マーケティングジャーナル
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マーケティングケース
「雑貨」という謎カテゴリーを創った男,長谷川義太郎
― 文化屋雑貨店 ―
松井 剛
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2019 年 38 巻 3 号 p. 111-124

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Abstract

このケースでは,1974年から2015年まで東京の渋谷と原宿で営業した伝説的な雑貨店,文化屋雑貨店に注目する。雑貨とは,どこまでから雑貨であり,どこからが雑貨ではないかという範囲設定が分からない不思議な製品カテゴリーであるが,現在では雑貨店が日本各地で見られるようになった。この日本独自の製品カテゴリーを創造したのが,文化屋雑貨店店主・長谷川義太郎である。長谷川は「雑貨」という概念を通じて,消費者のみならず,ファッション・デザイナーや雑誌編集者など内外のクリエイターに対して,現在に至るまで多大なる影響力を与えてきた。このケースでは,本人によるオーラル・ヒストリーに基づいて,長谷川が文化屋雑貨店を通じて実現した市場創造について見る。

図1

2015年の閉店前の文化屋雑貨店

出所:長谷川義太郎氏より提供

I. はじめに

このケースが取り上げるのは,1974年から2015年まで東京の渋谷と原宿で営業した伝説的な雑貨店,文化屋雑貨店である。雑貨とは,どこまでから雑貨であり,どこからが雑貨ではないかという範囲設定が分からない不思議な製品カテゴリーであるが,現在では雑貨店が日本各地で見られるようになった。この日本独自の製品カテゴリーを創造したのが,文化屋雑貨店店主・長谷川義太郎である。長谷川は「雑貨」という概念を通じて,消費者のみならず,ファッション・デザイナーや雑誌編集者など内外のクリエイターに対して,現在に至るまで多大なる影響力を与えてきた。このケースでは,本人によるオーラル・ヒストリーに基づいて,長谷川が文化屋雑貨店を通じて実現した市場創造について見る。

II. 創業に至るまで

1. 生い立ち

長谷川義太郎が,義典と篤子の長男として,競走馬で知られる社台ファーム(千葉県富里)で生まれたのは,1946年5月18日のことである。東京の両国と錦糸町の間にある緑町で,外科医の長男として裕福な家庭で育った。子どものころから銀座のデパートに出かけるような生活を送っており生粋の東京文化を体験した。その頃のことを長谷川は次のように述べている。

おふくろはモガだったから,すごい昔の帽子を100個ぐらい持ってて,バリーの靴だって何十足もあって,4畳半ぐらい全部,靴箱だったんですよ。いい物を見てるからっていうのも確かにあるんですけども。髙島屋に行って,いつも特選の売り場で遊んでましたもんね。小学校の頃ね。おふくろが食事の買い物とかしてる間に,僕は特選の売り場をぐるぐる回ってね。それこそ,イギリス製の歯ブラシだとかああいうのを眺めててね(2018年7月2日インタビュー)。

写真家でもあった伯父の福光太郎も,長谷川に影響を与えた人物である。福は,1930年代のアメリカに渡り,帰国後は横浜の元町で骨董屋をやっていた。長谷川は小学生の時から伯父の家に遊びに行って,舶来の文物に接する機会を得た。

小学校に入ってからも夏休みや冬休みになると伯父さんの家へ泊まりにゆき,切手を見せてもらったり,それをのぞくルーペやピンセットに驚かされたり,なんだかわからない耳かきみたいな小さなドライバーや,横文字の入ったブリキのカンやなんかに感心したり。朝食はカリカリに焼いたベーコンエッグで,コーヒーは豆からたてていた。腕には大っきな金色のオメガが,指には金色の指輪が,下町に育った子供がそれまで見たこともなかった人間や物がつぎからつぎへと登場する。子供ながらにぐんぐんひきこまれていった(Hasegawa, 1983, p. 89)。

こうした経験は,珍しい舶来体験ということに留まらなかった。その後の文化屋雑貨店の有り様を決定づける審美的な体験もするのである。

例えば庭にいる金魚とか見ると,こんな顔をしたのがいるわけですよ。何これ,ランチュウとかいうんですよ。小学生で,そんな見たことないじゃないですか,全然,下町の子が。そういうのも,これは美しくないのだけど美しいもんなんだっていう概念とか,そういうのがだから,どんどこ入ってきちゃうわけですよ(2017年10月14日インタビュー)。

「美しくない」ものを「美しい」という見立ては,福のような趣味人であるがゆえのものの味方である。こうしたまなざしを与えてくれた叔父は,長谷川にとって大切な存在であり続けている。後に福の遺品をもらい受けた長谷川は,福の写真を文化屋雑貨店のポストカードとして販売した。さらには2017年には,写真家の五味彬らの協力を得て,福の展覧会を開催している。

このように文化資本に恵まれた家庭に生まれた長谷川は,幼少期から独特の審美眼を身につけることとなった。ランチュウに留まらず,世ではグロテスクとかタブーとされるものにまで興味を持つのである。例えば小学生の時のことを次のように述懐している。

怖いことというと思い出すのは,小学生のとき,松本清張原作の映画で,小人がちぎった人間の腕を抱えて夜の街を歩くシーンを見た記憶。それ以来,小人が怖い。怖いもの見たさで,小人が出てくる映画は必ず観ちゃうんだよね(an・an, 1985, p. 51)。

