ラテンアメリカ・レポート
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論稿
チリのワチパト製鉄所閉鎖とアンチダンピング審査の構図
北野 浩一
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2025 年 42 巻 1 号 p. 77-92

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要約

チリで2023年末から開始されていた鉄鋼アンチダンピング審査は、国内唯一の製鉄所が閉鎖となって申請者不在になり、最終判断の前に審議終了という意外な結末を迎えた。チリ中南部経済を代表する製鉄所閉鎖の影響は、労働者の雇用問題をはじめ、取引企業の存続など地域経済の広い範囲に及ぶことが見込まれている。

このような帰結を招いた要因には、チリ鉄鋼産業の寡占的構造と、産業界における調整力の低さがある。本稿では、アンチダンピング審査における鉄鋼企業2社の意思決定と交渉過程を分析するために、相互依存関係にある寡占企業を分析する標準的なツールであるゲーム理論を用いることで、協調を軽視した個別企業の利益優先の経営判断がチリ製鋼業の終焉という結果を招いたことを示す。

Abstract

The steel anti-dumping case initiated in Chile in late 2023 has come to a surprising end, with the deliberations ending before a final decision, due to the absence of the complainant following the closure of a domestic steel mill. The impact of the closure of the company, which represents the economy of central and southern Chile, is expected to affect a wide range of the regional economy, including employment issues for workers and the survival of trading companies.

Factors contributing to this outcome include the oligopolistic structure of the Chilean steel industry and poor coordination within the industry. By applying the game theory to analyse the decision-making and bargaining process of the two steel companies in the anti-dumping case, this paper shows that the business decisions of individual companies that neglected coordination and prioritized the individual profits led to the end of the Chilean steel industry.

はじめに

中国から輸入される安価な鉄鋼製品により、多くの国で製鉄業企業の経営が圧迫されている。中国国内の鉄鋼需要低迷がその根底にあるとされ、国内で行き場を失った鉄鋼製品は低価格で海外市場に流れ込んでいる。競合する鉄鋼製品を生産する各国の製鉄業は大規模な装置産業であることが多く、直接・間接に雇用している大量の労働者を抱え、取引関係にある企業も膨大な数に上る。同時に、地域コニュニティの活動にも積極的に貢献し、ステークホルダーの範囲が広く、政治的発言力が強い企業も多い。これらを背景に、中国産鉄鋼製品に対するアンチダンピング措置として、高い関税を賦課するなどの措置が広く採用されている。例えば2024年の米国大統領選挙では、ダンピング輸出を行う中国を非難し、関税引き上げにより自国の製鉄企業を保護することは、党派を超えた看板政策にもなっていた。

チリも、そのような中国製の輸入鉄鋼製品の被害を受けている国の一つである。競合する製品を生産するワチパト製鉄所(Compañía Siderúrgica Huachipato S.A.)は、 創業して70年という長い歴史を有し、日本の関係も深く、チリ中南部都市の地域経済を支える存在であった。この国内唯一の製鉄所が、親会社であるCAP社(Compañía de Acero del Pacífico)の経営判断により、2024年8月に突然の閉鎖されることが決まった。中国の安い鋼材の流入が引き金ではあるが、その背景には、協調を軽視した個別企業の利益優先の経営判断と、産業界の調整能力の低さという特徴が現れた結果ともいえる。

一般には、貿易財のダンピング問題は財の輸出国対輸入国という図式で語られることが多い。本稿で取り上げるチリの鉄鋼業でいえば、中国政府対チリ政府という構図が考えられる。しかし実際には国と国が係争するわけではなく、ダンピングを認定する機関への訴えは、国ではなくダンピング輸出の被害を受けた企業や業界団体が行うものであり、訴える相手も輸出国ではなく輸出企業でそのなかには輸入国の企業も含まれる。また、ダンピングの認定は政府が政治的意図のみで独断的に決定するのではなく、各企業から提出された価格データなどに基づいて、独立機関により客観的になされる。チリの鋼材ダンピングのケースでいえば、ワチパト製鉄所とその取引関係にあるモリコップ社(Molycop Chile S.A.)が、中国の鋼材を輸入する企業に対して、輸入品価格不正調査委員会(Comisión Nacional Encargada de Investigar la Existencia de Distorsiones en el Precio de las Mercaderías Importadas: CNDP)に訴えを起こし、CNDPが独立性を保って審議を行った。

