マーケティングジャーナル
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マーケティングケース
成熟市場におけるデジタル・イノベーション戦略
― クレストホールディングス株式会社を事例として ―
須田 孝徳恩藏 直人
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2021 年 40 巻 4 号 p. 94-103

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Abstract

マーケティングでは以前から,ビジネスを実施する市場の特性に関する議論がなされてきた。とりわけ,市場の成長段階に注目し,成熟市場への参入は避けるべきであると主張されてきた。成熟が進んだ市場におけるビジネスの展開は,イノベーションの誘発が難しく,成熟から衰退という流れの渦に巻き込まれやすい。体力のある大企業であればまだしも,経営資源の不十分な中小企業ともなればなおさらである。そうした中,リアル店舗の看板製作をメイン事業として成長してきたクレストホールディングス株式会社(以下,クレストHD)は,デジタル化による経営効率化と,店舗設置型看板や広告の効果測定を可能とするカメラ「esasy(エサシー)」の開発によってイノベーションに成功した。本稿では,クレストHDが取り組むデジタル・イノベーション戦略に着目し,デジタル化による生産性の向上によって得られた収益をもとに,イノベーションへの投資を行うことでデジタルトランスフォーメーションを遂げる取り組みについて考察する。クレストHDの事例は,中小企業においても,デジタル化による経営効率化とイノベーションによって,成熟市場の中で再活性化ができることを示唆している。

Translated Abstract

Marketing research has long been concerned with the characteristics of markets in which businesses are conducted. In particular, it has been argued that one should focus on growing markets and avoid entering mature markets. Innovation is difficult in a mature market; therefore, businesses easily get caught in a downfall from a mature to a shrinking market. This is especially true for small and medium-sized businesses with insufficient managerial resources. Crest Holdings K.K. developed mainly by producing signboards for retail stores by bringing innovation to this area. Management efficiency was improved through digitalization and development of “esasy”, a camera that enabled observation of the effectiveness of stores’ signboards and advertisement. In this paper, we focus on the digital innovation strategy taken by Crest Holdings K.K. and their process of digital transformation through innovation by spending revenue generated from increased productivity due to digitalization. This case suggests that even small and medium-sized businesses can be revitalized in a mature market by improvement of management efficiency and innovation, if they can become digitalized.

クレストホールディングス株式会社

出典:株式会社クレストHPより抜粋

I. はじめに

マーケティングにおける市場参入戦略の基本として,企業は市場創造や,成長市場に参入すべきであると考えられてきた。反対に,成長可能性が低い成熟市場に参入しても,差別化の源泉を確保することは極めて難しく,参入による恩恵を受けることは難しいと指摘されてきた。

また,成熟市場に身を置くことのデメリットは,なにも市場の成長可能性だけとは限らない。例えば,市場全体の成熟化は,そこでビジネスを展開する企業風土を旧態化させ,イノベーションが起こりにくい文化を蔓延させやすくするだろう。市場の成熟化は,市場だけではなく,企業の活気や緊張感を失わせていくのである。

一方で,市場や製品のコモディティ化が著しい現在においては,成熟市場にあえて参入することで差別化の源泉を獲得できる可能性がある(Onzo, 2007)。例えば,Uberはデジタル技術を駆使することで成熟したタクシー業界に参入し,成功をおさめている。またAirbnbも同様に,ホテル業界に参入しイノベーションを成功させることによって,業界内にて独自の地位を築きあげている。

では,UberやAirbnbなどのようなイノベーションは,ベンチャー企業のみに許された特権なのだろうか。成熟企業が,自らが身を置く市場においてイノベーションを起こし,事業を再活性させるにはどのような戦略を取れば良いのだろうか。本稿では,クレストホールディングス株式会社(以下,クレストHD)が行うデジタル・イノベーション戦略に注目し,成熟したビジネスが再び市場において輝きを取り戻すための方法を検討する。クレストHDはかつて,リアル店舗向けの看板製作をメイン事業とする旧態依然としたビジネスを展開していた。しかし,今日ではデジタル化による経営の効率化と,店内設置型カメラのesasy(エサシー)の開発に成功し,リアル店舗における顧客の購買行動を検証する方法を確立することで業績を伸ばしている。また,近年ではその成功体験を活かし,材木ビジネスやガーデニング・ビジネスなどの成熟化が進む市場へ参入し,新たな分野でイノベーションを成功させることでデジタルトランスフォーメーション1)を遂げている。