また当時のことを,従兄弟の吉田照哉は次のように語っている。

実は義太郎さんは開業医の息子で,甘やかされっ子の典型でした。彼が持っていた遊び道具やジーンズは当時としては珍しいものばかりで,子ども心にもまぶしいく映ったものです。それだけに父上が死去され,家業の病院をたたむときには,人しれない迷いや苦労があったはずです。しかし,幼少時の恵まれた環境がブレのない美的センスを育み,後の急転直下の逆境こそが不眠不休さえ苦にさせないバネとなったとは考えられないでしょうか(Hasegawa, 2014, pp. 162–163)。

番町小学校,麹町中学に進んだ長谷川は,その後,影響を与えたり受けたりする友人と出会う。例えば麹町中学の同級生には,1987年にシブヤ西武ロフト館を立ち上げた水野誠一(後に西武百貨店社長,参議院議員)やビギグループのデザイナー・小栗壮介などがいた。小栗によると,長谷川はプラモデル好きで,アメリカのマーテル社製の入手しにくいプラモデルを作っていたという(Hasegawa, 2014, p. 163)。

長谷川独自の審美眼は,青年になる過程でさらに研ぎ澄まされていった。例えば美大を目指す浪人時代に,五味孝雄という藝大生(現在,陶芸家)にデッサンを学んでいたときに「花を描け」と言われた。長谷川があえて選んだのは,仏壇や墓に供えるキンセンカという花であった。普通の人々が美しいと思うものを選ぶことを,徹底的に忌避するのである。

五味は長谷川に「電車に乗って前の座席を見てごらん。十人座っていると,まずきみはどの人かに眼がいくだろ。それがミニスカートのおねえさんだったり,ブツブツ言っているサラリーマンだったり,なにかポイントを見つけるはずだ。その訓練がデッサンに役立つもんだよ」と言ったという(Hasegawa, 1983, pp. 39–40)。

このように何かを描くということの前に,何を見出し選び出すのか,ということの意義を長谷川は強く意識するようになる。こうした思考の構えというべきものが,後に自分が売りたい雑貨を選び出し,あるいは創る際に発揮されたのである。

浪人時代はデッサンを描きまくっていたという。その努力が実り入学した武蔵野美術大学でも,「普通」を避ける姿勢は貫かれた。例えば「壁」という課題が出たときには,他の学生が高層ビルやマンションの写真を撮ってきたのに対して,長谷川は,あえて工事現場の板壁やガード下の汚水の流れる壁を撮った(Hasegawa, 1981)。この感性は今も変わりがない。

汚いものだとか美しくないものだという概念が,みんなと違ってくるわけです。だから今でもそうですけど,なんだろうな,桜見に行ったり花火見に行ったりしても,あんまり感動しないんですよ。つまり,自分で見つけた美しいもののほうがいいわけです(2017年10月14日インタビュー)。

2. デザイン事務所時代

1970年に大学を卒業後,就職したのはデザイン事務所である。3年あまり勤めた。そこでの経験で得たものはあったものの,一方で会社員には向かないこともまた痛感したようである。そもそも社員旅行のような行事が嫌だったことに加えて,自分のデザインがどのように評価され影響力を持つのかが分からず,自分のデザインがクライアントの意向次第で変わってしまうことが不満だったという(Hasegawa, 2014, pp. 47–48)。ただ,長谷川の後に入社した菊池信義のデザイナーとしての類いまれなセンスから学ぶことが多かったという。後に装幀家として第一人者となる菊池は厳しかったという。

僕は菊地さんにちょっと,うんといじめられてたから,菊地信義さんに。すごいデザインうるさい人なんですよ,ものすごい人なんです。見出しの文字も直させられるんです,だからこのぐらいの大きさのものも,これも形が悪いと,だからおまえこれ直せっていわれるんですよ。

普通なんかでっかいタイトルの文字ぐらいしか,そんな何て言うのか,デザイナーが直すってことしないじゃないですか,こういう本なんか作ってて。でも,あの人は全部この辺から直して,この文字組みがだめだとか,ものすごく厳しかったです。夜中じゅうやらされてましたもん(2017年10月14日インタビュー)。

この会社員時代に,後の文化屋雑貨店につながる試みを長谷川はしていた。金太郎の腹掛けとか,蔦谷喜一のぬり絵(後述)を事務所に勝手に吊して展覧会をしていたのである。これを見た菊池らが,買ってくれた。こうした経験を経て,会社員を辞めて独立することを考えるようになった。辞めることへの不安はなかった(Hasegawa, 2014, p. 51)。

III. 渋谷での創業以降(1974年~1987年)

1. 病院バザールとビギでの社内セール

デザイナー時代には結婚し,長男の踏太も生まれていた。開業医の父親が亡くなったのはその頃のことである(Hasegawa, 1983, p. 10)。後を継ぐ者が家族にいなかったため,病院を閉じることにした。そこで長谷川が思いついたのは,病院で使われている器具やベッドなどを売り払う「病院バザール」である。赤と緑に塗り上げたベッド30台,女性用のガラスのしびん,メスや堕胎用の手術道具,器械類を収める棚,心電図のグラフやレントゲン写真など,買ってくれる人がいれば何でも売ったという(Hasegawa, 1983, pp. 16–17)。

