2024 年 26 巻 p. 31-49
博士学位を授与する大学院という既存の養成ルートを経ない実務家教員の登用は,古典的な専門職としての大学教員のあり方に変容を促す契機になりうるものである。そうした変容の兆候の有無を探るべく,本稿は,実務家教員を目指す人たちの属性と,その人たちが抱いている大学教員の仕事に対するイメージを,質問紙調査によって検討した。分析の結果,調査時点において実務家教員を目指す人たちの1つの典型像は,「バブル崩壊前に学生時代を過ごしてから就職し,長期不況に直面しながらも,社会的経済的地位の観点では一定の成果を挙げた高学歴の男性」というものであり,教育志向が強いということが明らかになった。大学教員の仕事に対するイメージは多岐に渡るが,本稿が持つ問題意識という観点から見て特筆するべき知見は,教育と研究の専門職である大学教員が持つべき教育能力が大学院において如何に育まれ,教育現場でどのように成長しているのかという問いが,実務家教員を目指す人たちから投げかけられているということである。
The institutionalization of professors of practice (individuals who acquired knowledge and experience related to their area of expertise in the business world and possess educational abilities appropriate for university education) who are appointed as university faculty members without going through the existing training route of obtaining a doctoral degree could help change the status of the professional roles of university faculty members. In order to investigate whether there is scope for such a transformation, this paper examines the attributes of those who aspire to become professors of practice and their perspectives of the role and responsibilities of university professors. A questionnaire survey was conducted with the alumni of a training program for professors of practice, and some of these graduates were employed by universities as professors of practice. The analysis revealed that a key typical attribute of those who aspired to become professors of practice at the time of the survey was “well-educated men who had completed their schooling before the burst of the bubble economy and started working, and those who had achieved a certain level of social and economic success despite the long-term recession.” This indicated their strong educational orientation, which emphasized education over research. Although the image of university faculty members’ work among those who want to be professors of practice is diverse, important questions raised by the participants in this study include how the educational competencies that university faculty members, as professionals in teaching and research, should possess are developed in graduate school and how those abilities transform in the field of university education.
本稿は,大学が設置する実務家教員養成課程を経て実務家教員を目指す人たちの属性と,その人たちが大学教員の仕事についてイメージしている内容を,明らかにするものである。
「実務家教員」の定義には様々なものがあるが,実務家教員が大学教員としての資格を持つことが明示されたとされる1985年改正の大学設置基準(松野2019,川山2021a)と,後述する2001年改正の大学設置基準を参考に,「専攻分野に関連する知識や経験を実業界で培い,大学教育を担うのにふさわしい教育上の能力を持つ人」と定義しておく。実業界とは,学界以外の各界という意味である。ただしこの定義は大学教員を念頭に置いた,言わば狭義の定義である。実業界で培った知識等を活かした教育職一般という幅広な定義を採用すれば,例えば企業の研修講師等も実務家教員に含まれることになる。実務家教員の定義は複数ありうるが,本稿では大学教員としての実務家教員を念頭に置いて課題を論じていく。
