日本重症心身障害学会誌
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市民公開講演 シンポジウム:インクルーシブな地域の創生
市民公開講演 シンポジウム:インクルーシブな地域の創生
阪本 文雄
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2020 年 45 巻 1 号 p. 85-89

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抄録

阪本座長 岡山県で障害児の施設ケアが始まったのは戦後間もない昭和20年代です。昭和32年、社会福祉法人旭川荘が身体障害児施設・旭川療育園、知的障害児施設・旭川学園、旭川乳児院の3施設を開設。外科医の川﨑祐宣氏が理事長になり、整形外科医の堀川龍一氏が療育園長、小児科医の江草安彦氏が学園長になった。医師が医療の世界から福祉の世界へ入り施設長になり、理事長になった。川崎病院長だった川﨑先生は往診で何回か在宅の障害児を診療した。「この子らに医療の光を」と思い立ち、旭川荘を開設、医療と福祉が一体となった医療福祉を提唱、堀川、江草医師らがその実践を始めた。昭和42年、重症児施設・旭川児童院が開設され、岡山県での重症児の施設ケアが始まった。中四国で初の施設だった。この施設の開設にボランティアとして募金活動の先頭に立ったのが黒住教の黒住宗晴名誉教主です。「重症児に学ぶ」と題してお話しいただきます。 重症児に学ぶ 黒住教 黒住 宗晴 昭和40年(1965)4月から9月末までの半年間、私は若い人たちと共に「中・四国を対象に重症心身障がい児の施設を造ろう」というキャンペーンをいたしました。これは、その前年の暮近く、旭川荘の江草安彦先生から一人の身で三重四重の重い障がいを持つ子どもさんたちのことを教えられ、「旭川荘にこの子どもさん方のための施設を造ろうではないか」と熱く訴えられてのことでした。旭川荘は、岡山市内で大病院に成長した川崎病院の川﨑祐宣先生が、この病院では治療もお世話もできない障がいを持った人たちのための、医療と福祉の総合施設を目指して創設された社会福祉法人です。昭和32年、旭川荘は知的障がい児と身体障がい児そして乳児院の3つの施設からスタートしました。これらの施設を土台に、重症児施設を造ろうとされた江草先生でした。私どもは重症児を持つ3人のお母さん方の勇気ある協力を得て、そのお子さん方の生活ぶりを写真に撮り映画を作ることができました。重症児のありのままがフィルムに収められた写真、また映画は、多くの人たちの心をゆさぶり、放っておけないの思いをかき立てました。中・四国の主要な街角での日曜祭日ごとの街頭募金をはじめ、その頃まだ手植えが多かった田植えなどのアルバイトをしたり、備前焼作家や画家の作品、宗教者の書などをご寄贈いただいてのいわゆるチャリティーオークションを開催したり、あらゆる手立てを尽くして問題を訴え募金につとめました。地元岡山に本社のある山陽新聞社は、この年8月末、社告を出して重症児のための施設づくりの重要性を呼びかけ始め、この力強いキャンペーン記事のおかげで昭和42年4月、旭川荘の中に「旭川児童院」として結実したのでした。 以来、私は親しくなった3人のお母さんとお子さん方から尊いことを教えられてきました。昔から目の不自由な人は勘がよい、とか言いますが、彼ら彼女たちには、肉体的な機能が働いていない分、心の奥深いところの働きは鋭敏で、私たちが到底かなわないものがありました。映画班と最初に訪ねた岡山県北に住むM家のY君(当時14歳)は、難産のため鉗子(かんし)でもって生み出され、そのために脳に深く大きな傷がついて生まれ出ました。目もうつろ、半身は全く機能しないまま、食事も三度々々、お母さんの口移しで食していました。Y君が3歳のときお父さんは自ら命を断ってしまい、その直後、お母さんはY君を抱いて冬近い県北の河の中に入っていきました。「お父さんのところへ一緒に往こう……」とつぶやきながらも、せめて最後にわが子の顔を抱き上げたとき、Y君の両眼はらんらんと輝き、今まで見せたことのない目つきでお母さんをみつめ続けていました。お母さんは初めてとんでもないことをしようとしていた自分に気づき、あわてて河原に這い上がりそこで初めて泣き伏す中でY君に詫(わ)びたのでした。Rさんの息子M君は、幼い頃に日本脳炎に罹(かか)り一命は取り止めましたが、厳しい身体状態になりました。彼は34歳で腎臓の病で亡くなりましたが、家族の見つめる中でお医者さんがご臨終ですと告げたとき、両眼をかっと開き今まで見せたことのない眼差(まなざ)しで、母親の肩越しに見下ろす弟N君の両眼を見据えて「おふくろを頼む、おふくろを頼む」と告げ続けました。