対中鉄鋼製品に対しては、多くの国でダンピング認定がなされているが、チリでは上述のとおり、訴えを起こした企業の閉鎖と、これに伴う審議の終了という意外な結末を迎えた。その影響は、従業員の大量解雇と、関連する企業の存続の危機に及んでいる。経済大臣は、チリ北部の銅鉱山も含めた再雇用の斡旋を図っているが、容易には解決されない。本稿では、このような帰結を招くことになった理由を、訴えを起こしたワチパト製鉄所とモリコップ社の企業戦略に着目し、相互依存関係にある寡占企業を分析するための標準的なツールであるゲーム理論の枠組みを用いて解明する。それにより、協調を軽視した自社利益優先の交渉を行った結果、本来であれば利益の拡大を求める企業が、ダンピング審査の中止と企業の撤退というお互いにとってマイナスとなる帰結を生んだことを示す。

本稿の構成は以下のとおりである。まず、第1節ではダンピング訴訟を起こしたチリの製鉄産業の構造を生産工程の順に解説し、主要企業の特徴を述べる。第2節では中国からの鋼材輸入の影響をデータに基づいて示す。続く第3節では、チリのアンチダンピング審査を時系列的に整理する。第4節では、不確実性があるなかでの意思決定を扱う枠組みである情報不完備の場合のゲーム理論を用いて、交渉による調整の失敗がワチパト製鉄所の閉鎖という当事者も含め多くのステークホルダーにマイナスの結末を招く結果につながったことを説明する。

1.チリの製鉄産業と企業

チリの鉱業部門では、銅が世界生産の3分の1と膨大な産出量を誇るためあまり目立たないが、鉄鉱石も規模は小さいものの優良な資源を有している。産出量は年間約1500万トン前後(世界全体の0.6%)で、輸出額は2020年には14億ドルに達し、世界全体の3.4%を占める(Donoso y Cantallopts 2021: 10-11)。鉱山はアタカマ州で88%、コキンボ州で12%と、銅鉱山が集中する北部に多い。

鉄鉱採掘を行っている企業としては、チリを代表する鉄鋼コングロマリットであるCAP社の子会社のCMP社(Compañía Minera del Pacífico S.A.)が生産量全体の95%を占め、実質的に市場を独占している。チリの鉄鋼業はフランスの資本と技術協力により、中南部の海に面したコラルで1910年に開始されたが、生産技術上の問題から経営は数年で行き詰った。そのフランス系製鉄所が所有採掘権を有していたエル・トフォ鉱山は、米国のベスレヘム・スチール社(現インターナショナル・スチール・グループ:ISG)に売り渡され、1920年代には米国に輸出されて鉄鋼業の急速な発展を支えた1。エル・トフォ鉱山が枯渇すると新たにエル・ロメラル鉱山が開発され、第2次世界大戦後にはCAP社により設立されたチリ国内製鉄業に鉱石が供給されるようになる。CAP社は日本とも関連が深く、1950年代末には三菱鉱業や三菱商事の協力でアタカマ鉱山を開発し、1960年代末には八幡製鐵にも鉄鉱石輸出がなされている(細野・工藤・桑山 2019: 122-123)。

鉱山から採掘された鉄鉱石は、製鉄所でコークス(原料炭を蒸し焼きにしたもの)と混ぜられて還元・溶解され、不純物が取り除かれて鋼(はがね)となる。その後、用途に応じてさまざまな形状の鉄鋼製品に鋳造される。自動車や造船といった鋼材を多く需要する産業が僅少なチリでは、おもに銅精製過程に不可欠な粉砕用鋼材と建設用鋼材として用いられる。CAP社の場合は、鉄鋼生産の約6~7割が粉砕用の棒鋼、2割程度が建材となっている(図1)。銅鉱の粉砕に用いられるのは、ボールミルとロッドミルでの利用が主である。ボールミルでは、回転するシリンダーの中に鉄でできたボール(球鋼)が詰められ、ボールとの衝撃や摩擦によって鉱石などを加工しやすいように粉砕する。ロッドミルは、球鋼ではなく金属製の円柱であるロッド(棒鋼)が用いられている。ロッドミルは、より均一な粒度が得られるという特性があり用途に応じて使い分けられる。

図1 用途別鉄鋼生産の推移(CAP社)