1.2 実務家教員登用政策に潜在する課題大学の実務家教員は,定義上,実務的な知識や経験を持つだけでは要件を満たさない。豊富な実務経験を積んだとしても,そのことが大学教育を担うのに相応しい教育上の能力の保有証明になるとは限らない。ゆえに,豊富な実務経験を基盤として,大学教育を担うのに相応しい教育上の能力を養成し,その成果を証明する仕組み,すなわち実務家教員養成のあり方が問われるはずである。
そもそも大学教員は古典的な専門職の1つであり,専門職は,大学制度を抜きに語ることはできない。専門職は高度な知識体系を基盤に成り立っているとすれば,その知識体系を構築する合法的制度が大学にほかならない(新堀1984)。
そして専門職性の度合いは,資格試験制度と高等教育システムが確立しているかどうか,すなわち当該職業集団の身分的統合と「質」・「量」の養成ルートが整備されているかどうかにより測られる(橋本2008)。大学教員は,博士学位を授与する大学院で独自に養成・再生産されることで,専門職としての要件の1つを満たすことになる。
古典的な専門職としての大学教員の養成の仕組みを念頭におくと,1985年の大学設置基準改正は,大学教員の専門職性の度合い,すなわち大学教授職のあり方に変化を及ぼす契機になりえたものである。大学設置基準が定めるところの教授の資格に,「専攻分野について,特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」が追加され,博士学位を持たない社会人が大学教員になる道が制度的に明示された(松野2019,川山2021a)のである1。
その後,臨時教育審議会第二次答申(1986年)において大学におけるリカレント教育の推進が謳われ,第三次答申(1987年)で社会人や外国人の教員任用を拡大するような提言が行われるなど,リカレント教育の推進や教員の適格条件の弾力化の中で,実務家教員は制度として規定され,採用者数は増加していった(吉岡2020)と考えられている。
教員の適格条件の弾力化はさらに進んでいく。大学設置基準は教員に「教育研究上の能力」を持つことを求めていたが,2001年の改正により「研究」という言葉が消えて,「教育上の能力」を持つべきこととされた。この改正は,大学が教育機関であることの宣言であるとも言えるし,「規制緩和」「弾力化」という時代の流れに乗った措置とも解釈できる(加野2008)。研究上の能力が全く不要という訳ではないが必須ではなくなっている(前掲書)2。
他方,大学院では,専門職大学院という新たな仕組みが2003年に創設され,実務家教員を一定の割合で採用することが求められるようになった3。
このように大学教員の適格条件の弾力化が進み,実務家教員が規定され,採用推進の動きが少なくとも法令レベルでは生じたのであるが,これらの経緯の発端である1985年の大学設置基準の改正時において,実務家教員の任用が取り沙汰されることはなかった(川山2021a)。その後も長らくの間,実務家教員を組織的に養成しようとする機運が生じることはほとんどなかった。一部の専門職団体が実務家教員養成に向けた試みを始めてはいたものの(妹尾2008),総じて言えば実務家教員の教育能力の養成はOJTで行われることが多かったようである(妹尾2006)。実業界で仕事経験を積んだ人という意味での社会人が大学教員を目指すにあたり,博士学位の取得が推奨される(中野2013,鷲田2017,松野2019)事実は,最近まで変わっていない。博士学位を授与する大学院を経由して大学教員に採用されるという従来のルートが堅持されており,従来のルートを経由しないで実務家教員に採用される新たなルートが確立しないという状況が続いていた。実務家教員の登用が進むのに応じて,大学院を中心とする大学教員の養成ルートの一般性が後退する可能性が問われてもおかしくなかったが,そうした問いが積極的に提起されるということはなかった。
こうした状況に変化をもたらしたのは,「大学における工学系教育の在り方に関する検討委員会」(2017年,以下「検討委員会」)と,中央教育審議会大学分科会制度・教育改革ワーキンググループ(2017~2018年,以下WG)である。「検討委員会」が工学系教育を改革する方策の1つとして,実務家教員の採用を容易にするべきとの提言などを打ち出して,これを受けたWGが,工学分野を特例とする大学設置基準の改正に関する議論を始めた。WGにおける議論では,大学設置基準の改正はあくまでも工学分野を特例として扱う例外的なものであるということが,繰り返し確認されていた(WG(第12回,第13回)議事録)。
他方,WGはリカレント教育の推進というテーマに関する議論も進めていた。その議論において,実務家教員をリカレント教育の担い手の1人として位置付けて,実務家教員の質・量という両面における拡充を検討している。リカレント教育とは,多様なニーズに応じた社会人の学び直し(WG(第14回)議事録)を主に指すものであり,その対象は,前段落で述べた工学分野に限定されるものではない。
リカレント教育を担う実務家教員の登用に関する議論の中に,社会人が現場の実務的知識を持っているということと,学生を教育できるということは別次元であり,教育ができる人でないと専任の教員になり得ないのではないかという指摘があった(濱名2021)。文部科学省は,リカレント教育を進めるには実践的な教育の担い手が必要だとして,実務家教員を対象とする研修プログラムを開発して質の高い実務家教員を確保するとともに,研修プログラム修了者の情報を登録してリカレント教育を円滑に実施する取り組みを検討してはどうかと述べている(WG(第14回)議事録)。博士学位を授与する大学院を経由して大学教員に採用されるという従来のルートとは別の,実業界と学界を繋ぎ大学教員を実業界から採用することを可能とする新たなルートが構築される機運を,ここに見出すことができる。