クレストHDは成熟ビジネスでどのようにイノベーションを成功させ,発展を続けているのか。本稿では,2016年よりクレストHDの代表取締役社長に就任し,クレストHDの経営効率化とイノベーションに取り組んできた永井俊輔氏への取材を通して,クレストHDの成功要因を分析し,マーケティング・エクセレンスとしてのクレストHDの取り組みを考察する。

II. クレストHDの沿革と事業概要

1. クレストHDの沿革2)

クレストHD3)の歴史は,1985年に群馬県北群馬郡において店舗向け看板の製造や取り付けを主要ビジネスとして開始したことに始まる。その後,1987年に有限会社クレストとして法人登記が行われ,現クレストホールディングス代表の永井俊輔氏の父である永井久志氏が代表取締役社長として就任した。初期のクレストは,カラオケボックスやアパレルを経営する企業を取引先とする,まさに街の看板屋のような企業であった。

その後,会社は成長を続け,1992年には有限会社から株式会社クレストに変更し,1995年にはDTP4)事業にも参入している(現在は事業撤退)。また2007年には,後にクレストHD傘下となる株式会社サンクスネイチャー(現株式会社インナチュラル)の経営権を取得し,2005年及び2011年には業務のさらなる拡大と人員の拡充に伴って,本社を東京都千代田区に移転している。

そして,2016年に永井久志氏に代わり永井俊輔氏が代表取締役社長に就任し,2019年には株式会社東集,株式会社ドラミートウキョウを子会社化すると共に,クレストはホールディングス体制へと移行して現在に至る。

2. 事業概要5)

現在のクレストHDは,クレストホールディングス株式会社を親会社として,株式会社クレスト(以下,クレスト),株式会社インナチュラル(以下,インナチュラル),株式会社東集(以下,東集),株式会社ドラミートウキョウ(以下,ドラミートウキョウ)の4つの事業子会社を携えたグループ企業として事業を行っている。2020年度におけるそれぞれの売上構成比は,クレストの40.0%を筆頭に,東集が31.0%,インナチュラルが23.0%,ドラミートウキョウが3.8%,クレスト・ホールディングスが3.1%となっている6)

図1

インナチュラルの実店舗(イオンモールナゴヤドーム前店)

出典:クレストホールディングス株式会社提供

売上構成の4割を占めるクレストの主要事業が,創業当初から行われているリアル店舗向けの看板やショーウィンドウなどのディスプレイ製作ビジネス(サイン&ディスプレイ事業)である。クレストでは「企画」「デザイン・設計」「製作・施工」「管理・アフターサービス」のあらゆる領域を引き受けることで,リアル店舗を中心に,商業施設やポップアップストアなどの様々な販売促進物,屋内外広告,看板,ウィンドウディスプレイを手掛けている。サイン&ディスプレイ事業では大手流通からハイブランドまでの多様な企業を顧客として,総取引数4,000社を超える業界随一の取引実績を誇る。また,クレストではリアル店舗向けの看板やディスプレイ,広告を見た顧客の行動やデモグラフィックを測定するカメラ(エサシー)の開発,販売を行うリテールテック事業を展開している。

インナチュラルでは,植物を中心にガーデニング用品や花苗,ナチュラル衣料を首都圏の9つのリアル店舗にて販売する小売ビジネスを展開している。またインナチュラルでは,個人邸宅や小売事業者向けにグリーンディスプレイを販売したりなど,植物に関係する商材をB2CからB2Bを対象として幅広く取り扱っている7)

創業65年を誇る東集では,関東を中心とした木材を中心に卸売ビジネスを展開している。卸売事業では主に,木材を乾燥,接着,加工することにより欠点を排除した集成材を中心に取り扱っており,カタログ掲載の規格品から,指定の材種や寸法,加工に合わせた特注品まで,顧客の要望に幅広く対応可能な形で販売を行っている8)

デザイン製作を行うドラミートウキョウでは,空間に関わるデザインについてコンセプトワークやデザインから製作施工を行っている。特に,ファッション,シューズ,スポーツブランド等のVMD(ビジュアル・マーチャンダイジング)デザインを強みとしており,クレストと連携しながら百貨店やショッピングモールに出店されているブランドの,ウィンドウディスプレイやポップアップを含む,イベントデザインを手掛けている9)