N君の「分かった。分かったちゃ」と叫ぶ声に、その意味の分からない家族はうろたえるばかりでした。ほどなく眼を閉じ息を引き取ったM君が弟N君へ声なき声で訴えた遺言への、「分かった」という返事であったことに改めて涙した家族でした。このように、宗教者の一人としての私には、格別尊いことを教えてくれた3人の母親とお子さん方でした。 阪本座長 今、黒住名誉教主の話の背景にあるのは、岡山県の施設ケアは昭和20年代から始まり、30年代に入り旭川荘の堀川先生らが在宅児への取り組みとして県内を巡回して相談診療を実施。親たちの意識が少しずつ変わり、支援してきた愛育委員らも声を上げ、障害児の施設への全入運動が起こり、重度児も受け入れてほしいという量と質の両面で施設の対応を望むようになった。つまり、地域社会の問題として取り上げられ、お母さんたちが覚悟を決めて我が子の姿を世に訴え、重症児施設の開設へつながった。 黒住名誉教主 家の中で必死に養育していた母親、すべてはお母さんにかかっていました。大変な苦労でした。働きに行けないし家計の負担も大きい。「施設を」というニーズは悲痛な叫びでもありました。開設時、江草院長は「命を守る」―これを繰り返し言われました。重症児の施設ケアが軌道に乗ると「療育によるADLの確立」を目指した。「生きる」に変わったのです。川﨑理事長が示した「医療福祉」はまさに重症児の施設ケアそのものだった。医療の力で命を守り、福祉の力も加わって生活の基本動作である食事をし排泄しということが可能になっていく。 阪本座長 黒住名誉教主さん、貴重なお話ありがとうございました。次は重症児の親の立場でNPO法人ゆずり葉の会の佐藤恵美子さんに話していただきます。 重症児が生涯を地域の中で安心して暮らすために NPO法人ゆずり葉の会 佐藤恵美子 私の娘が生まれた昭和30年代は、今日のように物が満ち溢れた、社会情勢ではありませんでした。高度成長期で人々も自分の生活に追われる時代でした。1歳を少し過ぎた頃、風邪気味だった娘が突然高熱を出し、小さな体を全身震わせてひきつけをおこしました。私はなすすべもなく、ただ傍らでおろおろするばかりでした。大きな病院で診てもらおうと思い大学病院に連れて行きいろいろと検査をしていただきました。数日後の結果を聞きに来るときは一人で来ないようにと先生に言われましたが、そのときは先生の言われた意味が理解できませんでした。先生から「お母さん本当にお気の毒ですが、お宅のお子さんは脳性小児麻痺という病気にかかっています。今の医学では、ここに何億もの大金を積まれても、治して上げるわけにはいきません。たぶん20歳までは生きられないでしょう。風邪を引いても命を落とすことになるかもしれません大事にみてあげて下さい」と言われました。 私は、目の前が真っ暗になり、深い谷底に墜ちていくようで、涙が止めどもなく流れ後のことは何も判りません。何処をどのようにして家に帰ったのかもわからず、気が付くと娘を抱いて畳の上で泣き崩れていました。途方に暮れ、頭のなかは死ぬことだけで一杯になりました。家の中を整理し、娘に晴着を着せて、高梁に出張中だった主人に会いに汽車に乗り向かいました。主人は驚いた様子でしたが、ここでは話ができないので臥牛山の猿を放し飼いしてある自然公園に行こうと言い行きました、そこで娘の病気のことやこれから先のことを考え死ぬしかないと思い此処に来たと話しました。傍らの娘にアイスクリームを食べさせていたら、何処からともなく一匹の猿が現れ娘の持っていたアイスクリームを取って逃げました。娘はそれを見て今までにない大声を上げて笑いました。そのとき私はハッとし「この子は何も判らないことはない、こんなに喜んでいる娘を連れて死ぬわけにはいかない、死ぬのは何時でも死ねる」と思い直すことができました。 あくる日から、私と娘の戦いが始まりました。大学病院の先生はあんなに言われたが、他の病院に行けば治るかもしれないと思い、あらゆる病院を巡り、主人の給料はほとんど病院代に消えていきました。どんなことをしてでも治してやらなければと一生懸命でした。しかし良くなることはありませんでした。ある日、大学病院の廊下で泣きながら診察を待っていると、女医さんが声を掛けて下さり旭川荘の話をしてくれました。早速翌日バスに乗り向かいました。旭川荘は人里離れた非常に寂しい所にありました。そこで子どもたちが障害を持ちながらも一生懸命に前向きに生きている姿に接し、目から鱗の落ちる思いがし、娘と一緒に頑張ろうと元気が湧いてきました。毎日母子通園をすることにしました。悩みを同じくする友だちも大勢できました。通園するので、車の免許も取りました。 (以降はPDFを参照ください)

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