その後,実務家教員を巡る政策は急展開する。中央教育審議会による2018年の「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン(答申)」では,実務家教員という言葉が,リカレント教育に関する文脈だけでなく,「多様なバックグラウンドの教員の採用と質保証」という文脈でも使われている。そこには「社会のニーズを踏まえた教育を幅広く展開させることができるよう,実務経験を有する者の大学教育への参画を促すため,専任教員として実務家教員を配置することができる旨を,大学設置基準上,確認的に規定する」旨が明記されている。
この方針に沿って,翌2019年に大学設置基準が改正される。実務家教員は,1年に6単位以上の授業科目を担当する場合,その実務家教員が教育課程の編成について責任を担うこととするよう大学は努力する必要がある旨が,明記されることになった(文部科学省高等教育局長2019)。同年に創設された専門職大学・専門職短期大学でも,実務家教員を一定割合で採用することが求められている。
2020年に入ると高等教育の修学支援新制度が始まるが,同制度が適用される機関としての要件に,実務家教員の配置が求められるようになった4。
2022年に大学設置基準は再び改正され,基幹教員制度が導入される。従来の「専任教員」は1つの大学において教育と研究に専ら従事する存在であったが,これに代わって新たに導入される「基幹教員」は,当該の大学に専従せずとも一定の要件を満たせばよいものとされ,教員が十分に養成されていない成長分野等において,実業界からの実務家教員の登用の促進が期待されるということが謳われている(文部科学省2022)。
そして2023年の大学設置基準の改正によって,教員養成系学部において実務家教員を一定割合以上置くことが求められるようになった。
このように実務家教員を巡る政策は,近年急激な展開を遂げている。実務家教員という概念の政策上の意味は事実上,専門職大学(院)や教員養成系学部といった専門的な人材養成の担い手,リカレント教育の担い手,そして大学教育一般の担い手といったような,多岐に渡るものとされている。同時に,大学による実務家教員の採用および大学教育への参画を促す制度の構築が進められてきた。
こうした一連の過程のさなかの2019年に,文部科学省は,「持続的な産学共同人材育成システム構築事業」を開始した。この事業の開始を受けて,法務や会計,教職,医療などの特定の専門分野を前提とせず,かつ,学位取得を目的としない実務家教員養成課程を,大学が設置するという動きが生じた。ここに,古典的な専門職としての大学教員に至るための従来のルートおよび人材のプールとは別の,新たな採用ルートおよび人材のプールが確立したことを読み取ることができる。
実務家教員養成課程を経て大学教員として採用されるという新たなルートは学界と実業界を繋ぐものであり,新たな人材のプールが学界と実業界との隣接領域に出現することになった。1985年の大学設置基準改正以来大きく問われることのなかった,大学教員の従来的な養成ルート,すなわち大学院の教育課程を通じた大学教員養成ルートの一般性が後退していく可能性が想定される。大学教員を養成する従来のルートが相対化され,養成ルートが多様化すれば,大学教授職に従来とは異なる特性を持つ集団が参入してくることになる。このことは,大学教授職全体のイメージや統合性に変化を与えると考えられる。かかる変化の兆候があるとすれば,それはどのようなものであろうか。
この問題に関係する研究群として,実務家教員が登場する歴史的経緯や政策に関する研究(松野2019,吉岡2020,二宮ほか2021)や,現職の実務家教員の特徴に関する研究(松野2019,実務家教員COEプロジェクト編2020および2022,橋本2021,二宮2023)が挙げられる。
例えば橋本(2021)はマスメディア出身の実務家教員の属性(年齢や出身業界・職種,保有している学位,専任・非常勤の別)を調査し,実務家教員に期待されるあり方と実態の整合性について検討している。この研究は,実務家教員を目指す人たちの属性について示唆を与えてくれるものではあるが,実務家教員として大学への新規参入を目指す人たちを直接的に調査したものではない。実務家教員を目指す人たちの属性に関する研究は非常に限られている(例えば,実務家教員COEプロジェクト編2022)。さらに,その人たちが大学教員や大学教育に対して抱いているイメージに関する研究は,管見の限り見当たらない。
本稿では,大学教授職の変化の兆候を掴むことが期待できるこれらの課題に取り組む。
1章で設定した課題を明らかにするために実施した質問紙調査の概要について説明する。
本稿の執筆者は,大学が設置している実務家教員養成課程の修了生からなる集団が,実務家教員を目指す人材のプールであると考えて,実務家教員養成課程修了生を対象とする質問紙調査を企画した。そして社会構想大学院大学の協力を得て,同大学実務家教員養成課程5 第1~10期の修了生469名に対して,2023年3月に自記式質問紙調査を実施した。この質問紙調査は,放送大学の研究倫理審査を経ている。質問紙の配付・回答・回収は全てインターネット上で行い,有効回答数は154,有効回答率は32.8%であった。
得られたサンプルに対応する母集団は,実務家教員養成課程第1~10期の修了生であるが,社会構想大学院大学は実務家教員養成を行う旗艦校の1つであることから,母集団は,実務家教員を目指す人材のプールの1つの事例として解釈できる。
なお,得られたサンプルには偏りがある。具体的には,最近の修了生が多い,60代の修了生が多いといった偏りが確認されている。データの限界として明記しておきたい。
3章では,上述の質問紙調査から得られたデータを用いて,実務家教員を目指す人たち,すなわち実務家教員養成課程の修了生の属性を,記述統計から明らかにしていく。無回答・非該当は分析に含めない。