(注)横軸の例として、「21 Q1」は「2021年 第1四半期(Quarter)」を意味する。

(出所)「CAP社財務報告2023年第4四半期」のデータをもとに筆者作成(2024年12月23日閲覧)。

ワチパト製鉄所は、粉砕用棒鋼の世界的な生産者であり、チリで生産する唯一の企業である。ロッドミルで粉砕に用いられる棒鋼は炭素含有率が高く、摩擦に強く靭性がある特殊鋼の一つである。ボールミルに用いられる球鋼は、球鋼用の棒鋼材を原料にして製造するが、モリコップ社は、ワチパト製鉄が製造する棒鋼材を用いた球鋼を生産する唯一の生産者である。一方、Magotteauxをはじめ、Elecmetal、SK Sabo、Codelcoといった国内有力企業は、輸入棒鋼材を原材料として球鋼を生産したり、球鋼を直接輸入して粉砕用のボールミルとして利用している。モリコップ社は、これら棒鋼材や球鋼を輸入する企業と競合関係にある。

以下では、ワチパト製鉄所とモリコップ社を中心に鉄鋼企業の所有・生産体制を述べる。

(1)ワチパト製鉄所

ワチパト製鉄所は、鉄鋼石から銑鉄を製造する高炉メーカーである。1946年にCAP社の製鉄部門として、中南部のビオビオ州にある港湾都市タルカワノに建設された。当時チリは輸入代替工業化期にあたり、国の開発振興機関である産業振興公社(CORFO)の資金が用いられ、またラテンアメリカ諸国に対し「善隣外交政策」をとっていた米国の技術や出資を受けて建設された(Monsálvez Araneda et al. 2014)。生産開始時の原料は、CAP社傘下のエル・ロメラル鉱山から産出された鉄鉱石であった。CAP社は1970年代初めのアジェンデ期に接収され一時国営となるが、1981年に鉄鋼業の持ち株会社として民営化される。その子会社のワチパト製鉄所は、労働者に広く株式を所有させる「大衆資本主義」(popular capitalism)として、1982年に現在のような所有構造の株式会社形態に生まれ変わった(Rivas y Llorca-Jana 2022)。CAP社は、Invercapという投資会社が43.3%の株式を所有し、これにM.C. Inversiones(三菱商事子会社)を加えるとこれら二つの投資主体で55.8%と議決権の過半数を占める。民間年金基金であるAFPなどいわゆる機関投資家の比率は少ないが、一般投資家の比率が42.2%と比較的流動性が高い構成になっている(図2)。このことから、CAP社の経営は、投資会社を通じて少数株主が実質的に支配し、外部のいわゆる物言う投資家らの敵対的な経営介入は少ないとみることができる。

図3には、CAP社とその傘下企業の関係を示す。CAP社は2023年末で直接雇用5870人、契約職員も加えると1万2034人を雇用するチリを代表する企業グループの一つである。鉄鉱石を産出するCMPに加え、鉄鋼部門のワチパト製鉄所、またさまざまな建材を扱うCINTAC社などからなる。CINTAC社はペルーにも進出し市場を拡大している。ワチパト製鉄所は、これまで、グループ内での重要性は高く、CAP社のほぼ100%子会社であった。

図2 CAP社の所有割合

(出所)「CAP社年報2023年版」のデータをもとに筆者作成(2024年12月23日閲覧)。

図3 CAP社と傘下企業の資本関係

(出所)「CAP社年報2023年版」のデータをもとに筆者作成(2024年12月23日閲覧)。

(2)モリコップ社

球鋼を生産するモリコップ社は、1917年にオーストラリアで創業された多国籍企業である。開始から40年のうちにペルー、メキシコ、カナダ、インドネシアなど各国に進出し、チリでもすでに60年間操業を続けてきている。ワチパト製鉄があるタルカワノに1961年に工場を建設し、2014年には銅鉱山が多いメヒジョネスにも粉砕用球鋼製造工場を設立している。ワチパト製鉄所の棒鋼材の70%を購入し、球鋼を製造・販売している。国内シェアは75~80%に達する。チリでの直接雇用は220名であるが、関連企業に1万6000人の雇用を生んでいるとしている。 

