抄録
Ⅰ.はじめに
1961年の島田療育園(1992年島田療育センターに名称変更)開設から54年。重症心身障害児施設の誕生には、重症心身障害児者(以下、重症児)の命を守ることと重症児を抱えている家族の救済の目的があった。家族から重症児を預かり、医療で生命を見守りながら個別的な成長発達を促し、豊かな生活を送ってもらうという大きなこの事業は、重症児者の「長命」「楽しい生活」と「人としての尊厳」で捉えれば目的はかなり高いところまで到達できているといえる。そして、施設に家庭療育困難で重症児の我が子を託した家族は、家族の安寧と自立を取り戻したはずである。そして、私たちの重症児看護もこの歴史の中で育まれてきた。
当センターの看護のあゆみを振り返りながら、重症児看護が何を力としてきたかを明らかにし、今後、重症児看護の果たすべき方向性を示す。
Ⅱ.重症児看護の始まりは小児看護から
開設当時は利用者が児だったこともあり、診療の補助、病児の看護、健康管理や看取り、基本的生活支援、成長発達支援、療養環境の管理など、まさに小児科看護であった。創設者の小林提樹先生は重症児の食べること、眠ること、排泄すること、清潔を保つこと、そしていつも手足暖かきことを大切にされていた。そして、当センターははじめから医療施設であったから、小林先生を頼って医療的に重症な重症児が集まっていたといわれている。その看取りも大事な仕事であった。まだ、重症児施設の専門職の規定もなかったから、看護師、保育士、看護助手が洗濯から衣類作成、遊びなどなんでもやる療育であった。筋緊張の高い児に対するマッサージや歩行訓練など、暗中模索の中でどこまでが看護かと考える余地も無かったが、その中で初代の総婦長はリハビリ職の必要性をすでに感じていた。
Ⅲ.リハビリテーションから得たもの
当センターは1974年に小林先生が退職され、1981年に藤永数江先生が院長になり、1983年にはリハビリテーション科を立ち上げている。多くのリハビリ職員が採用され、病棟での訓練が日常になった。その結果、筋緊張緩和や変形拘縮予防、ポジショニングや摂食嚥下指導など専門家の視点が入り、利用者の生活が大きく変わっていった。と同時に日常生活援助をしている看護師の介助技術も大きく進歩することになった。ベッドサイドでの勉強会やリハビリ連絡会、症例検討も盛んに行われ、その後、呼吸リハビリや摂食嚥下指導などにおいて医師、看護師、リハビリ職員との連携がはかられ現在に至っている。
これらの連携から、またはリハビリ職員がこつこつと重症児の可能性を追求している姿から、まさに「療育」の意味を私たちの看護ケアにしっかりと取り込むことができたといえる。
Ⅳ.重症児の加齢と医療化
1970年代に世の中の新生児医療は進んだが、島田療育園では1986年の25周年誌に人工呼吸器使用者1名、気管切開者3名、胃瘻管2名、経鼻経管4名、酸素使用者2名の記録がある。これらは、すべて小児の病棟であった。1990年に入るとすぐ平均年齢30歳台を超えた成人病棟にも点滴や吸引、導尿など医療処置が増えていった。繰り返す誤嚥性肺炎、尿路感染症などから、気管切開、呼吸器装着、間欠的導尿、経管栄養などが日常生活の中に入り込んできた。医療処置が増えたばかりではなく、医療処置を受ける以前の細やかな観察と早め早めの対応が必要な準超重症児が増えたことでもある。1992年からケアのスコア計算で超重症児加算が診療報酬上に乗った。このような中で看護は、食物形態の見直しをSTや医師と検討しつつ、摂食機能に合わせた介助方法を身につけていった。それだけでなく苦痛少なく生きるには、経口摂取だけがすべてではないことを、家族や他の職員とともに納得して行った。無理な経口摂取で身体に負担をかけるよりは経管栄養に切り替えて、重症児から合併症をさけ健康に生きることの支援を看護自身が受け入れることになった。そして、食べる楽しみの代わりに、何をどのように支援し豊かに生きてもらうことになるかが課題となった。
施設は医療設備を整備し看護師が増員された。重症児の身体の特徴を踏まえた安全で確実な医療を提供するために、看護基準や手順を整備し、看護教育システムを構築し、看護師の知識技術の獲得を進めてきた。
さらに当センターでは、2006年より感染管理認定看護師を置いて、職員の標準予防策の指導や療養環境を整え、感染症の予防と管理に役立っている。当センターでは発熱者の数は減少してはいないが、抗菌剤の使用が毎年減少して治療期間が短縮されている。