性別の分布を確認したところ,図1のような結果が得られた。80%以上を男性が占めているということが分かる。実務家教員を目指す人たちの性別分布は,実業界における女性の働きづらさと関係していると考えられる。実務家教員を目指す人たちは,3.2や3.3で示すように,実業界で一定の経験を積んできたであろう中高年の経営者・管理職が主体となっている。実業界においてそうした経験を積む機会が女性に閉ざされがちであるという傾向が,図1のような性別分布となって表れていると解釈できる。
年齢分布は,図2のような形になっている。母集団の年齢分布(実務家教員COEプロジェクト編2022)は,40代が22%,50代が51%,60代が21%となっている。サンプルのほうが,60代が占める比率が多めになっているということが読み取れる。しかしいずれにしても,実務家教員を目指す人たちの多くは50代以上であり,実業界における定年が視野に入り始めるであろう年齢層の人たちが主体となっていると言える。
50代以上の人たちは,バブル経済崩壊前に大学等を卒業して実業界に入っている。バブル経済崩壊前と崩壊後では,大学も実業界も,かなり異なるところがある。バブル崩壊前の大学は,大学入試への選抜性の信頼,企業の旺盛な採用意欲と充実した企業内訓練,大学教員の強い研究志向を背景に,大学教育が空洞化していたとしても,それが問題視されない時代であった6。吉本(2004)はこうした状況を,企業・大学教員・学生による暗黙の共同謀議が生み出した大学教育の空洞化と表現している。実務家教員を目指している人たちの多くは,そうした状況の中に身を置いていた人たちであると考えられる。
図3は,実務家教員を目指す人たちの,実務家教員養成課程を知った時点における働き方(正規雇用か否かなど)を表したものである。特に目を引くのが,部課長級正社員が47.1%,役員・経営者が14.6%を占めており,管理職または経営者が過半数を占めているという事実である。3.2で述べたことと重ねてみると,実務家教員を目指す人たちの1つの典型像として浮かび上がってきたのは,バブル崩壊前に実業界に入り,一般的には企業の人件費削減や労働の規制緩和が進められ働く環境が大きく変化する中,企業の中で昇進を重ねて一定の社会的地位を築いた人たちである。
実務家教員養成課程は,ある特定の業界で特定の経験を積んだ人たちを対象として限定せずに,広く学生を募集している。実務家教員を目指す人たちはあらゆる産業分野に存在しているとしてもおかしくないが,実際には,ある種の傾向が見られる。
図4は,実務家教員を目指す人たちが,実務家教員養成課程を知った時点で従事していた主な仕事の業種(産業)の分布を示している。総務省統計局『労働力調査年報』に見る産業分布との比較という観点から目立つのが,卸売業・小売業や医療,福祉といった業界からの参入者が比較的少ないという点である。これに対して,学術研究,専門・技術サービス業,教育,学習支援業,サービス業の占める比率が,比較的高くなっている。
図5は,実務家教員を目指す人たちが,実務家教員養成課程を知った時点で勤めていた企業の規模の分布を示したものである。過半数には届かないが最も多いのが,従業員数1000人以上の企業に勤めていた人であり,サンプルに占める比率は44.0%である。転職することなく当該の企業に継続して雇用されていたかどうかはともかく,大手企業から学界への転身を図ろうとしている人が多いのかもしれない。
実務家教員養成課程を知った時点における年収の分布を示したものが,図6である。
年収1000万円以上の人が,44.2%を占めている。得られたデータを用いて学歴別平均年収を求めると,大卒996万円,修士955万円となる。『令和4年賃金構造基本統計調査』によれば,55~59歳・男性・大卒という条件に当てはまる人の平均年収は約830万円である。管理職または経営者が過半数を占め,大手企業従事者が比較的多いということが,年収に表れていると解釈できる。高収入層が多いのである。
3.7 最終学歴図7は,実務家教員を目指す人たちの最終学歴の分布である。なお,社会構想大学院大学の実務家教員養成課程修了者に授与されるものは,学位ではなく「修了証」である(社会構想大学院大学ウェブサイトb)。
図7を見ると分かるように,ほとんどの人の最終学歴は大卒以上である。修士課程修了者は41.1%を占めている。同じ世代の中でも高学歴層の人たちが,実務家教員を目指していると言える。占める比率が小さいのであまり目立たないが,大学院博士課程修了者,つまり博士学位保持者が2.6%存在するという事実も,注目に値する。博士学位の取得者は,大学教員になるための従来型のルートをすでに通過していると言えるが,敢えて実務家教員養成課程の門を叩いているのである。実務家教員養成課程を経て大学教員市場への参入を試みるというルートは,博士学位を授与する大学院から参入を図ろうとする従来型のルートとは異なるものとして,当事者に認知されているという様子が窺える。
図は省略しているが,大学(大学院含まず)や短大での専攻の分布(n=137)は,人文・社会系73.0%,理工系24.1%,医療・保健系2.2%,その他の専攻0.7%となっている。
4章では,これまで行ってきた属性分析に関連する事項として,実務家教員を目指す人たちが入学時点で抱いていた実務家教員養成課程への期待と,修了後における実務家教員への採用実績などについて確認する。
4.1 実務家教員養成課程への期待社会構想大学院大学の実務家教員養成課程は,実務能力,教育指導力,研究能力が実務家教員にとって必要であると謳っているが,その3つの能力は順に,「実務経験を言語化する力」,「学習意欲・成果を最大化する力」,「実務経験を体系化する力」(実務家教員COEプロジェクト編2022)と定義されている。
実務家教員養成課程の修了者は,同課程への入学を決意した時点で,上に挙げた3つの能力の獲得はもとより,どのようなことを期待していたのだろうか。あてはまる選択肢を複数選ぶ形式で回答してもらい,その回答結果をまとめたものが,図8である。
特に注目したいのが,「研究能力(実務経験を体系化する力)を身に付けたい」という回答が最も少ないという点である。「教育指導力(学習意欲・成果を最大化する力)」を身に付けたいと考えている人のほうが多い。実務家教員養成課程への入学を決意した時点において,実務家教員を目指す人たちは,研究よりも教育に関心が向いている場合が多いと言える。
