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社会学評論
Vol. 56 (2005-2006) No. 3 P 727-744

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http://doi.org/10.4057/jsr.56.727


集合的記憶への社会学的分析は, 記憶が集合的アイデンティティ形成の資源とされてきた姿を明らかにすることに, その批判的意義があると考えられている.しかし他方で, こうした分析がその分析対象である現実における集合的アイデンティティ形成の動きへと寄与していってしまう事態が, 問題として指摘されてもいる.
おそらくこうした事態は, 集合的記憶への社会学的分析の根本的前提そのものを再検討する必要性をつよく示唆しているものと考えられる.すなわち, 記憶というものをある形で概念化することを通じて成立している社会学のあり方それじたいを, 検討することが必要となるのである.そして本稿ではその検討の場を, 19世紀末から20世紀前半にかけてのW I トマスがアメリカ合衆国の移民問題と接触するなかで行った議論とその変容に求める.
実際そこに確認できるのは, 当初は遣伝概念と結びついていた記憶概念が, この結合を支えていた状況の消失とともに, 文化や伝統, 言語を具体的拠り所として新たな概念化をこうむり, それと相即して生物学から明確に区別された狭義の社会学的議論が合衆国において自律していく過程である.この結果として現れるのは, 一方で合衆国への移民の強制的同化の動きに対して移民の記憶を根拠にして批判しつつ, 他方で同化のために移民の記憶へと積極的に働きかけていく技術的装置としての位置づけをも担っていく, 社会学の姿である.

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