図2

クレストホールディングスのグループ概要と主な事業

出典:クレストホールディングス株式会社提供資料より筆者一部修正

III. 旧体制からの事業改革

1. クレストが抱えていた課題

前節で見てきたように,ホールディングス体制以前における初期のクレストはリアル店舗向け看板の製造や取り付けを主要ビジネスとしており,その中核は今も変わらない。特に,創業者である永井久志氏の手腕によって2000年代に入ってもクレストの業績は右肩あがりで,創業地の群馬県で「サイン&ディスプレイのクレスト」といえば,飛ぶ鳥を落とす勢いを持つ看板屋として名を馳せていた(Nagai, 2019)。一見すると順調に成長を続ける企業ではあったものの,現社長の永井俊輔氏がクレストに入社した際に抱いた会社への印象は,決して良い面だけではなかった。

永井氏は大学卒業後に投資ファンドに就職し,その後,2009年にクレストに参画している。永井氏がクレストに入社した時に感じた最初の印象と課題は,成熟した中小企業に多く見られる旧態依然とした非効率な組織運営であった。例えば,顧客の案件や見積書のデータが個人のエクセルデータで属人的に管理されている,営業のノウハウや顧客とのやりとりが共有化されていないなど,当時のクレストは顧客との関係が個人ベースで管理されている状態であった。クレスト参画以前に務めていた投資ファンドや,投資ファンド在籍時に関わりがあったベンチャー企業などに比べ,組織の運営に圧倒的な遅れを感じたという。

永井氏が課題だと感じたのは非効率的な組織体制だけではない。当時のクレストはサイン&ディスプレイ事業を主軸としつつ,DTP事業やインナチュラルが運営するガーデニングや小売事業によって,毎年増収増益を続ける順調な経営状態にあった。しかしながら,2010年になると,これらの業界が変革期を迎えつつあった。例えば,クレストのDTP事業は1990年代から2011年頃までは最新機材を導入し,高い収益率を誇っていたものの,ソフトウェアのパーソナル化や技術の一般化によって市場そのものが縮小し始めていた。小売業界においても,ECの台頭によってウェブページやデジタル広告への投資に注力する小売事業者が増えるとともに,リアル店舗への販促費を縮小する傾向が見られ始めていた。実際,永井氏は入社直後に担当したサイン&ディスプレイ事業についても,「市場の成長性は高くない」とすぐに感じた(Nagai, 2019)。

2. ITツールの導入による経営効率化

クレストが抱えていた上記の課題を解決するため,永井氏はITツールの導入による効率的な組織運営を目指した。永井氏はCRMやマーケティング・オートメーションの仕組みを独自で習得し,当時担当していたサイン&ディスプレイ事業の仕事に取り入れていくことで,組織体制の抜本的な改革を少しずつ実行していった。具体的には,G-Suiteやworkplaceなどの導入による社内コミュニケーションの可視化,Docu Signなどの導入によるクラウド上での契約手続きや契約管理,Google Data StudioなどのAIやBIツールの導入によるデータ収集と分析結果の可視化,SmartHRの導入によるクラウド上での労務や人事管理などを行うことで,経営効率化を図っていった。

永井氏を中心としながら,ITツールの導入によるビジネスプロセスの構造化や可視化を行うことによって,クレストは経営効率化を達成するとともに,サイン&ディスプレイ事業の売り上げは大きく伸びる結果となった。

3. esasy(エサシー)の開発

ITツールの導入による経営効率化の成功は,永井氏にデジタル化やイノベーションへの関心をより強くさせるきっかけになる。2010年頃に変革期を迎えていたクレストのサイン&ディスプレイ事業を再活性させるため,永井氏はリアル店舗に設置する看板や広告に新たな機能をつける,ビジネスのイノベーションを模索した。

そもそも,クレストの主要ビジネスであったサイン&ディスプレイは,小売事業者がクレストに発注を行い,依頼を受けたクレストが看板や屋外広告などを製作,設置することでビジネスが完結していた。店舗に設置する看板の特性上,自分たちが作った商品の効果測定を行うことが出来ず,自社製品の効果を売りにした提案や,製品提供後における改善案の提示などが行えていなかったのである。デジタル化の流れが加速しつつあった当時,ウェブ広告の世界では広告のクリック率などからコンバージョンを統計的に把握し,効果検証を行うことが当たり前となりつつあった。そのため,デジタル広告の脅威を強く感じるとともに,なぜ看板や屋外広告では十分な効果検証がなされてこなかったのかを疑問に抱いた。