その後,同じような試みをアパレルブランドのビギの社内セールという形でおこなった。セールをすることを勧めたのは,中学の同級生だった小栗である。当時のことを,小栗は次のように説明している。

私が勤めていたビギのヒルサイドテラスの空部屋を無償で君に提供し,給料日にビギ社員向けバザーを実施したところ,ワゴンのバンに目いっぱい積んできた商品は稲葉賀惠先生はじめ皆さんのおかげでほぼ完売の好結果,このことが後日原宿に文化屋雑貨店を始める自信につながったと君から聞いてうれしい限りです(Hasegawa, 2014, pp. 163)。

この2つの成功体験が,文化屋雑貨店の原形となり,また雑貨屋を創業する強いモチベーションになった。これに加えて,影響を受けたのが,垂水元が創業したハリウッド・ランチ・マーケットである。文化屋雑貨店より数年前に開業したハリウッド・ランチ・マーケットは,長谷川の目を開かせるものだった。

それまではファッション・デザイナーとか外国から持ってきた物が洋服というファッションだったんです。そこに古着を持ってきたんです。みんなビギにしろ何にしろ,洋風な真似をしていたわけじゃない。誰かのデザイナーの真似とかゴルチエの真似とかね。そんなのでできあがったメーカーばっかだったのが,自分で選んだものだけでファッションを作ったんです。それまでは生産することがファッショだと思っていたのが,セレクトするのがファッションになったんですよ,そこで。そんなこと今までなかったわけ(2018年7月2日インタビュー)。

例えばハリウッド・ランチ・マーケットでは,アメリカのネズミ捕りを売っていた。この店では,もちろんネズミを捕まえたい人のために売っていたわけではない。このように自分の審美眼に基づいて仕入れた好きなモノを好きなように売るというスタイルに,長谷川は強い興味を持ち,自分でも積極的に行うようになる。

こうしたビジネスの仕方を長谷川は「空間移動」と呼んでいる。空間移動とは,「時代遅れとされている浦和とかで売れ残っているものを,渋谷の文化屋に持ってくると,別の価値が出たり新しいジャンルができちゃうこと」である(Hasegawa, 2014, p. 81)。この空間移動を徹底的に行ったことこそが,文化屋雑貨店が他の追随を許さないユニークさであった。

2. 創業

文化屋雑貨店が開業したのは,1974年3月24日のことである(Hasegawa, 1983, p. 9)。古い木造アパートを改修した店舗だった(図2)。

図2

創業当時の文化屋雑貨店

出所:長谷川義太郎氏より提供

「文化屋雑貨店」という名前を決める上で,「長谷川義太郎商店」といったアイディアは400以上考えたという。その中でもこの屋号は,4つ目ぐらいに思いついたという。次のように述懐しているように,横文字ではなく漢字の名前に決めた理由は,いかにも長谷川らしいものである。

やっぱりデザインの仕事をしてたせいでしょう。横文字,大嫌いだったから,デザインも横文字じゃないですか。全部,横文字じゃないですか。その当時の会社が,だから,松下電器がパナソニックになったり,全部,横文字に変えていくという時代だったから。(中略)世の中が全部横文字になるんだったら,1文字でも漢字があると目立つんですよ。だから『an.an』の最後に,今回の出展してくれたお店の名前がずらーって並ぶそん中全部横文字なのに,「文化屋雑貨店」って1個あると,目立つ目立つ(2017年10月1日インタビュー)。

「文化屋」と「雑貨店」という2つの屋号が並んでいるのはおかしいと思ったのだが,それがかえって「訳が分からなくていい」と感じたそうである。しかし当時は「雑貨」と言えば,荒物や金物を意味することばだったので,当初は釘やハンコやバケツを買いに来る客がいたという。たばこ屋の看板を店先に置いていたので,しまいにはたばこを買いに来る客もいたという。

最初は,「おい,釘ねえのかよ」つって,おじさんが来ましたし,「はんこあります?」とかね。ちょうど消防署の前で,あそこの上,区役所だったから,「はんことか書式のはねえのか」とか(2017年10月1日インタビュー)。

3. ファッション誌との関係

文化屋雑貨店が開業したところは,消防署や保健所しかない人通りの少ない場所だったという。そんな場所に店を開いたのには,長谷川なりの考えがあった。この通りはファッション業界の人々の往来があったので,スタイリストたちに,撮影用の小物として目を付けてもらうような商品を地方で買い集めて並べたのである(JICC Shuppankyoku, 1989, p. 44)。こうしたやり方について,長谷川は次のように語っている。

影響力ということを考えると当時から雑誌というのが絶大な影響力を持っていた。ぼくも菊池信義さんの下で,「an-an」の仕事なんかをやっていたことがあったから,それを痛感していた。だから「これを利用すれば,お金を使わなくても,僻地にいても,人が来てくれる」と思った。だったら,駅のまん中になくてもいいわけでしょう。じゃあ,それを利用しようということで,雑誌屋がくるのは,当時,原宿と渋谷と青山ぐらい,このエリアしかなかったわけ。デザイナーブランドの最初のころだから(Takahashi & Hasegawa, 1989, p. 68)。

