一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集
57回大会(2005年)
セッションID: 1Aa-1
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小倉織
-その歴史と特徴-
*永冨 真子北浦 多榮子
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抄録

「小倉織」は小倉縞・小倉縮・小倉袴の三種類を総称したものであるが、一般的には木綿織物を小倉織と称し、絹縮を小倉縮と称している。小倉起源説と信州起源説の二説が伝えられている。寛永9年(1632年)に譜代大名の小笠原忠政氏が信州から播州を経て小倉の地へ転封された折り、信州で織られていた織物を改良したのが本小倉織という説である。 本小倉織の全盛は文化より嘉永の20年間であった。安永年間足利町?阿寺の領内の織屋小佐野茂右衛門が俳諧漫遊の折り、豊前小倉で数ヶ月小倉織の法を習得し自家工場で生産したのが「足利小倉織」として発展した。岡山県児島地方では寛政年間から織業が起こり、主として真田織(小倉帯)や袴地が織られていた。明治に需要の伸びに応えるため、輸入の紡績綿糸や人造染料を使用した常袴地が小倉織として流通していた。 江戸時代最盛期には年間帯地6十万筋、袴地1万6千反であった本小倉織も、明治11年には帯地千4百筋、袴地8百5十反で、手織機も6台程度であった。しかし明治25年に肥後屋大塚才兵衛が備前児島から染色人として招いた明田が明田小倉織工場を設立した。26年には地元有志による小倉織物会社が創設され、27年には30余の女工と織機を備え、第4回内国勧業博覧会では好評を博した。これにより翌年株式組織に改編し、織機百余台を備えた新工場を新設したが、児島地方や他地域の機業規模に対抗できる力はなかった。明治34年日清戦争後の金融恐慌の煽りをうけ、豊陽銀行の破綻の巻き添えにより倒産した。     幻の織物となった「小倉織」の再現物性や、文学作品に登場する「小倉織」を考察した。

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