抄録
有機化合物の液晶化や金属の超伝導転移など、多数の要素が相互作用することで生み出される協同現
象は、多くの研究者を魅了し続けている。一方、細胞あるいは細胞内の生体分子といった生命現象に関
係する要素の多体系においても、様々な協同現象が観測され、その物理的性質の研究が進められている
(過去の夏学テキスト[1–4] 参照)。特に、線虫の初期胚においてタンパク質が液液相分離を起こしてい
ることが発見され[5]、細胞内で生体分子を局在させる普遍的機構として相分離が注目されるようにな
ってきた[6]。タンパク質はアミノ酸残基の一次元配列で構成されるが、遺伝子強制発現や精製タンパ
ク質を利用した実験からは、相挙動を決定づけるアミノ酸配列の一般規則(分子文法と呼ばれる[7])が
存在するのではないかという仮説が立てられている。凝縮系物理の立場からは、分子文法を明らかにす
るという問題は、アミノ酸残基同士の相互作用に基づいてタンパク質の相挙動を説明するという統計力
学の問題に他ならない。本テキストでは、生物と物理の境界領域で発展するタンパク質相分離の研究を
概観し、分子文法の解明に向けた数値的・理論的研究を紹介する。
まず第2節で、タンパク質の相分離現象を概説する。生体分子の作る凝縮体についてわかってきたこ
とを簡単に紹介し、相分離を駆動する分子機構や、タンパク質のアミノ酸配列に依存した相挙動につい
ても説明する。次に第3節では、タンパク質の相挙動を説明・予測するための数値的アプローチを取り
上げる。粗視化分子モデルに基づく分子動力学シミュレーションや場の理論的シミュレーション、また
stickers-and-spacers モデルを用いたMonte Carlo シミュレーションを紹介し、それぞれの特徴と応用
例を説明する。続いて第4節では、統計力学に基づく理論的アプローチを概説する。特に、ビリアル展
開、乱雑位相近似、平均場近似といった近似理論とそれらの応用例を紹介する。数値的・理論的アプロ
ーチともにまだ決定版と呼べるものはなく、現在も分子文法の解明に向けて計算物理やポリマー物理な
ど各方面から方法論が模索されている。第5節では、まとめと今後の展望を短く述べる。