そのような時に,たまたま自動販売機に搭載されたカメラを見たことが,クレストのイノベーションの原点となる。カメラを店舗向けの看板に設置することが可能となれば,看板を目にした人の入店率や通行量との比較が行えるようになる。また,複数案のショーウィンドウ・ディスプレイを比較して効果検証を行うことができれば,より高い有効性が保証されたデザイン案を提案できるなど,検証結果を活かした営業活動が可能となる。こうして,店舗向けの看板やディスプレイに搭載でき,効果測定を行えるカメラの開発がスタートした。

数々の失敗や試行錯誤の結果,2016年にEye Sight Attention Systemの頭文字から「esasy(エサシー)」と名付けられたカメラが完成する。エサシーのプロトタイプは,インナチュラルの店舗でテストが進められ,店舗前の交通量や顔検知による入店量の把握が行えるようになった。また,その後に改良を重ねた「esasy V2」によって,年齢や性別推定なども行えるようになり,より正確な効果測定が可能となることで,リアル店舗における看板や広告製作事業におけるイノベーションを成し遂げた。現在では,エサシーに加え,RETAL SCOPEやXovisといったカメラの製品ラインナップを強化し,インナチュラルの店舗のみならず,大手専門店,飲食店,商業施設などの様々な業種で導入が進められている。また,Covid-19の影響を考慮するため,店舗内の混雑具合を把握するためにもエサシーを活用する企業が増えているという。

図3

esasy(エサシー)

出典:クレストホールディングス株式会社提供

ITツールの導入による経営効率化と,エサシー開発によるイノベーションの達成によって,クレストは市場における立ち位置を大きく変えることとなる。創業当初は,群馬県の顧客を中心とした店舗向けの看板を製作する企業であり,小売事業者からは発注を孫請する立ち位置であった。しかし近年では,サイン&ディスプレイ事業による看板や広告製作にとどまらず,エサシーなどによるデータ収集や分析を行うリテールテック事業など,クレストは顧客のマーケティング活動を幅広くサポートすることが可能となった。例えば,カメラから収集されたデータをもとに広告投入効果の分析に基づいた次回の広告提案を行えるようになった。データに基づいた信頼を獲得することで,クレストは小売事業者からの案件を直接受ける立場へと変革を遂げたのである。実際,2010年から2020年にかけてクレストの顧客数は約7倍に増加し,2016年から2020年にかけて7.2%の粗利率改善を達成している10)

サイン&ディスプレイ製作という成熟ビジネスにおいて,ITツールの導入による経営効率化と,店舗設置型看板の効果測定を可能とするイノベーションを成功させたことで,クレストはDXを成し遂げたのである。

IV. クレストホールディングスへの飛躍

1. レガシーマーケットイノベーション

ITツールの導入による経営効率化とエサシーによるイノベーションの成功により,クレストは成熟市場において他社との差別化に成功した。永井氏はクレストの経営効率化とイノベーションを行う過程において,成熟企業が持つ価値に改めて気づいたという。

ベンチャー企業などがイノベーティブな製品を開発する場合,当該市場や業種にどのような課題があるのかを一から把握しなければならない。また,実際にイノベーティブな製品を開発する際の費用は,導入後に利益を得られるようになるまで回収することが出来ず,さらに導入するまでの顧客構築のプロセスも一から始めなければならない。

一方でクレストなどのように,既に事業を確立している企業は,製品開発に投資するための資金を既存事業から創出できれば,ベンチャー企業のように開発費の出資を募る必要がない。さらに,既存事業において築き上げてきた顧客ネットワークがあるため,当該市場における顧客の悩みや課題などをヒアリングしなくても,常日頃から課題を把握している可能性もある。実際,エサシーは永井氏個人がサイン&ディスプレイ製作のビジネスに抱いた疑問から生まれたイノベーションであり,開発においてもインナチュラルの店舗で使用しながら改良を重ね,その後に大手百貨店へのテスト導入の獲得へと結びつけた。イノベーションの成功を促す企業資産が蓄積されていることは成熟企業ならではの強みであり,ベンチャー企業にはない大きな価値である。