他方,実務家教員でない研究者教員7 は一般に,教育よりも研究に関心が向いているということは,かねてより指摘されてきた(有本1998,有本2020)。研究者教員にとっての「研究能力」は,実務経験を体系化する力としての「研究能力」と完全に同じではないが,実務家教員を目指す人たちは主に教育に関心を持つのに対して,現職の研究者教員は研究ほどには教育に関心を持たないという,対照的な関係がありそうである。研究志向が強い日本の大学教員とは異なる志向を持つ人たちが,大学教員市場への参入を目指しているようだ。
なお,「研究(能力)」という概念の意味付け方が実務家教員を目指す人たちと研究者教員との間で異なるとすれば,「教育(能力)」という概念の意味も異なるのかもしれない。研究者教員は研究を基盤とするものとして教育を意味付けているのに対して,実務家教員を目指す人たちは実務を基盤とするものとしての教育をイメージしているのではないだろうか。
それでは,大学等に実務家教員として採用されたことがある人は,どれくらいいるのだろうか(図9)。
図9によれば,大学・短大で非常勤の実務家教員として採用されたことがあるという人が21.1%を占めている。大学・短大で専任の実務家教員として採用されたことがあるという人は,7.2%である。実務家教員養成課程への入学を決意した時点において大学・短大で実務家教員を目指したいと回答していた人たちが73.0%を占めていたことを踏まえると(図8),期待を実現させることの困難さが浮き彫りになっている。専任教員への道のりは特に険しいというようである。
専任教員への道のりが険しいのは,大学が専任の実務家教員の採用に消極的であることが原因であるとも考えられる。そうした可能性の当否を判断するためのデータは限られているが,次に述べるように図9が示唆する課題は多岐に渡っている。
実業界で経験を積んできた人たちが,実務能力を維持・向上させつつ,実務能力を大学教育に還元するべく,実務家と専任の実務家教員という2足の草鞋を履こうと考えた場合,実現に向けたハードルは高い。兼業を前提とすると,非常勤講師という選択肢が出てくる。しかし非常勤講師に対する経済的な待遇は必ずしも良いものではない。
4.3 実務家教員未経験者の志願率図10は,実務家教員未経験者に絞って,大学等で実務家教員として仕事をしたいかどうかを尋ねて,その結果をまとめたものである。
(教育機関での実務家教員経験を持たない人。n=108,複数回答,単位:%)
大学・短大で実務家教員の仕事をしたいとの回答が77.8%を占めるのに対して,専門学校や各種学校での仕事を希望する回答は51.9%に留まっている。実践的な職業教育などを目的とする専門学校は,大学や短大に比べて,実業界で実務能力を磨いてきた人たちが活躍できる場が多いのではないかと推測される。専門学校や各種学校での仕事を希望している人たちは,そうしたことを念頭においているのかもしれない。しかしそれ以上に多いのは,実務家教員としての仕事を大学・短大で行うことを希望する人たちである。職業教育に特化した学校よりも大学に関わることに意義を見出している人が多いという様子が窺われる。
2章で説明した実務家教員養成課程・修了生調査において,実務家教員養成課程への入学を決意した時点と現在という2時点において抱いている(抱いていた)大学教員の仕事に対するイメージについて,自由記述形式で回答を求めた。実務家教員養成課程への入学を決意した時点で抱いていたイメージについては149件(有効回答数に対して96.8%),現在抱いているイメージについては139件(90.3%)の回答を得た。5章では,自由記述によって得られた質的データにKJ法(川喜田1967)を適用して,その結果を記述していく。
KJ法を用いる目的について,説明を加えておきたい。KJ法はそもそも,自由記述形式の回答データをはじめとする質的なデータの分類・集約,すなわち圧縮に威力を発揮する方法論である。質的データの圧縮に際して特筆されるのは,量的データに例えると外れ値に相当するような少数意見を除外せず,多数意見と同等の重みを持つものとして取り扱うことである。そして圧縮された言葉同士の関係性を見出し,それらを平面上に図示して,質的データに関する「落ち着きのよい理解のしかた」(川喜田1967)を,数ある解釈の1つとして提示する。データの圧縮化以降の一連の工程は,図解と呼ばれている8。ここでKJ法を用いる目的とは要するに,大学教員の仕事に対するイメージを捉えた言葉を圧縮・図解して,それらの言葉についての「落ち着きのよい理解のしかた」を提示することにある。「落ち着きのよい理解のしかた」は,質的データを説明するための仮説的な枠組みと読み替えることも可能である。つまりここでは,自由記述データを説明する仮説的な枠組みをKJ法によって抽出したいのである。
「落ち着きのよい理解のしかた」は1つであるとは限らず,複数存在することがある。だからと言って,図解の成果が「完全に主観に支配された不定形のもの」(川喜田1967)であるということにならない。KJ法による図解を行うにあたって重要なことは,誰が分析しても同じ解釈に辿り着くという意味での正しい解釈を得ることにあるのではない。解釈の根拠が,質的データに根差した発想なのかどうかが重要だとされている(川喜田1967)。
これから,実務家教員養成課程への入学を決意した時点と,現在という2時点における,大学教員の仕事に対するイメージに関する自由記述データにKJ法を適用した結果を,後掲の図11および図12に基づいて論じていく。
各図の中に記された言葉にはいくつかの種類があるので,あらかじめ説明する。各図を読み取るのにあたって留意すべき点も,付言しておく。
第一に,各図の中には線で囲われた言葉が配置されている。これは,筆者が回答者の自由記述を圧縮して作成した表札である。表札とはKJ法用語の1つで,分析者が圧縮したいくつかの生データの含意を最もよく表現するものとして分析者が名付けた言葉のことである。