戦略的に考えたのは,立地だけではなかった。こうした人々に対して,積極的にアプローチをかけたのである。それはダイレクトメールであった。

最初はカメラマンと,『an・an』の仕事をちょっとやってたから,カメラマンと,それからファッションデザイナーとスタイリストと。スタイリストは,その時代はあまりいなかったと思います。デザインの専門家みたいなところを狙って,全部,更半紙だったっけ,自分で絵を描いて,文字を入れて,それで送ってたんですよ,全部。それもボロボロの封筒に入れてね,全部送って。DM全盛の頃だったから,ボロボロの透けて見えるようなよこしまな封筒に入れて送って。そうしたら,結構引っかかりました(2017年10月1日インタビュー)。

そのダイレクトメールは,ビラ1枚いっぱいに手書きで書き連ねた文章である。その一節はこのようなものである。

使う人になじんで古くなった

からとすてることのできない,道具・雑具,そんなも

のばかりを集めてみました骨とう趣味で集めたので

はなくみな使っていただきたいものばかりです。化

学用のものも,工場用のものだろうと何か文化を

もったそんなものを手あたり次第お目にかけ

てごらんいただきます,一つしかないものもう

製造していないものが多く,品切れのサイはお許

し下さい。毎日の様に足で探し廻っております

のでご期待下さい。日本の工業デザイナーの改悪

の証をごらんいただける事と思います。

文化屋雑貨店一同首をながくし皆様のおこし

をお待ちいたします。乱筆乱文お許し下さい。

古いが骨董品ではなく日常で使って欲しいとか,自分が売りたいものにも関わらず「日本の工業デザイナーの改悪の証」と,くさしてみるなど,長谷川ならではの審美眼を宣言する内容であった。

このビラが功を奏し,文化屋雑貨店は,ファッション誌のスタイリストやデザイナーなど,珍しいものを手に入れたい人々が集う場になっていった。山本寛斎,菊地武夫,コシノジュンコといったファッション業界の主要人物が顔を見せる店となっていった。

来店客とのコミュニケーションの手段となったのが,「探し物をどうぞお書き下さい」という創業当初に店内に置いていたノートである。それには「長方形のちゃぶ台が欲しい」とか「ばらの模様の湯飲み」とか「月光仮面のメガネ(ワクが白で中が青か黄)」など,欲しいものを客が思い思い書いてある。こうしたものの多くは,普通の店では手に入りにくいものである。そうしたものを説明するためにイラストを書く客も少なくなかった。あるいは「10円以下(10円のもはいる)のだがし(引用者注:駄菓子)とあと古本もはじめるともうかると思う」といった書き込みなどあるように,文化屋雑貨店は,客と店の距離感がとても近い店であった。

このように長谷川はファッション誌の影響力を十全に活用してきた。しかし雑誌メディアがトレンドを作ろうとする「いかにも」なプロモーションには反発した。自著も含めて彼がいろんなところで繰り返し語ったのは,自分の店の前の通りを男性ファッション誌『ポパイ』が「ファイヤー通り」という名前を付けたことであった。

名付け親は『ポパイ』です。元祖として,特集で紹介したいと言われたけど,取材を断りました。鳥越のおかず横町のように自然発生的なものならともかく,あまりにも人為的すぎましたのでね。マガジンハウスのいちばん悪い面が出たんじゃないかな(JICC Shuppankyoku, 1989, pp. 42–43)。

ただ長谷川の反発とは裏腹に,「ファイヤー通り」という名前は,その後,ひろく定着した。この名前が拡がるとともに,若者向けの店がこの通りに進出するようになり,若い人々が訪れる街と変容を遂げた(Tsunashima, 1991, p. 61)。例えばビームスの2号店が1977年に開店している(Hanako, 2015, pp. 92–93)。

4. 「空間移動」から「欲しいものがなければつくればいい」へ

創業期には,「空間移動」のために問屋街や地方を回る日々だった。若干28歳だった長谷川が問屋街に入っても,最初は「学生さん,要らないわ」と相手にされず,苦労したという。そこで長谷川は一計を案じた。

ジャンパー着て集金バッグ持ってるおじさんが行くと,若いやつが行っても普通にあいさつしてるから,あれまねしてみようと思って,集金バッグを探したんですよ。そしたら,松野屋(注:バッグ問屋)に集金バッグ売ってたんですよね。あれは黄土色かなんかの集金バッグで,チャックがぐるっと前あって,革ひもが同色の革ひもで,こうやって腕に引っ掛けられるようになってるんですよ。あと,ズボンのここに引っ掛けたり。魚河岸のあんちゃんたちがここに付けてるようなやつ,集金のときの。それを持って問屋街に行くようになったら,一応みんな,すいすい入れるわけですよ。これはいいなと思って(2018年7月2日インタビュー)。