永井氏は,クレストなどのように,古くから築き上げてきた資産をもとに,成熟市場でビジネスを展開する企業を「レガシー企業」と位置づけ,レガシー企業がイノベーションを起こすための戦略を「レガシーマーケット・イノベーション(以下,LMI)」と名付けるとともに,その方法を整理した。図表4は,その具体的な方法をマトリックスにまとめたものである。

図4

レガシーマーケット・イノベーション(LMI)の構図

出典:クレストホールディングス株式会社提供資料より筆者一部修正

LMIを実現するうえで重要となるはじめのステップは,成熟化が進んでいる既存ビジネスの生産性を,ITツールの導入などによって高めることで,事業を高度化させることである。LMIのマトリックスにおいては,第3象限から第4象限へのシフトが最初のステップにあたる。クレストの場合,永井氏が入社してすぐに配属されたサイン&ディスプレイ事業において,CRMソフトによる顧客管理のデジタル化やマーケティング・オートメーションを行った。その結果,顧客データの蓄積と分析が実現可能となることで,売り上げを大きく伸ばすことに成功している。クレストがそうであったように,成熟企業は旧体制で非効率的な経営が行われていることが多く,組織としての活力も停滞している。そのため,ITツールなどを的確に導入することで経営の効率化が進み,売り上げが改善される可能性が高く,その結果として,イノベーションを生むための資金を確保することに繋がるのである。

デジタル化による経営の効率化によって資金を確保できたならば,次に行うべきことは,イノベーションへの投資である。LMIのマトリックスにおいては,第4象限から第1象限へのシフトがこの段階にあたる。クレストでは,サイン&ディスプレイ事業の改善によって得られた収益をもとに,エサシーの開発を行った。イノベーションを成功させたならば,高度化された産業は花形ビジネスへと昇華し,成熟市場にあっても高い革新性と生産性を備えたビジネスへと変容する。

LMIで注視するべきポイントは,クレストのような中小企業では,2段階のシフトを行う必要があるという点である。UberやAirbnbなどのベンチャー企業の場合は高い革新性を備えているため,第2象限から第1象限へのシフトを行うことで成長する。また大手企業は,既にイノベーションを行うための資金を所有していることが多いため,第4象限から第1象限へのシフトによって花形ビジネスへと昇華できる。一方,成熟市場に身を置く中小企業は,1回のシフトで自社ビジネスを花形にすることは難しい。そこで,デジタル化による経営効率化と,自社資産を活用したイノベーションによる2段階のシフトが重要となるのである。

2. LMIの横展開

2016年にクレストの代表取締役社長に就任した永井氏は,サイン&ディスプレイ事業の再活性によって着想を得たLMIを,他の産業にも活かせるのではないかと考えた。そこで,2019年にはクレストをホールディングス体制に移行すると共に,クレストHDの経営理念を「Legacy Market Innovation」とすることで,様々な成熟市場におけるビジネスのデジタルトランスフォーメーションを成し遂げるための経営方針へと舵を切った。

その先駆けとして,クレストで培われたデジタル化による経営効率化の取り組みをパッケージ化し,インナチュラルに適応することで生産性の改善を図った。また植物卸売のイノベーションとして,B2B向けの祝花最適化事業(Flower GO)を提案した。Flower GOでは,これまでに祝花として慣習化されてきた胡蝶蘭を送るのではなく,インナチュラルの従業員が移転先のオフィスに合わせて観葉植物を選定し,その植物を祝花として受け取れる仕組みを確立することで,胡蝶蘭の廃棄に悩まずに新オフィスでも最適なグリーン環境を作れる仕組みとなっている。また東集でもクレストと同じくデジタル化による経営の効率化を行ったうえで収益を改善し,建設木材販売業界の課題であった物流におけるイノベーションを行うべく,GPSによる位置情報の取得と,ERP上にある顧客からの注文データから配送先をAIによってルートと到着時間を計算し,顧客に事前に伝達する木材配送最適化サービス(MOCCI)を開発することで,業界の課題解決に乗り出している。