第二に,表札の近傍に,箇条書きで記した言葉がある。これは,表札に対応する生データの一部を,筆者が適宜要約して紹介するものである。
第三に,矢印や等号などの各種記号9 の近傍に添えられた言葉がある。そもそも図中の各種記号は,表札同士の関係性を表現するものであるが,記号の近傍に付された言葉は,記号の意味合いを補足して説明するものである。
第四に,これは各図を読み取る際に留意するべき点であるが,表札とその近傍に箇条書きされた言葉はいずれもデータを「叙述」したものであるのに対して,表札の位置関係,矢印や等号などの各種記号,それらの各種記号の近傍に添えられた言葉はいずれも,表札同士の関係性を「落ち着きよく理解する」ために分析者が見出した「解釈」である。KJ法による図解の成果を読み取る際,データの叙述と解釈の違いにも留意する必要がある(川喜田1967)。
ここで分析対象となるデータは,実務家教員養成課程への入学を決意した時点で抱いていた,大学教員の仕事に対するイメージについて語られた言葉である。この質的データにKJ法を適用して抽出した,大学教員の仕事へのイメージに関する「落ち着きのよい理解のしかた」の1つ,すなわち質的データを理解するための仮説的な枠組み(図11)を,説明する。
最初に挙げておきたいのが,図11の左上に配置された,「教員は,研究者であり教育者だ。」という表札である。これは,古典的な専門職としての大学教員の仕事内容を端的に表した言葉だと言える。この表札の下位にあるのが,「教員は,専門的な研究者だ。」という表札である。教員は「裁量ある仕事」に従事しており,それゆえに,その仕事に就くためには「高度な訓練が必要」である,といった言葉が並んでいる。
そうした裁量性と裏腹の関係を持つものとして位置付けることができるのは,「いったん採用されてしまえば,仕事内容の監査を受けることはほぼない。」という表札である。大学教員の仕事のうち研究者としての仕事は裁量的であるがゆえに,第三者から仕事内容のチェックを受ける機会が実業界に比べて少ないというイメージが生じるのだろう。研究者である教員は同時に教育者でもあるので,教育という仕事も監査の対象から外れていくとイメージされたとしてもおかしくない。すると,「体系的な教育が行われていない」,「体系的かもしれないが実務の役に立たない理論に傾斜した教育(が行われている)」,「教育に熱心でなく,教育技術にも問題がある」といったような言葉が並ぶようになる。監査を受けない仕事には,疑いの視線が向けられるのである。後で述べるが,この疑いの視線は,「大学は既に大衆化している(各種イメージの通奏低音?)。」という表札と無関係ではないと思われる。今日の大学教育は少数者の特権ではなく,多数の人たちが関わるものであろう。それにも関わらず大学教員の仕事は外から見えづらいものとしてイメージされているため,大学教員の仕事が多数者に裨益するものになっているのかという疑いの視線が生じやすいと解釈することができる。ただし,「中には優れた教師やカリキュラムもある」といった言葉もあることには注目しておきたい。
仕事内容の監査を受ける機会がほぼない結果として位置付くのが,「(教育と研究の)比重の置き方は人それぞれ」という表札である。仕事の比重の置き方が本人の裁量に委ねられるのは,監査を受ける機会がほぼないことと関係していると思われる。そうすると,教育と研究は一体的に行われるべきであるという古典的な理念とは相異なる,「教育と研究は,別物だ」というイメージが出てくることも,納得できる。
「いったん採用されてしまえば,仕事内容の監査を受けることはほぼない。」というイメージについて言えば,実業界では,仕事内容の監査を受けることは当然視されていると考えられる。当該のイメージは,「独自のルールで動く閉鎖的な世界で仕事をしている。」というイメージと,根底では繋がっていると考えることができる。外部からのチェックがほぼなく,閉鎖的な世界で仕事をしているというイメージは,「教育内容の変革が必要」というイメージと強く関連していると思われる。
「教育内容の変革」にあたって重視されているのが,改革手段としての実務家教員なのであろう。ゆえに,「今後は,実学的な教育ができる実務家教員への需要・ニーズが高まるはずだという見通し」が出てくる。実務家教員という仕事に対する具体的なイメージは,次の3つの表札に集約できそうである。第一に,「学びと仕事を架橋したい」という表札である。図11には直接表現していないが,「体系的かもしれないが実務の役に立たない理論に傾斜した教育(が行われている)」という問題意識が,「学びと仕事を架橋したい。」という考えの根底にあるのかもしれない。第二に,「実務経験を活かした教育は自分にもできそう。」という表札である。自分にもできそうだとイメージするからこそ,実務家教員養成課程の門を叩くのであろう。そして第三に,「(実務家)教員は,ベテランビジネスマンの第二の人生としてふさわしい魅力的な職業だ。」という表札である。このイメージは,3章で明らかとなった,実務家教員を目指す人たちの代表的な属性をよく反映していると思われる。
「魅力的な職業」は「憧れの職業」でもある訳だが,その実態についてのイメージには様々なものがある。まず挙げられるのが,「社会的威信は高い。」という表札である。この表札と対立的な関係にあると思われるのが,「忙しい割には待遇が良いとは限らない。」という表札である。社会的威信が高い職業としてイメージされているのはおそらく,専任の大学教授ではないだろうか。しかし4章で見た通り専任の実務家教員へのハードルは高い。専任教員と比べればハードルが低い非常勤講師は,処遇が悪い仕事としてイメージされている。大学教員と言えば一般に社会的威信が高そうであるが,実際に就く機会が比較的多そうな非常勤講師の待遇は良くないという,実務家教員を目指そうとする人たちの葛藤が読み取れる。