2.中国製の鉄鋼製品ダンピングの影響

2010年代の終わりからの安価な中国産鉄鋼製品流入の影響で、自国の鉄鋼産業が苦境に立たされている国が多い2。中国は、世界の粗鋼生産の約57%を占め、2位の日本(4%)以下を大きく引き離している(Donoso y Cantallopts 2021)。圧倒的な生産規模を誇る一方で、近年中国国内での鉄鋼需要は低迷している。製造業全体での需要落ち込みに加え、不動産販売の不振による建設需要の減少の影響も大きい。中国の製鉄業は巨大な装置産業であるため政策的に生産を縮小する判断は難しく、その結果低価格での海外輸出が進められているという懸念が、各国に広まっている(De Carvalho and Pazos 2024)。中国の製鉄業に対しては、米国やカナダなど多くの国で2019年~23年の5年間に36件のアンチダンピング措置が発動されている。

このような低価格の輸入鋼材により国内製鉄業が苦境に立たされているのは、チリの製鉄業でも同様である。図4には鉄鋼石など鋼材の原料価格(輸入鋼材価格)と、代表的な鉄鋼製品である棒鋼材の国際価格(棒鋼材価格)の2019年からの推移を示している。コロナ禍での資源価格高騰の影響で、2022年4月には輸入鋼材価格も棒鋼材価格もこの期間の最高値を付けた。しかし、それ以後は価格の低下傾向が続き、2024年第1四半期には1年前から棒鋼材価格は11%減少、また製鉄企業の付加価値となる鋼材価格との差(スプレッド)でみると23%の減少と大幅に利益が縮小している。

このような鋼材価格の低下による鉄鋼業の不振は2010年代から続く長期的な傾向でもある。中国からの輸入鋼材と競合する製品を製造するワチパト製鉄所の損失は図5に示すように2010年代からほぼ毎年計上されている。とくに、2021年以降の利益減少幅の拡大は著しく、2023年の損失は3億8550米ドルに達している。CAPグループ全体では、鉄鉱石部門のプラスの寄与のために最終損失は免れているものの、株価は2011年から72.5%も低下する要因となっている。

図4 鋼材の国際価格の推移

(出所)「CAP社財務報告2024年第2四半期」のデータをもとに筆者作成(2024年12月23日閲覧)。

図5 ワチパト製鉄所の損益額推移

(出所)Villena (2024)3のデータをもとに筆者作成。

3.中国製輸入鋼材のアンチダンピング訴訟

最終赤字の大幅な拡大に対応するため、ワチパト製鉄所は主力製品である精銅用粉砕機に用いる棒鋼が中国製輸入品のダンピング被害を受けているとして、2023年11月にアンチダンピング提訴に踏み切った。ワチパト製鉄製棒鋼を原料にして粉砕用球鋼(球鋼)を製造するモリコップ社も、中国製輸入球鋼に対するアンチダンピング措置を求める訴えを、ワチパト製鉄所と共同で提出している。ワチパト製鉄所は、粉砕用鋼材の国内唯一の生産者である一方、モリコップ社は球鋼の製造の原料としてワチパト製鉄所の棒鋼材を用いているほぼ唯一の需要者であり、双方独占という特殊な産業構造となっている点は重要である(図6)。

図6 チリにおける粉砕用鋼材の産業連関

(出所)「CNDP審議議事録」をもとに筆者作成(2024年12月23日閲覧)。

チリの海外からの安い輸入品から国内産業を保護する仕組みは、日本や米国と同様にGATT第6条の「アンチダンピング協定」に基づいた制度設計がなされている。CNDPは、日本の公正取引委員会に相当する国家経済院(Fiscalía Nacional Económica)が主宰し、経済省や財務省、中央銀行など経済関連省庁の代表からなる専門委員会で審議する。海外の企業が不当に低い価格で輸出を行い、それにより国内産業に損害を与えていると認定されれば、適正価格との差に相当する関税率を課されることになる(チリ財務省令1314号)。

ワチパト製鉄所と、モリコップ社のアンチダンピング審査に関する動向については、表1にまとめてある。2023年11月にそれぞれの訴えを受けて、CNDPでは2社に申請の要件であるダンピングの存在(輸出国国内向け販売価格と輸出価格の価格差)と企業への損害、およびダンピングと損害の因果関係に関する情報の提出を求めている。企業間の相対で取引される鋼材の場合、実際にいくらの価格で取引されたのかは、公表されることは少ない。そのため、鉄製ワイヤーなどの汎用製品の市場価格から推測することしかできないケースがほとんどである(陳 2008)。チリの棒鋼訴訟においても、他の鋼材との比較や、また米国やメキシコでの同種のアンチダンピング審査に基づいてダンピングの存在を傍証する手法がとられ、訴えを起こした2社は、棒鋼には25%、球鋼には33.5%のアンチダンピング関税賦課を求めた。