V. マーケティング・エクセレンスとしてのクレストHD

本章では,上記で概観したクレストHDの沿革と取り組みについてマーケティングの視点からの考察を行い,エクセレンスを議論する。クレストHDの主要ビジネスであったサイン&ディスプレイ製作や,植物卸売,材木卸売などは典型的な成熟ビジネスの一例である。古典的なマーケティング戦略のテキストでは,市場成長性の低い成熟市場への参入は望ましい意思決定ではないと考えられてきた。市場参入戦略においては先発者優位を確保するために,市場創造もしくは差別化可能な成長市場へ参入すべきであることが強調されてきた。

一方で,多くの市場が成熟段階に入った今日,企業はコモディティ化した成熟市場への参入を余儀なくされている(Onzo, 2007)。そこで,成熟市場の中で創造的改善を進めるための戦略や(Schnaars, 1994),成熟している市場そのものに光をあて,再び活性化させるための動きについても論じられてきた(Baden-Fuller & Stopford, 1994)。

そうした中で,クレストHDが示したレガシーマーケット・イノベーションの枠組みは,成熟市場に身を置く中小企業が取るべき戦略の道筋を示した点にマーケティングとしてのエクセレンスがある。ベンチャー企業や大手企業とは異なり,デジタル化の遅れやイノベーションへの開発コストを算出することが困難であっても,それぞれの課題を2段階分けて解決していくことで,中小企業であってもデジタルトランスフォーメーションを遂げられることを成熟市場で再現している点は特筆に価する。また,一定程度の歴史を有する企業であれば,過去から蓄積されてきた経営資源があり,実際にイノベーションを起こす段階では,この資源こそが他の企業にはない競争優位性となる。クレストHDのように,顧客の課題やニーズを長年に渡って把握してきたことで得られた資源が,イノベーションを正しい方向に導くための鍵となるのである。

VI. 結びにかえて

元GEの最高経営責任者であり「伝説の経営者」としても知られるジャック・ウェルチは,自身の著書において「市場が成熟しきってしまうことはない。(中略)市場を再定義すれば,それまで成熟した市場に見えていたものがビジネスチャンスにあふれた市場に変わる」と述べている(Welch & Byrne, 2001)。クレストHDは,自社が対象とする成熟市場に対して,視点を変えることで価値を見出し,デジタル技術を用いてイノベーションを成功させることでビジネスチャンスを生み出すことに成功した。また,その取り組みを活かし,他の成熟ビジネスにおいてもイノベーションを成功させ,新たな価値を生み出すステップへと発展を遂げている。クレストHDの取り組みと成功は,まさにジャック・ウェルチの考えを体現させたと言っても過言ではないだろう。クレストHDが示したレガシーマーケット・イノベーションは,成熟した市場に身を置く中小企業のみならず,イノベーションを実行させたい多くの企業に対しても大きな示唆を与えるはずである。

謝辞

本稿の執筆にあたっては,クレストホールディングス株式会社代表取締役社長の永井俊輔様に,インタビューや資料提供などでご協力いただきました。ここに記して心より感謝申し上げます。

1)  本稿におけるデジタルトランスフォーメーションとは,Ministry of Economy, Trade and Industry(2018)が定義する「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し,データとデジタル技術を活用して,顧客や社会のニーズを基に,製品やサービス,ビジネスモデルを変革するとともに,業務そのものや,組織,プロセス,企業文化・風土を変革し,競争上の優位性を確立すること。」に順ずる。

3)  本稿では,クレストホールディングス株式会社が論の主語となる場合は“クレストHD”を,ホールディングス体制以前及び現株式会社クレストが論の主語となる場合は“クレスト”の略称を用いる。

4)  デスクトップパブリッシング(desktop publishing)の略称。

6)  2020年8月18日に行われた筆者らによる永井俊輔氏へのインタビュー時に提供された会社資料より。

8)  Toshu, K.K.(n.d.)より。

10)  前掲注6)に同様。

須田 孝徳(すだ たかのり)

早稲田大学商学研究科博士後期課程。成蹊大学経済学部を卒業後,早稲田大学大学院商学研究科修士課程を修了。現在,同大学大学院商学研究科博士後期課程に在籍。修士(商学)。専門は,消費者行動。

恩藏 直人(おんぞう なおと)

早稲田大学商学学術院教授。早稲田大学卒業後,同大学院商学研究科へ進学。博士(商学)。専門は,マーケティング戦略。

References
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