土木史研究
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冨士川雁堤と徳川幕府初期の治世への影響
高橋 彌
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キーワード: 治水, 特殊堤, 開発効果
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1990 年 10 巻 p. 25-32

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抄録

日本3大急流の一つに数えられる富士川の下流部は、1500年代までは左岸岩本山下から東に向かって流れ、現在の田子の浦港方向に乱流し、扇状地を形成していた。しかし、1621(元和元)年から1674(延宝2)年まで、実に53年の年月を要して、総延長約3, 000mに及ぶ大堤防が建設された。この堤防によって富士川東流は岩本山と水神の森間で締切られ、流れは現流路方向で固定された。工事は古郡氏3代にわたる執念とも言うべき努力と洪水観察を含む当時の最新土木工事の成果であり、雁堤として現存し、逆L字の特異な形状で知られている。
この成果は富士川左岸一帯の地域を洪水から守り、加島平野として豊かな田園地帯とする事を可能にした。これはまた、誕生間もない徳川幕府が全国支配のため企画した重要施策実現の一環となった。本工事完成により可能になった施策と影響は次の通りである
第一に元和偃武、即ち、武士帰農の一助になり、多くの入植者を迎え入れることができ加島新田6, 000石の開発が可能となり、新旧37ケ村が栄えた。第二は、富士川の流路が定まることにより、東海道の「富士川の渡し」が定着し、幕府体制下の交通網の整備が可能となった。
第三として、甲府や、諏訪、松本と言った内陸とも、富士川の船運を開発することにより交易が盛んになり、幕府財政を支えると同時に地域の経済発展をもたらす事になった。
一方、自然の流れを強固な左岸築堤で締切った結果、対岸には洪水流れが流入し易くなり、しばしば右岸蒲原町方面に氾濫が繰り返し発生するようになった。
雁堤はこれまで特異な形状と、治水面の効果のみが評価されていたが、本研究の結果、周辺地域に大きな影響を与えたと同時に、当時の日本の社会体制や経済を支えるうえに極めて重要な役割を果たしていたことが明かになった。

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