表1 中国製鉄鋼製品のアンチダンピング審査

(出所)「CNDP審議議事録」(2024年12月23日閲覧)、および新聞報道をもとに筆者作成。

CNDPを舞台に、コンサルティング会社による報告などを踏まえ議論が続けられた。2024年3月19日には、暫定措置の結果が公表され、中国製棒鋼については企業ごとに異なるが平均で15.3%、また球鋼については、17.1%のアンチダンピング関税が賦課されることになった。しかし、これはワチパト製鉄所の要求する輸入棒鋼に対する25%関税とは大きく隔たりがあることから、ワチパト製鉄所の親会社であるCAPは決定の翌日には製鉄所の無期限操業停止を発表した。この社会的影響は大きく、続く4月16日の会合でCNDPはワチパト製鉄が求める24.9%の一律追加関税に変更することを決定した4。その決定公表の直後に、ワチパト製鉄所の操業再開が発表されている。

ただし、この決定は最終決定までの暫定措置であり、CNDPでは関係企業からの反対意見陳述が続いた。とくに強硬に反対したのは、Feifanなど輸出中国企業だけでなくチリの企業であるMagotteaux社やElecmetal社も強硬な主張を繰り広げた。これらの企業は、不当廉価の根拠としている参照価格は実際によりも高く見積もられており、高関税賦課により輸入鋼材価格が引き上げられ、大きな被害を受けると訴えた。

CNDPでの審議が進むなか、ワチパト製鉄所の存続についてはCAP経営陣を中心に今後の方針について検討が続けられていた。9月にはCNDPの最終決定が出ることになっていたが、それより前の8月7日に、CAP経営陣は突如ワチパト製鉄所の閉鎖決定を公表した。これを受け、CNDPは続く8月21日の会合で申請者不在を理由に棒鋼の審議を終了することを決めている。閉鎖決定の鍵になったのは、国際的な鋼材価格のさらなる低下で、ワチパト製鉄所の2024年上半期の損失が4億1240万ドルに拡大(前年同期比で赤字幅は48%増)したことである。それだけでなく、閉鎖決定後にマスコミ報道で明らかにされた内容によると、CNDPの審議中に水面下で続けられていたワチパト製鉄所とモリコップ社のアンチダンピング課税後の取引条件に関する交渉が、両社の主張が折り合わずに決裂したことが要因とされている5。両社の言い分は異なるが、ワチパト製鉄所側は、モリコップ社が棒鋼材の価格引き下げに加えて取引量の引き下げも要求したとし、一方のモリコップ社側は、取引量は維持することで合意したが、ワチパト製鉄所側が棒鋼材価格の引き上げを迫ったと伝えられる。

4.提訴の帰結とゲーム理論からの考察

CNDPにダンピングを訴えて、中国輸入鉄鋼製品に付加関税が付加されることは、ワチパト製鉄所、モリコップ社双方にとって有利であったはずである。しかし、なぜ一般に利益の拡大を求めると考えられる民間企業が、最終的にはワチパト製鉄所は閉鎖され、さらにアンチダンピング認定はなされないという、両社にとって不利な結果となる戦略をとってしまったのであろうか。

これを理論的に検討するために、ゲーム理論の枠組みを用いて考えてみたい。もし多数の売り手・買い手が存在する競争的市場であれば、財の価格は市場で需給によって決定され、個々の生産者・消費者は市場価格を所与として利益の最大化を行う。しかし、チリの鉄鋼業のような寡占市場では、個々の経済主体が取引相手の行動を予測しながら自らの経営戦略をたてる、という相互依存の意思決定過程のなかで取引がなされる。このような相互依存の経済主体の行動を分析するために用いられる一般的な枠組みがゲーム理論である。ゲーム理論を用いることにより、通常は利潤を最大化させるという行動原理が想定されている民間企業どうしが、チリの鉄鋼ダンピング訴訟にみられるように、両社とも不利な結果を生むケースにつながることを定式化して示すことが可能になる。

