千葉中央メディカルセンター和漢診療科
ポランの内科クリニック
2019 年 70 巻 4 号 p. 414-418
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著者らは先に吉益東洞が1752年に盛岡南部藩主を往診したことについて報告した。本稿では東洞の往診の後に起こった出来事を南部藩家老によって記された日記『雑書』に基づき調査した結果を示した。東洞の治療にもかかわらず藩主の疾病は改善せず,最後は死亡した。この時,東洞の弟子三人が藩医として南部藩に居たが,日記は藩主の没後にこの三人が解雇あるいは減給の処分を受けたことを記している。これは吉益の革命的医学思想と方法論が,当時,十分に理解されず,また評価されなかったことを示している。
日本東洋醫學會誌
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