ただそこで終わらないのが長谷川である。今度は,この集金バックを自分の店で売ったのである。黒いビニール製のものがよく売れたという。

地方を回って見出したものは,プラスチックのラジオやセルロイドの筆箱など,いろいろなものがあった。そのひとつが,農作業向けの藍色のパンツである。

藍色の田んぼパンツだって何万本って売っちゃったんですよね。それだって結局は,田舎の人は毎日見てるわけじゃない,おばあちゃんがはいてる,畑でやってるのは。これがファッションになるとは思わないわけですよ。だけと,藍のズボンは何回も洗えばいい色になってきて,涼しいし柔らかいし,なおかつ着物を着た上からはけるぐらいだぼだぼ,でかくて,ゴムで。だから,最高のファッションなんだけどね。それが,概念を変えればすごくいい物になるわけですよね。コム・デ・ギャルソンが同じようなズボンを何万円で売ったんですよね。そしたら余計売れるようになっちゃってね,うちが(2018年7月2日インタビュー)。

「概念を変える」ことで,日常的なモノに新しい価値を見出すことが,初期の文化屋雑貨店の取り組んだことであった。そうした中で,単に仕入れるのではなく,問屋や工場に頼んで,文化屋雑貨店の品揃えにふさわしい雑貨を発注し製造してもらうようになった。「欲しいものがなければつくればいい」と考えたのである(Hasegawa, 2014, p. 82)。その一例が,「残糸シリーズ」である。

愛知県一宮市の工場で捨てられる余り糸で作られる毛布を見出した長谷川は,ジャンパーや短パン,帽子などを作るように依頼した。そこに見出す素晴らしさを長谷川は次のように言っている。

模様はね,残糸の場合はきまって横段なんですよ。ほら,工場で働くのがおじーちゃん,おばーちゃんだから,複雑な絵柄は織らないわけ。で,単純な横段になっちゃう。でもそこがかわいい(an・an, 1985, p. 68,傍点は引用者。以下同様)。

このように「かわいさ」と見つける長谷川の審美眼は独特なものである。それだけではなく,それを表現することにも長けている。実際,残糸シリーズについては,次のようにも言っている。

そこで作られている毛布は,太い赤や緑やグレーや青,と大胆な縞模様。まるでこれは買ったことのないミッソーニ(an・an, 1985, p. 68)。

このように「概念を変」えることで生み出された雑貨を世に広めるためには,ただ独自の審美眼を洗練させるだけでは不十分である。そこに見られる魅力を「買ったことのないミッソーニ」と言語化して巧みに表現する力量も問われるのである。

長谷川がこだわったことは,こうしたユニークな品揃えを安く提供することであった。高ければ良いものであるという価値観に対する強い反発心が常にあったのである。1984年に食について書いたエッセイで次のように語っている。

これは雑貨でも洋服でも同じことなのですが,安くてうまいが人の道。高くてうまいものしか知らない人立ちは,あたかもブランドバッグ礼賛者の如く誹られ,安くてうまいものを知る人は,新しいインテリとして社会に君臨するのである―なーんてね(Archive co., ltd., 1984, p. 21)。

5. 香港雑貨:キッチュの発見

国内での仕入れやものづくりが文化屋雑貨店の初期のビジネスの中心をなしていたが,香港の雑貨に邂逅する機会が,創業して2年後に訪れた。叔父の吉田善哉がアメリカ・ケンタッキー州で経営していた牧場に行き,1ヶ月ほど滞在したのである。田舎のいろいろな店を回って,ガラスびんや仕事用の手袋や洗濯板などを大きなブリキのトランクで15個ほど買ってきた(Hasegawa, 1983, p. 140)。それらは,従兄弟の吉田照哉がサラブレッドを輸入するためにチャーターした貨物機で運ばれた(Hasegawa, 2014, p. 163)。

日本に帰ってそれらを調べてみると,アメリカ製のものはほとんどなく,西ドイツ製,ポルトガル製,スペイン製などが混じる中,もっとも多かったのが香港製だった。これが香港の雑貨に興味を持ちだしたきっかけであった。

当時,百貨店などから相次いで文化屋雑貨店の出店依頼があったものの,長谷川はいつも断っていた。しかし,その原則を破ったのが,西武百貨店池袋店への出店である。西武百貨店の三宅哲久からの池袋店4階への出店依頼を受ける代わりに,西武に香港との貿易をしてもらうようにしたのである。長谷川と三宅は香港に買い付けに行って,まず西武が買い上げて,それを文化屋雑貨店が西武から購入するという仕組みである。香港で「キッチュ」な雑貨を見つけた時の興奮を,1983年に著した初の著書『がらくた雑貨店は夢宇宙』で次のように述べている。

ゴムでできた人体模型。同じくゴム製の耳や手のミニチュア。ステンレスの脱脂綿入れ。さまざまな包装紙がそれだけで楽しい石けんの数々,何に効く薬かわからねど,容れ物のただただけばけばしきブリキのカンに感心。手の形を柄に彫り込んだ歯ブラシに涙し,鍼治療用のツボを記した人体図によだれを垂らす。

なんというキッチュ!(中略)本当のところ,香港へやってきた目的は,世界中の輸出されている貿易物を捜しだすことだったのに,この生活に根ざした生産品を見てしまうと,当初の方針はコロリと変わってしまった(Hasegawa, 1983, p. 144)。

文化屋雑貨店なり長谷川の独自の審美眼を,あえてひとことで表現するとするならば,この「キッチュ」というキーワードになる。キッチュは長谷川にとって大事な概念である。例えば,読書家でもある長谷川はGillo Dorflesによる1969年の著書『Kitsch: An Anthology of Bad Taste』(London: Studio Vista London)の英語版とイタリア語版の両方を持っており,その「Bad Taste」に面白みや美しさを見出している。