また,「社会的威信は高い。」というイメージは,「教員になるのは難しそう。」というイメージに繋がっていると思われる。ある職業の社会的威信は,その職業への移動機会の多寡と相関しているところがある。職業集団によっては,自らの社会的威信を高めるために,その職業への就業のハードルを増やすという戦略をとることもある。こうした点を考慮に入れれば,「社会的威信は高い。」というイメージと「教員になるのは難しそう。」というイメージに関連があると解釈するのは,不自然なことではないだろう。
これまで大学教員の仕事を巡る種々のイメージの関連性について述べてきたが,それらのイメージの通奏低音となっていると思われるのが,「大学は既に大衆化している(各種イメージの通奏低音?)。」という表札である。今日の大学は,少数者のための存在ではなく,多数者のための存在であることが求められていると認識されているようである。「教育内容の変革が必要」だというイメージが生まれる源泉はここにあるのだろう。そして,変革を促す原動力の1つとして期待されているのが実務家教員であると,イメージされている。
5.3 現在におけるイメージここから,大学教員の仕事に対して現在抱いているイメージをKJ法によって分析した結果(図12)を説明する。
図12の左上に,「大学は大衆化に伴い様々な対応に迫られている。」という表札がある。「理論に傾斜した教育への疑義」が繰り返し語られており,大学は「サービス業化」しているというイメージもある。大学は産業化しており,「教員は大学産業維持要員」であるという見方も出てきている。
大衆化が変容を促す対象は多岐に渡るであろうが,その1つに,「教員は,研究者であり教育者」であるという,言わば古典的な大学教員観を挙げることができる。大学教員観の変容が進むにつれて存在感を増してくると思われるのが,「学生を育てるのが仕事」という教育重視の考え方である。こうした考え方は,研究者教員が持つ強い研究志向(有本1998,有本2020)との葛藤を生じさせるとしても不思議ではない。「教員は,2足の草鞋をはいてはいられない。」というイメージが語られているが,こうしたイメージは正に,先に述べた葛藤の産物ではないだろうか。「2足の草鞋」とは当然,「研究者であり教育者」という大学教員の2つの顔を意味している。
「教員の仕事観(特に教育)の変容」が進んでいるというイメージが語られているのに対して,「閉鎖的で旧態依然とした大学教員の世界。」に関するイメージにも,根強いものがある。「実務家教員養成課程で学んでいると,教育に必要とされる高度なスキルセットを現職の大学教員が持っていると言えるのか疑わしくなっている。」というイメージも表出している。
そうすると,どうすれば大学教育が良くなるのかという疑問が湧いてくるのも無理からぬところであろう。こうした疑問への答えとして位置付くと思われるのが,「教育目的に応じて,アカデミックな教員と実務家教員が分業するという発想が出現。」というイメージである。教育目的に応じたアカデミックな教員と実務家教員による分業という発想は,大学の大衆化を受けた「教員の仕事観(特に教育)の変容」の結果として位置付けることもできる。「2足の草鞋を履いていられない」以上,教育目的に応じて研究者教員と実務家教員が分業するという考え方が生じてくるとしてもおかしくないだろう。
こうした文脈の先に表れるのが,「大学改革を進めるべく,実務家教員をもっと採用するべき。」という表札である。実務家教員は「社会の変化に対応する人材の育成に不可欠」といったイメージや,「社会で活用できる実学を指導」するというイメージが語られている。「大学教育を変えないと日本は没落する」ということまで指摘されている。そして実務家教員の仕事とは,その仕事を目指す本人にとってみれば,「自らの経験を活かせる仕事」なのであるが,こうした仕事観はある程度の修正を余儀なくされるものと思われる。「大学教員の仕事は,考えていたよりもはるかに大変で難しい仕事」というイメージが出てくるのである。
「大学教員の仕事は,考えていたよりもはるかに大変で難しい仕事。」というイメージは,どこから出てくるのだろうか。1つの源泉だと思われるのは,「実務家教員も,基本的にはアカデミズムの枠の中で仕事をする。」というイメージである。「学位や論文がものをいう」というイメージがあるし,「大学からアカデミックな雰囲気を失くすわけにはいかない」というイメージもある。それゆえに,「実務家教員は研究も行うべき。」というイメージが出てくるのだろう。なお,ここでいう「研究」には2つの含意がある。第一に,「実務家教員も学術的研究を行うべき」というイメージに見られるような,研究者教員が行うものと同じ研究である。第二に,「実務経験を言語化し体系化する」という意味での研究である。実務家教員の仕事は確かに「自らの経験を活かせる仕事」だろう。しかし実際には経験プラスαが必要であるし研究も行うべきであるということを知り,それゆえに,「大学教員の仕事は,考えていたよりもはるかに大変で難しい仕事。」というイメージが出てくるものと思われる。
さらに,実務家固有の問題点を指摘しておく必要がある。その問題点は,「実務家であり続けながら教壇に立つことは,現実には難しい。」という表札に端的に凝縮されていると思われる。「実務家教員は『元実務家である教員』とは違う」というイメージ,「実務を続けようとすると非常勤講師しか選択肢しかない」というイメージ,そして「非常勤講師の待遇は悪い」というイメージが,そこにある。これらのイメージは,「教員として活躍するイメージが持てなくなった。」というアスピレーションの冷却と無関係だとは思われない。他方,大学教員への「就職に向けたハードルについての認識は,人それぞれ。」というイメージがあるということにも留意したい。教員の仕事に就くハードルは高くないと想定する人もいる。
ただし仮に実務家教員になれたとしても,「実務家教員と研究者教員との隔たりは大きい。」というイメージから無縁ではいられないということも,想定しておく必要があるのだろう。アカデミズムが「社会的威信は高い」というイメージの源泉であり,そうした社会的威信の高い職業集団の中に身を置くとすれば,実務家教員と研究者教員が研究遂行能力という尺度で序列化されるという可能性を想定しておかなくてはならないのだろう。そうした可能性があるがために,教授は実務家教員を下に見ているといったイメージや,実業界と学界は(やはり)別世界であるといったイメージが出てくるものと思われる。