相互依存にある経済主体が時間の推移とともに意思決定を行う様子を図式的に整理するために、ここでは図7に示すような「ゲームの木」(game tree)の形式で考えてみたい。この図は点と枝から構成されるもので、枝は太字で示した意思決定者の行動を表し、分岐点はそれぞれの手番をあらわす6。枝の下の括弧内の値は1つめがワチパト製鉄所の利得を表し、2つめはモリコップ社の利得を表す。ワチパト製鉄所は中国製の安い鋼材価格の影響で、CNDPに提訴しない場合の利得はπCとなる。ワチパト製鉄所は赤字を出しているので、ここではπCはマイナス値をとる。一方、CNDPに提訴してアンチダンピング関税が賦課されれば、輸入鋼材価格が上がるためワチパト製鉄所の製品価格も引き上げられることが期待されるので、その利益(T)を得ると想定される。もう一方のモリコップ社については、ワチパト製鉄所製の棒鋼の価格が引き上げられると自社の利益が減少する(πM-T)ので、それを防ぐには自社が製造する球鋼の価格も同様に引き上げる必要がある。そのためには、ワチパト製鉄に追随してCNDPに提訴することを選択する。この最初の提訴の時点ではCNDPが付加するアンチダンピング関税率は確定していないが、両者ともに提訴する場合は、プラスの利得をもたらす期待値が想定される。

図7 ワチパト製鉄所とモリコップのアンチダンピング提訴の利得

(注)πCはワチパト製鉄所/CAP社の利益、πは、モリコップ社の利益。損失の時は、マイナス値をとる。Tは、反ダンピング関税賦課による利益。THは高関税率適用時、TLは低関税率適用時の利益。3段階目のCNDPによる「高関税率」、「低関税率」選択の青色分は、その前の段階ではどちらかになるかわからない(不確実性のある)状態を表す。

(出所)筆者作成。

CNDPの決定開示後の両社間での交渉の決定にはさまざまな要素が考えられるが、ここではナッシュ交渉解を仮定する。これは、合理的で対等な分配原則を満たす交渉結果であり7、ゲーム理論の交渉解で広く用いられているアプローチである。交渉解を図で示したのが図8である。横軸にワチパト製鉄所損益(原点より右はプラスの利益、原点より左は損失)、縦軸にモリコップ社の損益の値をとっている。提訴前の初期時点(I点)は、ワチパト製鉄所はマイナス、モリコップ社はプラスの収益をあげているので、第2象限の点である。単純化して示すためにCNDPの決定を高関税賦課と低関税賦課の二つと考えると、高関税賦課の場合は2社の合計利益(TH)が多くなり、低関税賦課の場合の利益(TL)は少なくなるのでTH>TLである。それぞれの場合の交渉解は、両社の関税賦課後の利益がプラスになる範囲として着色部分で示されているが、高関税賦課の場合は青色の領域で、また低関税賦課の場合は緑色の領域のいずれかの点で交渉がまとまると考えられる。上述のナッシュ交渉解を仮定すると、関税賦課による利益(THとTL)をそれぞれ均等に分けることになるので、高関税賦課ではH点の(πC+TH/2, πM+TH/2)、低関税賦課ではL点の(πC+TL/2, πM+TL/2)が想定される。

H点とL点のいずれも、両社の利益は提訴前の(πH, πM)に比べて高くなる。とくに高関税賦課の場合は、ナッシュ交渉解で両社ともプラスの収益化が可能である。そういった期待に基づき、ワチパト製鉄所はダンピング提訴に踏み切ったと考えられる。しかし、ダンピング認定の審議のなかで、CNDPの委員にダンピング認定に懐疑的な意見があることが明らかになり、また、中国大使館のみならず中国から安い鋼材を輸入して競合品を生産する国内有力企業からもダンピング措置への強い反対意見が出されてきた。そのため、交渉解はH点ではなく、L点となる可能性が高まった。低関税賦課の場合の交渉解L点では、すでにマイナスとなっているπCの赤字分を補うことができず、ワチパト製鉄所の赤字経営は継続することになる。これと工場を閉鎖した場合の利潤であるゼロと比較したときに、工場閉鎖のほうがCAPグループ全体の企業価値のために有利と判断し、親会社のCAP取締役会は製鉄所閉鎖を決定したと考えられる。