6. あえて顧客を排除する:「やんぴ」

後述する通り,長谷川は,一貫していわゆるマーケティングを忌避してきた。売りたいものを売る,売れても追加発注をしない,とマーケティングの常識を真っ向から否定するような商売を続けてきたのである。さらに言えば,たとえ売れたとしても,それを買いたがる客が長谷川の気に入らない人々であれば,それを売るのをやめてまでして顧客を排除していたのである。例えば,主力商品のひとつであったブリキのおもちゃを売るのをやめた経緯を次のように述べている。

ブリキのおもちゃをずっとやってたら,ばかなコレクターがたくさん集まってきてさ。それで「長谷川さんさ,今度さ,飲みに行こう」とかさ。店主と友達になって,ブリキのおもちゃの新しく入ったのを,一番最初に自分が欲しいみたいなやつがたくさん来るんですよ。コレクターってそういう性格してるんです。グジョグジョ,もう買いもしないのに一日中いたりするようなのが,たくさん集まっちゃったんです。だから,ブリキのおもちゃ,やんぴっつって辞めちゃった(2017年10月1日インタビュー)。

この「やんぴ」は長谷川が口にすることが多いキーワードである。この「やんぴ」とは,主に子どもが遊びなどをやめる際に宣言するときに使うことばである。長谷川は,売りたいものを売るだけでなく,誰に売るのか,誰と付き合うのか,ということもまた,自分の審美眼に基づいて選び続けたのである。

7. 「きいち」の再発見

その一方で,自分が感じ入ったものやそれを創り出す人物には徹底して関わろうとする。その1人が大正3年生まれの画家・塗り絵作家の蔦谷喜一である。大きめな目に太い足,三頭身といった独特な絵柄のぬり絵は,「きいち」の名前で戦後,爆発的なブームとなった(図3)。上で述べたように,デザイナー時代に,きいちのぬり絵を事務所で売っていた長谷川は,問屋やぬり絵の版元から手がかりを得て,埼玉に住む蔦谷に会いに行ったのである。

図3

きいちグッズのデザイン例(軍手へのプリント用デザイン)

出所:長谷川義太郎氏より提供

「長谷川さんみたいな若い人が,どうしてわたしの絵がいいというのかわかりません」と蔦谷は首をかしげたものの,長谷川の働きかけで雑誌などで紹介されるようになり,再び脚光を浴びることになった(Hasegawa, 1983, p. 116)。1978年には資生堂ザ・ギンザホールで個展が行われ,各地で展覧会が開かれるなど,第二次ブームというべき状況となった。

きいちのポーチや定期入れ,ハガキは,その後,文化屋雑貨店の定番商品となる。売れたときには,きいちグッズだけで1日で260万,月で3,000万円もの売り上げたこともあった(2017年10月1日インタビュー)。文化屋が売るののは低価格のものばかりである。例えば,きいちのTシャツは980円だった。この価格を考えるとすさまじい売上量であることが分かる。

IV. 原宿への移転以降(1988~2015年)

1. 地上げによる移転(1988年)

1980年代後半には,渋谷での店舗販売と卸で年間4億5千万円もの売上になっていた。そんなときに借店舗がビルの建て替えのため立ち退かなくてはならなくなった。

テレビで『月光仮面』やってた俳優さんが地上げ屋になっててね。借家なのに立ち退き料くれるっていうし,店周辺もにぎやかになり過ぎたから移転しちゃった(Sampo No Tatsujin, 2005, p. 28)。

地上げの対価として2億5千万円をもらった長谷川は店舗を原宿に移転した。売りたいものを売るという長谷川のポリシーは,移転後にさらに徹底された。

売りたいものだけしかつくらない。売れるものは一切つくらない。そのときに例えば,黒がはやってるとするじゃん。コムデギャルソンでわあわあつって,なんでもみんな黒で作りゃ,なんでも売れるんだよね。バッグだろうとなんだろうと,靴だろうと,みんな黒が売れる。そんときに赤を作る。(中略)3年ぐらい全然人来なかったんです。見事に(2017年7月14日,トークイベント「松野屋 All Thats 雑」での発言)。

あまりにも客が来なかったため,店の前で子どもとキャッチボールをするような日々であったという。そうであっても長谷川のこだわりが変わることはなかった。

2. 売上や利益よりも影響力

売りたいものを売る,さらには売れても追加発注をしない,というポリシーが示すように,長谷川が目指していたのは,売上や利益の拡大ではなく,デザインやファッションなどの世界において,彼独自の審美眼の影響力を発揮することだった。実際,文化屋雑貨店は,業界人のみならず,山口小夜子,山本寛斎,ヴィヴィアン・ウェストウッド,アンディー・ウォルホール,ポール・スミス(後述)など,世界で活躍するモデルやデザイナーらも訪れる影響力のある店になっていた。マーケティングの定石からすれば,この影響力を最大限に利用すべく,多店舗化をしてビジネスを拡大することを目指すであろう。しかし長谷川は自分の店を多店舗化するつもりがまったくなく,閉店に至るまで1軒の店だけを営業し続けた。

