紙パ技協誌
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総説・資料
日本の製紙産業の技術開発史
第5回 一貫工場の建設と原木開発
飯田 清昭
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2016 年 70 巻 3 号 p. 293-302

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抄録

木曽,富士山麓の針葉樹を原料として紙を生産する一貫工場(GP,SPと抄紙機)のモデルを作り上げた裏には,明治政府が国有林の伐採権を払い下げた(多分財源のため)ことがある。そして,19世紀末から静岡県を中心に一貫工場が建設され,SP,GPの輸入生産設備も大型化していった。その過程で,先に紹介した第2世代の技術者群が活躍,ノウハウを自分たちで積み上げていったことが,次の発展を可能にした。
増大し続ける需要により内地の原木が不足すると,より豊富な北海道に工場を建設する。王子製紙苫小牧工場や富士製紙江別工場で,これで日本は国際競争力を持つ規模の工場をもち,以後輸入紙を国産紙に置き換えていった。
国内の需要は年率10%で増加し続ける中で,次の原木供給地として樺太が注目され,開発に勢いが付く。それを進めたのが,三井物産の調査を引き継いだ王子製紙と,大川平三郎の富士製紙であった。大川はクラフトパルプを導入し,包装紙生産で利益を上げた。1938年では,パルプ生産量の40%が樺太,35%が北海道,25%が内地であった。1942年には,樺太におけるパルプ生産設備能力42万1千トン,抄紙機能力21万3千トン,パルプの半分が内地に送られた。
戦後は,この樺太なしで,製紙産業が再スタートしたが,これはまた別のテーマである。

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© 2016 紙パルプ技術協会
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