図8 ワチパト製鉄所とモリコップ社の交渉領域の変化

(出所)筆者作成。

モリコップ社は、低関税の場合の自社取り分を少なくし、ナッシュ交渉解の場合のL点ではなく、緑色着色部分のたとえばL'点まで引き下げることで、自社の利益を確保しつつワチパト製鉄所の利得である(πC+TL')をプラスにすることも可能であった。しかし、モリコップ社側はワチパト製鉄所が閉鎖されるリスクを低くみていたため、交渉で譲歩を拒んだ結果、自社にとっても有利な緑色の領域での合意ができなかった可能性が高い。ワチパト製鉄所が閉鎖されて、申立者が不在になって棒鋼材の審査が終わり、その結果自社の球鋼のダンピング認定の可能性が無くなったにもかかわらず、モリコップ社はCNDPに強く審議の継続を訴えていることから、このことがうかがえる8。結局、ワチパト製鉄所は閉鎖、モリコップ社は提訴前の低い利得(πM)となり、F点という両社にとって最適解からかけ離れた結末になったといえる。

さらに、ここまでのアンチダンピング訴訟の結果をめぐる考察では、当事者であったワチパト製鉄所とモリコップ社の2社のみを対象としてきたが、ワチパト製鉄所閉鎖の影響という観点では、広い意味での利害関係者を考慮に入れる必要がある。まず、直接の影響としてワチパト製鉄所の直接雇用約3000人の失業が発生するが、それに加えて関連会社の従業員2万人余りが職を失うと想定されている。ビオビオ州の失業率は現在8.5%程度だが、これが3%程度押し上げられて12%に達すると見込まれている。また、1000社を超える関連企業は中小企業も多く、その売上損失は3億4000万米ドルと想定されている。コンセプシオン大学の推計では、ワチパト製鉄所の閉鎖によりビオビオ州の総生産を3%押し下げる影響があるともいわれ9、この規模の工場閉鎖の影響は非常に大きいといえる。また、チリの長期的な産業発展に対する影響も看過できない。機械工業や輸送機器製造業といった、いわゆる「ものづくり産業」の比重が小さいチリにおいて、ワチパト製鉄所は数少ない大規模製造業企業であった。その閉鎖は、鉄鋼生産技術にかかわる人的資本の喪失も含め長期的な経済成長に大きな損失といえるだろう。

おわりに

ダンピングは、通常輸入国の競合財を生産する企業と輸出国との利害対立の観点で分析されることが多い。しかし、知里の鋼材のケースでは、最終的に国内の双方独占の垂直的取引関係にある2社の利益分配交渉の決裂が主因となって、ダンピング認定はなされず、生産企業は撤退するという双方に不利な結末に終わった。

多くの国で、中国製鋼材輸入に対して反ダンピング認定がなされるなかで、チリではなぜこのような結果になったのかについて、本稿ではゲーム理論のフレームワークで検討した。その結果、反ダンピング審査で低い関税率の適用の可能性が高まるなかで、交渉領域が狭まったにもかかわらず、自社の利益獲得にこだわった企業戦略の結末という構図がみてとれる。

ワチパト製鉄所のような雇用規模が大きく取引企業の数も多い企業の閉鎖は、地域経済に与える影響が大きい。これまで担ってきた教育活動や地域医療の担い手になるなどコミュニティ活動も継続が懸念されている。こういった広義のステークホルダーの外部利益を考慮に入れることなく企業の経営上の判断から工場閉鎖が決定されたことは不幸な結末といえる。本稿の分析で示したように、当事者である2社が合意し存続できる交渉領域はありえたはずである。自由な競争的市場を重視するCNDPの立場を前提とするにしても、産業界の調整能力が問われる結果となった。

本文の注
1  チリ鉄鋼業の黎明期の歴史については、Echenique Celis y Rodríguez Gómez(1990)を参照。

2  2000年代からの米国の対中国鉄鋼製品に対するアンチダンピング措置については、陳(2008)を参照。中国を「非市場経済国」と分類し、高い関税率を課したことがわかる。

4  ただし、CNDP議事録によると、この会合で中央銀行と国家経済院は根拠不十分ということを理由に、反対票を投じたことが明らかになっている。

5  Ignacio Badal, “Huachipato dejará de operar tras 70 años.La Tercera, 7 de agosto, 2024.

6  本稿で用いている情報不完備ゲームの詳細については、岡田(2021)第5章を参照。

7  正確には、パレート最適性、対称性、効用の正一次変換からの独立性、無関係な選択肢からの独立性の四つの公理をもとに、交渉解を求める。詳しくは、岡田(2021: 295-297)を参照。

9  Carlos Alonso, “Fin de Huachipato.” La Tercera, 30 de agosto, 2024.

引用文献
 
© 2025 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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