むしろ東京以外の各地で文化屋雑貨店を開業したい者が現れると,長谷川の目に叶った者だけに対しては店名の使用料などを取らず,気前よく営業することを認めた。実際,広島,豊橋,金沢,札幌などにあった文化屋雑貨店は,長谷川が経営していたものではない。これについては,長谷川は次のように語っている。

お店はだから,チェーン展開するっていうのは,最初っからなかったからなあ。これは絶対,あり得ないだろうなあと思ってたしね。目的がだから,商売じゃなかったんですよ。目的が,自分のデザインセンスみたいなものを,影響力をどう出るかどうかっていうのだけを,最初に決めちゃったから,それ以外やれなくなっちゃったね(2018年7月2日インタビュー)。

上で述べたようにデザイナー時代に,自分の仕事が持つ影響力を知ることが難しいことを長谷川は痛感していた。それを知るために,文化屋雑貨店を始めたと,次のように述べている。

「なんで始めたんですか」って,「コンセプトは」とか,「コンセントはねえよ」ってね。だから,「インフルエンス。影響力だけなんだから」ってね。それで,どうふうに自分がデザイナーとしてやってきて,結局,その影響力みたいなのがどこに行ったか全然見えなくなっちゃうんですよ。一介のデザイナーっていうか,広告の仕事してた時に,なんにも反応が返ってこないんですよね。唯一返ってきてたのが『an・an』だったじゃないですか。なんか載っけると,すぐ読者からすごい来るんですよ。ほおと思ってて。僕は,だから,そっちのほうにいき始めたんですよね。だから,影響力みたいなもので,どこまで自分の考え方とか何かが,どっか突き当たりまで行って戻ってきてもいいから,どこまで広がるかやってみたいっていうのが最初だったんですよ。3年ぐらいやったらやめようと思ってたんですよ。またデザイナーやろうと思ってたんですよね(2018年7月2日インタビュー)。

さらに言えば,文化屋雑貨店がヒットさせたモノを他の業者が真似して売ることについてもまったく頓着しなかったし,真似されたこと自体が自分に影響力があった証左であると考えている。ここでもマーケティングの定石から外れた行動を取っていた。

今いうスタイリストバッグっていう,あのバッグの原型は文化屋が作ったんですよ。それを,日暮里にいた面白い業者のおじさんがいて,その人に渡して作らせてたんだけど,アメ横に流しちゃってね。アメ横で結構売れてて,その後で渋谷のほうの何とかっていうメーカーがまねして作り始めてね。すんごい売れて,その会社,15億ぐらいになったって言ってた。そこの専務も本当に,「文化屋さんには足向けて寝れんね」とかって言ってましたよね(2018年7月2日インタビュー)。

3. ポール・スミスとのコラボレーション(2013年)

長谷川が追求した影響力は多方面に及んだ。その帰結の1つが,ポール・スミスとのコラボレーションである。スミスは,1982年に初来日して以来,文化屋雑貨店のファンであり続けた。そのきっかけをつくったのが,ハリウッド・ランチ・マーケットを創業した垂水元である。その経緯を長谷川は次のように語る。

最初,仕事始めて3年か4年ぐらいのときに,ランチマーケットのおやじが連れてきたんですよ。「君んとこの靴下,デザインがすごい気に入ってるから」って,「この人ファッションデザイナーだ」って言われて。ファッションデザイナーっつったってポール・スミスなんて知らないから。

「じゃあ,もう工場教えてあげるから工場で作りなさい」って回したんですよ,工場に。そしたら工場の大将が電話してきて,「太郎さん話が違うよ,なんか文化屋のデザインをほしいって言ってるんだよ」とか言ってて。

「なんだよそれ」って。「なに,どこで売る?」って聞いたら,なんか「ヨーロッパとアメリカだ」とか言ってるから,「じゃあ,いいよ」って,「日本じゃなきゃいいよ」って(2017年10月14日インタビュー)。

ここでも長谷川はスミスからロイヤリティを取るといったことをしなった。スミスは,アメリカの見本市だけでなく,ロンドン,パリ,イタリアでも文化屋雑貨店デザインの靴下を数多く売ったいう。それ以来,スミスは来日のたびに,文化屋雑貨店を訪れ,大量に買い付けをした。

長谷川の『がらくた雑貨店は夢宇宙』を読んだことがきっかけとなり,その後,閉店まで20年間文化屋雑貨店で働いた内田美貴子(現・内田ミシン)によれば,今でも会うたびに,長谷川のズボンの裾を上げて,どんな靴下履いてるか,絶対チェックするという(2017年10月14日インタビュー)。

こうした交友関係から,長谷川とスミス(図4)は,2013年8月から9月にかけてポール・スミス旗艦店のPaul Smith SPACEで,大型のポップアップショップBunkaya meets Paul Smithをオープンさせた。スミスが撮影した写真を,文化屋雑貨店がトリミング,コラージュ,プリントしたアイテムおよそ60種類が販売された。

図4

ポール・スミスと長谷川義太郎

出所:長谷川義太郎氏より提供

V. 閉店以降(2015年~)

1. 突然の閉店

2000年代に入り,特に長谷川が魅せられたのは,画像を布地や木材にプリントできる熱転写である。イラストや写真を転写した洋服テーブルやバッジなどを販売するようになった。こうしてオリジナル商品が売上の7割となるビジネスに転換していった(Okui, 2015, p. 149)。

