山尾庸三は明治21(1888)年臨時建築局総裁に就き,既に閣議決定されていたエンデ&ベックマンの計画を変更し,新たな官庁集中計画を策定した.この計画は,現在の中央官庁街の原型を与えたものとして知られ,都市計画史上,重要な意味を持つ.しかし,既往研究は少なく,計画に至る経緯や計画の実態には不明な点が多く残されていた.本研究では,これまで未発見の山尾の計画図の写しなど,幾つかの新史料を提示し,主に次のような事実を明らかにした.1) 山尾はエンデ&ベックマンに書簡を送り,建築予算額を遵守するため,計画の変更も辞さない覚悟であることを通告した.2) 山尾は計画において,地質良好な官有地になるべく多くの官省を配置するなど,経費削減を強く意識したが,バロック都市計画的な西欧の流儀で首都を飾ることも忘れなかった.