当然のことであるが、重症児の一人ひとりに向き合った栄養管理や排痰援助など医師や看護師の医療的ケアや療育職の日常生活援助の質的向上と、感染予防策の指導や管理がともに絡まりあって、重症児の感染症を減らし健康な状態を維持できているといえる。結果、重症児の長命につながった。
Ⅴ.小児看護から重症児看護へ
小児の病棟は早くから医療棟としての位置づけがされていたが、生活主体の成人病棟を医療もできる体制にするにはいくつもの課題があった。酸素、吸引などのパイピングや医療機器の購入などのハード面もさることながら、療育職員の意識改革も重要であった。それでも業務の変更やマニュアル作りを進める中で、「医療を受けることはその人の生きる条件」という当たり前のことが明確となった。医療を受けて楽に生きる、それまでの、その方の、その人らしさを失わないように生活を維持することが、看護師と療育職員の共通の目標となり得た。そこで、年齢の高い重症児の医療と生活の共存に介護福祉士の持つ生活の視点が重要となり採用を進めた。看護師も病院の看護をそのまま定着させるのではなく、看護職が療育の中の役割を十分に果たすことが重要であること、とともに他職種の役割を意識することの重要性にも気付いた。「看護が何をどのように援助すれば生活が豊かになるか?」という視点は協働連携する療育にとってはとても大事なポイントである。
役割分担と協働体制でかつ、看護師も療育職員も同じケアの方向性を持つことが大切だと、両者で使える記録様式を検討し、当センターでは2003年よりKOMIシステム(KOMI理論で展開する記録様式)が導入され今に至っている。
Ⅵ.療育は多職種との協働と連携で
1967年の児童福祉法の改正にて、重症心身障害児施設が法に基づく施設として位置付けられた。児童福祉法第43条の4に「重症心身障害児施設とは、重度の精神薄弱および重度の肢体不自由が重複している児童を入所させ、これを保護するとともに、治療および日常生活の指導をすることを目的とする施設とする。」とある。ここから医療と福祉が統合され、病院機能だけではできない個別に対応した生活、楽しい生活、持つ力を引き出す関わり、教育の保障など、一人ひとりの可能性を期待する施設の目的が明確になった。さらに1974年からは直接処遇職員(看護師、保育士、児童指導員)の配置基準が1対1以上となり今に至っている。生活の中の医療ケアが増えることで看護師が増えれば、逆に療育職の割合は減ることになる。ともすれば医療が増えたことで豊かな生活が危うくなり、重症児施設の本来の目的から外れてしまう。それを避けるにはお互いの役割の重なる部分を大きく共有する必要が出てくる。看護職は医療的責任を果たしつつ療養上の世話の部分をも担い、療育職は生活支援であっても医療的配慮を持ちながら重症児の気持ちのよい身体や生活に責任を果たすことである。できる範囲で看護の目や手を委譲し、ともに重症児の笑顔を共有することができる。そうして重症児療育という重症児の生涯にわたる健康と幸せの追求がなされていくのであろう。2006年から障害者の法律も変わり、今や重症心身障害児施設は医療型障害児入所施設と療養介護事業所と二本立ての名称に変わったが、重症心身障害児施設としての医療と福祉が共に提供される形態や児者一貫性は継続されている。そのため専門医療を担う医療職員と福祉職員とが、障害特性やそれぞれの世代に応じた豊かな生活支援を行う協働と連携はさらに必要不可欠のものとなっている。
これからの児者一貫は子どもの処遇と大人の処遇が同じでよいということではないだろう。いまや、児から高齢期までを含むすべてのライフステージを対象とする看護なのであるから、看護としては児の時代には個別性を考慮しつつ様々な刺激を感覚受容できるように育み、痛みや安楽を表現できるように支援したい。小さなコミュニケーション力であっても、成人してからは自分の意思で自分の生活を決定できることが望ましい。児の発達支援の到達目標に向かって支援し、者の時代には児の時代に持ち得た個性を大いに使ってもらいながら豊かな人生を送り、穏やかな人生の終焉を迎えられるように支援することが求められている。最近は障害者の意思決定支援を進める時代である。このように重症児看護においては福祉社会の流れを汲み取り対応する力も必要であり、もちろん肝心な医療を高める役割も怠らずに果たしていきたいものである。
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