こうした中,2014年11月に長谷川は2冊目の自著『文化屋雑貨店:キッチュなモノからすてがたきモノまで』を出版する。しかし本の刊行後間もなく,急に閉店を決めてしまう。関係者は突然のに驚いたというが,同時に,いつも予想がつかない行動をとる長谷川らしい決断だと思われたようである(Takiguchi, 2016)。

閉店が決まると,長年のファンが来店して店がなくなることを惜しんだが,長谷川は湿っぽい雰囲気にすることなく,2015年1月15日の閉店日を迎えたという。元スタッフの内田によると,閉店間際に,突然,長谷川が「タダで商品を持っていっていい」と言い出したため,閉店を惜しみ悲しむ客が突如,興奮して多くの商品をもらおうと殺到し,すべての商品がはけたという。最後まで長谷川らしい,あるいは病院バザールが原点である文化屋雑貨店らしい振る舞いであった。

2. 「人間雑貨」への興味

閉店後は,長谷川は雑貨を作り続け,神田にある元鶴谷洋服店などに卸したり,イベントに参加したりしている。店から解き放たれて自由になった身のことをこのように語っている。

俺なんか,だからこれからなんだ。これから,やりたいことできるわけ。今まで,店という概念でずっと座ってなきゃいけなかった。一歩も出ちゃいけないみたいなもんなのよ,あれって。だけど,ここから先は,平気な顔してあっち行ったり,こっち行ったりできる(2017年10月1日インタビュー)。

しかし彼が興味深いと感じる人々に会いに行き,さらにはそうした人々を紹介してつなげることをライフラークにしている。そうした興味深い人物を「人間雑貨」と長谷川らしい造語で呼んでいる。

例えば陸軍軍人の遠藤三郎の娘がそうである。横浜に住む86歳(2017年現在)のこの女性の夫は,文化屋雑貨店のヒョウ柄のスカーフを製造していた光橋商会の故・光橋英武である。光橋の話を聞きにいったつもりが,甘粕正彦大尉と一緒に写っている遠藤の写真を見つけたのである。遠藤は,東京裁判で唯一無罪になったA級戦犯である。甘粕と遠藤はともにフランス留学をしており,甘粕はフランスで画家の藤田嗣治との交流があったという。こうした「人間雑貨」の「つながり」に興味が尽きないという。

もう雑貨なんてどうでもいい。どんどん人間の方に向いているの。(中略)結局ね,なんだろうな,その人の持っている楽しさとか,美しさとか,生き方とかというのが,おれの雑貨の根本なの。そこにしか興味がない(2017年7月14日,トークイベント「松野屋 All Thats 雑」)。

VI. おわりに

もう日本にはない文化屋雑貨店は,長谷川に縁が深い香港で脈々と息づいている。日本の文化服飾学院でファッションについて学んでいた香港出身のレックス・コーもまた,内田と同様に長谷川に魅せられた若者であった。コーが2008年に香港で開いた文化屋雑貨店は,まもなく10周年を迎える。

豊かな文化資本を背景にしてデッサンを通じて鍛えられた自身の審美眼を,長谷川は文化屋雑貨店という唯一無二の小売店の40年間の経営を通じて彫琢させた。その不可逆的な帰結は,雑貨という定義不可能なカテゴリーの創造であり,日本語における「雑貨」ということばの意味変容であった。このことばを通じた市場創造は,あまりにも消費社会的な出来事であった。

松井 剛(まつい たけし)

一橋大学経営管理研究科教授。専門はマーケティング,消費者行動論,文化社会学。著者に『ことばとマーケティング』(碩学舎),『いまさら聞けないマーケティングの基本のはなし』(河出書房新社),共著に『欲望する「ことば」』(集英社新書)など。

References
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  • an・an (1985). Yasukute kawaikute hokaniha naimono, yappari “bunkaya-zakkaten” no yoshitaro-san ni kiite miru. an・an. 1985, November 29. p. 68.(『an・an』(1985).「安くてかわいくてほかにはないもの,やっぱり『文化屋雑貨店』の義太郎さんに訊いてみる」1985年11月29日,p. 68)(In Japanese)
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  • Hasegawa, Y. (1981). Geijutsutekina kaiga yori boku ni totte ha menkoe no houga harukani kyouryokuna impact wo motteita. BEE HOUSE Tushin. 1981, July 20, p. 1.(長谷川義太郎(1981).「芸術的な絵画より,僕にとってはメンコの絵の方が,はるかに強力なインパクトを持っていた。」『BEE HOUSE通信』1981年7月20日,p. 1)(In Japanese)
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  • Sampo No Tatsujin (2005). Ganso zakkaya koto ‘Bunkaya Zakkaten’ ni kiku. Sampo No Tatsujin. November, 28.(散歩の達人(2005).「元祖雑貨屋こと『文化屋雑貨店』に聞く」11月,28) (In Japanese)
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  • Tsunashima, R. (1991). Bunkaya-zakkaten. Tokyo-jin (1991, December), p. 61.(綱島理友(1991).「文化屋雑貨店」『東京人』1991年12月,p. 61)(In Japanese)
 
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