先述の「アカデミズムの枠の中で仕事をする。」,「実務家教員と研究者教員との隔たりは大きい。」といったイメージは,そもそも大学は,学界外の人材採用に積極的なのかという疑問を生み出す下地にもなっていると思われる。そうした下地があるからこそ,「大学は,制度が求めているので仕方なく実務家教員を採用している。」といったイメージが出てくるのだろう。具体的には,「大学が実務家教員の必要性を感じていない」とか,「実務家教員の受け入れ態勢が未整備」といったイメージが語られている。
「実務家であり続けながら教壇に立つことは,現実には難しい。」というイメージとも相まって,行き着く先にあるのは,「大学は結局変わらない。」というイメージである。結局のところ,「大学が実務家教員を活かせるかどうかは,大学次第。」なのかもしれないが,こうしたイメージの背景には,これまで述べてきたような複雑な文脈がありそうである。
最後の6章では全体のまとめを行い,今後の課題を示すことにしたい。
本稿は,実務家教員の登用が,古典的専門職の1つである大学教授職の再生産のあり方や,大学教授職のあり方それ自体を問い直す契機になる可能性があるという問題意識のもと,実務家教員を目指す人たちの属性と,その人たちがイメージしている大学教員の仕事像を明らかにすることを,課題として設定した。実務家教員養成の旗艦校たる社会構想大学院大学の協力を得て,同大学の実務家教員養成課程第1~10期の修了生を対象とする質問紙調査を2023年3月実施した。得られたデータの分析結果は以下の通りである。
6.1.1 実務家教員を目指す人たちの1つの典型像実務家教員を目指す人たちの属性分析から,以下のことが明らかとなった。
2023年時点で実務家教員を目指す人たちの1つの典型像は,バブル崩壊前に学生時代を過ごしてから就職し,長期不況に直面しながらも,社会的経済的地位の観点では一定の成果を挙げた高学歴の男性である。実務家教員養成課程入学時点では,研究志向よりも教育志向の方が強い。ただし前述の「研究」という言葉の含意は,研究者教員が行う「研究」と完全に同じではないので,留意が必要である。
属性分析の結果から汲み取れる1つの含意を指摘しておきたい。実務家教員を目指す人たちは豊富な実務能力を持つ人が多いであろうから,回答者の多くが50~60代を占めるのは不思議なことではない。日本社会では,男性が長期に渡り賃労働に従事し,女性は家事労働を引き受けるという,ジェンダーに基づく分業が慣行として行われてきた。このような日本社会の特性上,一部の専門職を除いて当面の間は実務家教員候補者の多くを男性が占めることになると予想される10。
5章の図11と図12に表現されている分析結果の含意は多岐に渡るが,主要な部分を整理すれば以下のようになる。
実務家教員養成課程修了者が入学を決意した時点でイメージしていた大学教員の仕事とは,裁量が大きく社会的威信が高い,そして自らが積み上げてきた実務経験が評価され活用できると期待させるものであった。もちろん容易になれるものではないという認識もあったが,実業界からシフトして第二の人生を生きるのに適した魅力的な仕事だと思われていた。大学が少数のエリートを養成する機関ではなく,大衆化した教育機関であるという認識が,実務家教員のニーズがあるという認識の下敷きになっていたと考えることができる。
同養成課程での学修を終えた現在においては,大学教員の仕事そのものや採用されることの難しさの認識が一層表出するようになる。大学が実務家教員の採用に対して消極的だという見方もある。他方で大学改革のためには実務家教員が必要であり,自らの経験はそこで生かせるという考えも入学決定時同様示されている。また,実務家教員を目指す人たちにも,大学教員は研究者であり教育者であるという古典的大学教員観が広がっている。これは入学決定時と現在の2時点間で共通しているが,養成課程を経た現在の時点では,学生を育てる仕事の相対的な重要性の高まりや,実務家教員が研究者教員と分業して教育を効果的に担っていくといった方向性などがイメージされるに至っている。
本稿の問題意識に直接関わるところを1つ抽出しておきたい。実務家教員を目指す人たちは,養成課程での学修を経て,大学教員は研究者であり教育者であるという古典的大学教員観を共有しながらも,それを研究者教員とは異なる地点から批判的に問い直している。特筆に値するのが,大学教員が持つべき教育能力に対する疑問である。教育と研究の専門職である大学教員が持つべき教育能力が,博士学位を授与する大学院という養成ルートの中でどのようにして育まれ,教育現場で如何に成長しているのかが,実務家教員を目指す人たちによってまさに問いかけられていると考えられる11。
研究に傾斜したスカラーシップ観の吟味(Boyer 1990; 有本訳1996,有本1998)が求められて久しい。実務家教員養成課程での学修を通じて生み出された,上で述べたような問いかけも,研究者教員や研究者教員志望者が持っているであろうスカラーシップ観の吟味を,改めて促すものなのかもしれない12。
大学教授職のあり方に変化の兆候があるかどうかを検証するためには,実務家教員を目指す人たちのうち,どのような人が実際に実務家教員に採用されやすいのかを分析することも,有用だと考えられる。例えば博士学位や修士学位の有無は,実務家教員への採用を有利にするのであろうか。また,学位の有無よりも影響力の大きい変数は存在するのであろうか。こういった問いに応えていくことが今後の課題となる。
社会構想大学院大学実務家教員養成課程第1~10期修了生を対象とする質問紙調査の実施にあたり,社会構想大学院大学の協力を得ました。松本朱実教授,事務局の皆さま,そして修了生の皆さまに,厚くお礼申し上げます。
本研究は,JSPS科研費JP21H00815 の助成を受けたものです。