた。

執筆者略歴

  • 長谷川 一(はせがわ はじめ)

明治学院大学教授,ミシガン大学客員研究員。博士(学際情報学)。専門はメディア論,メディア思想,文化社会学。東京大学大学院学際情報学府博士課程満期退学。著書『アトラクションの日常: 踊る機械と身体』(河出書房新社),『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか: テクノロジーと身体の遊戯』(慶應義塾大学出版会),『大学生のためのメディアリテラシー・トレーニング』(共編著,三省堂)他。

本文の注
注1)  創造博物館 (Creation Museum):https://creationmuseum.org 本文中の同館にかんする具体的情報も同Webサイトによる。

 
© 2017 The Author(s)
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